第十三話 貴妃の教育
そんなわけで、紅藍姫が来てからの淑妃の血圧は軒並み上昇の一途を辿っていた。
今は若さで血管の柔軟性を維持しているが、年老いたらーーと、不老のくせしていらぬ心配をする淑妃の子飼いの男妃達に泣きつかれ、四妃のドン、それも後宮の裏の最高支配者たる貴妃こと瑯玕が一肌脱ぐことになった。
すなわちーー。
「紅藍姫、あなたは淑妃をかなりコケにしてますが、あれは『眠れる獅子』です」
「『眠りの美女』?」
瞬間、四妃の中で最も麗しく清雅な美貌を持ち、典雅な色香を漂わせる瑯玕の額に青筋が浮かんだ。
「獅子です、獅子」
「きっと雌ね! しかも、多くの雄達を争わせて最終的には絶滅に追い込む魔性タイプのっ」
「そんな野生動物は存在しませんっ!」
たとえ制御されていても、子孫を作り繁栄を求める生物の遺伝的本能にそんなプログラムなど存在してない。
「とにかく落ち着きましょう。あれは男です」
「ええ、男の『娘』でしょう?」
あれ?なんかおかしい。
どうしたらそんな誤変換が。
「凪国では『男の娘』は『男』、『女』、『両性具有』に続く第四の性らしいわっ!」
「んな事聞いてませんよっ!」
しかもまた凪国かっ!
「見て! この取り寄せた凪国の辞書にはっ」
監修ーー明燐。
その名を見た時、瑯玕はそれが完全な欠陥書物である事を悟った。
そして、その辞書を叩き捨てた。
「いっやああぁぁ! 何するのよっ! この私が侍女見習いの仕事をして初めて得たお給金で買った辞書がっ」
「ロクでもないものを買わないでくださいっ!」
初給金ともなれば、それはある意味一生の記憶に残るもの。
平民ですらそうなのだから、貴族の子女として産まれた紅藍にとっては尚更だろう。
というのも、貴族の令嬢が働くなど、『昔なら絶対にあり得なかった』事なのだから。
そう、昔なら。
重要な事なので二度言った。
というのは、大戦以降ーー現在の貴族に関しては、戦力とみなされた上で自ら望んで王宮勤めする令嬢達も、本当に、ほんと~に少しずつは出てきており、それこそ『貴族の令嬢達が働くのは絶対にあり得ない』という概念が少しずつ打ち砕かれてきているからである。
だから、今は『絶対』ではないのだ。
しかし、紅藍の家はその例には当てはまらない。
まだまだ大戦前の旧体制の貴族そのもの。
権威と地位にあぐらをかき、贅沢と搾取を当然とし、課せられた義務と仕事を無視するたちの悪い貴族の部類に属している。
あの、姉達を見れば特にそうだ。
だが、それは特段紅藍の家が珍しいのではなく、まだまだそんな貴族はザラにいた。
ただ大戦前に比べれば、心ある貴族が格段に増えて来ているのも事実ではあるが。
しかし、中々浸透したその悪習を正すことは難しく、まだまだ我が物顔でのさばる勘違い貴族達も多い。
そしてそんな両親を持ち、そこで養育されてきた紅藍。
だからこそ瑯玕は、彼女ーー紅藍の文句一つ言わない働きっぷりに感心していた。
藍銅との勝負ではあれだけ文句をつけるが、王妃様の侍女見習いとしては黙々と仕事をこなす。
いや、まだこなすというには余りにも未熟で学ぶ事の方が多いのだが、どんなに厳しい指導があっても、紅藍が文句や我が儘を言うことはなかった。
今に見ていろーーと、キッと唇を噛みしめて努力する事はあっても、逆恨みの『さ』の字もない。
これが高慢で我儘かつプライドの高いお姫様なのか?と本気で疑う姿がそこにあった。
ーーといっても、今現在は、紅藍を我が儘娘と思う者達は殆ど居ないが。
それも当然だろう。
それだけ紅藍は真面目に侍女見習いをしている。
また、元奴隷の楓々を蔑むことなく、むしろ自分から友達になってと頼み今では仲の良い友神となり、そこに裏も表もない。
更には、お忍び先で奴隷を虐げるバカをやり込めたその姿には、影達すらも一目置いていた。
そして何より、今までの藍銅との勝負の数々を見てもーー。
負けた事に文句をつけても、一度も卑怯な手を使わなかった。
全て、自分の力で挑んできた。
他者の力を借りて勝つ事も出来たのに、それをせず、己が力で勝利を得る事に全てを賭けてきた。
その清々しさは、瑯玕も好感を持てた。
しかしーーだからといって、このままでは藍銅が血圧上昇の末にプッツンして棺桶行きとなるだろう。
瑯玕にとって藍銅は大切な友。
まだ愛する神も結婚もせず、更には幸せな家庭も築いていないのに冥府に行かせるなんて冗談ではなかった。
ーーと、いつも藍銅を虐げている筆頭の瑯玕は、自分の事を棚に上げて紅藍を教育する事を決めた。
「紅藍姫、海国には海国独自の文化や歴史があります。たとえ良い所は見習ったとしても、他国を全て基準にしてはなりません」
「え? でも、明燐様の奴隷は国境の垣根ない万国共通だって」
ああそうだろう。
むしろ何処にでもいる、あの女王様の奴隷は。
一度味わったら最後、全てと引き替えにしてでもーーというほどの中毒性だというから。
と言ったのは、海国宰相だったか。
『お~ほほほほほ! さあ、哀れな家畜達に私からの洗礼を差し上げてよっ』
それはまだ大戦中の頃。
後の海国上層部となる海王率いる軍と、ある合同作戦で共に戦う事になった後の凪国上層部の所属する凪王率いる軍が合流し陣営を隣同士にしていた際、かの女王様はそう言って海王率いる軍の猛者達を鞭で叩きまくったとか。
そして、下僕にしたとか。
いや、奴隷として忠誠を誓わせたとか。
事を知って回収しに来た女王様の兄が返り討ちになった時には、ヘタレと叫んだ海国宰相。
彼が凪国宰相に暴言を吐けたのは、その時が最初で最後だったとか。
基本的に、凪国の下僕国である海国。
そして、海国の上層部も凪国上層部の下僕である。
だが、それに涙する事はない。
他の水の列強十カ国も全部、実質的には凪国の下僕だから。
凪国と一、二を争う津国も、実際にはーーね。
そうして、妹にはドMな凪国宰相も、海国宰相を足蹴にしている姿は正しく女王様の兄。
そうーー身内にはドMだし、その美貌も他者の加虐心を激しくかき立てるものだが、ただのドMであれば凪国上層部に名を連ねるなんて不可能だっただろう。
それこそ、宰相の地位に就くことも夢のまた夢に過ぎなかった筈だ。
それを可能にするだけの才に溢れていたからこそ。
他の上層部を圧倒し従わせるだけのものを持っていたからこそ。
己が才覚と実力で、凪国上層部筆頭の地位を勝ち取った。
その姿に、ドM的要素は見当たらないーーたとえ、美貌と漂わす雰囲気と色香がドMでも!!
その行動はドMとはほど遠くてーー。
『果竪! 諦めろ、真っ平らな胸が好きだって言うマニアもきっと居るっ!』
溺愛する凪国王妃にそうのたまい、しばらく口を聞いてもらえず影で泣いていた凪国宰相のドM姿を溜め息交じりに思い出話として語った海国宰相の姿が脳裏に浮かぶ。
……そんなドM宰相でも、うちの国の宰相より、上、強い、鬼畜。
そして海国は凪国に敵わない。
あれ?涙出てきた?
「……泣いてるの?」
「……」
「もしかして、貴妃も明燐様の奴隷なりたかったの? 志願して断られたの?」
「してもいないし、この私が断られるものかっ!」
「貴妃って何気に自信家だよね」
少々呆れられた眼差しを向けられ、瑯玕はハタッと我に返った。
「と、とにかく、奴隷の事は良いです」
「そういえば奴隷はあまり良い物じゃーーってか、奴隷制度が廃止された今はとっても悪い事だよね? けど、でも明燐様の奴隷は『幸せな志願奴隷』だから良いって聞いたんだけど、そうなの?」
「私にその答えを求めないで下さい」
なんだその究極の質問。
瑯玕は早くも紅藍の教育を放り出したくなった。
いや、別に誰に頼まれたわけでも任されたわけでもないから、いつ放り出したって良いのだが、責任感の強い瑯玕にとっては一度手を付けた事は最後までやらないと気が済まない。
だが、上には上が居た。
「ってか、明燐様の話をしてたら会いたくなってきちゃった」
「やめてください、恐ろしい」
「あ~あ、なんかもう、この国が凪国と隣同士だったら良かったのに。そうしたらもっと交流が」
「マジで恐ろしい事を言わないでください!」
隣同士?
あの化け物国家と?
味方にしたらこれほど心強い存在はない。
炎水界において、第一位の大国であり、炎水家の信頼厚い巨大帝国。
国土や国力はおろか、全てが他国と絶対的な差を有し、その絶大たる力でこの炎水界に君臨する。
水の列強十カ国の第一位ーー凪国。
炎の列強十カ国の第一位すらも、凪国の前には屈する。
史上最強の大帝国ーーそれが、あの凪国。
とはいえ、かの国は決して力を面白半分に振るうことなく、喧嘩さえ売らなければ何のことはない。
友好的で、困っている国には援助を差し伸べ、炎水界の発展に尽力する。
しかし、一度牙をむけばかの国に勝てる国がこの世界に存在するのかーー。
炎水家を除いて、瑯玕はそんな国など知らなかった。
他の国々がタッグを組めばまだしも、あの凪国の事だ。
沢山の闇をばらまき疑心暗鬼というなの亀裂をもたらすに違いない。
『凪国に手を出すな、怒らせるな、目覚めさせるな』
あの国こそ、真の『眠れる獅子』。
何もしなければ、過ぎたる欲望を向けなければ何もしない。
この炎水界が、表面上だとしても安定しているのは、獅子が眠っているからである。
「本当に、本当に凪国は恐いんですよ! ああ恐ろしい! あの国と離れていて心底私は心が安らいでいますよっ」
隣同士になんてなったが最後、瑯玕の恐怖に怯えて眠る事さえ出来ない。
「そんなに恐ろしいの?」
「あそこは別名『魔窟』、『悪の巣窟』、『カオス』ですから」
「多いわね、別名」
しかもロクなものがない。
「とにかく! あの国を基準にしてはなりません!」
「え~」
「え~ではないですよ! それに、他の国の基準を参考にしても、全く同じ物を導入する事の危険性は大きいんですから」
得に一番恐いのは、その思想である。
どんな時にも、主流に反論する思想がある。
そしてそれがあるからこそ、新しい物は生まれ、止まり淀むことなく流れていく。
「……ちょっとでも駄目なの?」
「むしろその発言の意図が分かりません。ちょっとだけ隣ってどんな状態ですか」
凪国は移動国家か?
「けど……凪国が隣だと、王妃様も里帰りしやすいのに」
「……」
瑯玕が言葉を詰まらせた。
王妃ーー凪王の後見はあったが、それでも殆ど身一つで見知らぬ国に嫁いできた平凡な庶民の少女。
しかも来てみれば全てが偽りで、突然王を男として見ろと迫られた。
普通だったらとっくの昔に逃げ帰られているだろう。
しかし、王妃様の身内はすでになく、いくら凪国が祖国と言えど、王妃のままでそう長く帰る事も出来ない。
ならば王妃でなくなればーーと言うのはまず無理だ。
あの王が赦さない。
美しく気高く、聡明で賢君と名高い孤高の海王。
そんな彼が唯一心から欲した相手をどうして手放すだろう。
離縁せずとも側室でーーという馬鹿も居たが、王がそれを受け入れるはずも無い。
しかも本来ならあり得ない、王妃として嫁ぐ少女に侍女の一神も付けさせず、身一つで来させた。
それも王の独占欲がゆえに。
周囲から真の意味での味方を廃し、全て海国の者で囲んで逃げられないようにする為に。
男妃達だってそうだ。
そもそも男妃達自身が王妃様を逃すつもりもなく、望んで嫁いで来た少女に侍った。
そして囁き続けるのだ。
王は貴方を愛していたからこそーーと。
卑怯で身勝手で傲慢な所行。
それでも、王の為にと選び、今は自分達の為にと選び続ける。
側に居ると心地よく、心から愛しいと思える存在を縛り付ける為に。
それは恋ではない。
男と女のそれではない。
けれど、愛しいのだ。
もう、凪国に一日たりとも帰せぬほどに。
しかしーー王妃様の方は帰りたいのかもしれない。
いや、帰りたいはずだ。
何事もなければ、凪国で静かに暮らしていた、そんな普通の生活すら奪い取って。
でも、手放せない。
それほどまでに、あの存在に溺れているーー。
「それにね、王妃様が里帰りする時には、私も連れて行ってくれるって言ってくれたのよ」
どこかウキウキとした紅藍は、それが遠くない未来にあると信じている。
けれど実際には、それは果てしなく遠い。
いや、全く行かないわけではないがーーたぶん、ずっとずっと後の事だろう。
特に今、王は片時も王妃を離そうとしないのだからーー。
まあ、よく紅藍や楓々と共に抜け出されているけれど。
というか、先に王妃様を教育した方がいいか?
紅藍を教育するより、よほど聞き分けよくしてくださるに違いない。
こっちは無理だ。
瑯玕はまだ一時間も経ってないのに、紅藍への教育を諦めた。
「凪国に行ったら、ナマ明燐様に会えるかしら?」
「居ない日を選んで行ってください、行くとしたら」
というか、そんな日は来ない。
なぜなら、明燐は凪国王妃の侍女長であり、いついかなる時もビッタリと張り付いているらしい。
そして凪国王妃自体が後宮にほぼ軟禁状態な為、まずそこから動かないだろう。
駄目だ、絶対に今以上の悪影響を与えられる。
藍銅の血が逆流してしまう。
「それで、眠れる美女がどうしたの?」
「美女じゃないです」
これを藍銅が聞いたら、たぶん血管が幾つか切れるだろう。
「まあーーもう良いです」
本当は良くないが、これ以上付き合っていれば自分にも火の粉がかかるとして、瑯玕はあっさりと紅藍への関わりを放棄した。
「話は終わり? じゃあ」
「またお忍びですか?」
「違うわ、デートよ」
何故かデートにこだわる紅藍だが、使い方が間違ってるし相手も間違っている。
「デート、ねぇ」
まあ、デートといってもお忍びだろうが。
「この前はね、王妃様と『二人の愛は熱々肉まん』を一緒に買い食いして、お洒落な喫茶店で『恋神カップル限定パフェ』を食べて、夕方は夜景の綺麗な山の上のレストランでディナーを食べたの! 楽しかったぁ」
いや、なんで王妃様と居るのに恋神カップル限定パフェが注文出来るんだよ!!
「なんか、ラブラブな二神にプレゼントって」
「どこの店ですかっ!」
後できちんと営業停止にしなければ。
客を見る目がなさ過ぎる店の存在意義など無い。
「で、アクセサリーショップにいってお揃いの指輪を買ってつけてるの」
ほら、と見せた紅藍の左手薬指に填まる、指輪。
「つける所間違ってるでしょう!!」
「は? どこにつけようと私達の勝手でしょうがっ!」
しまった。
一般常識もない、この姫。
「紅藍姫、よくお聞きなさい」
「何?」
「この私が馬鹿でした。一度は放棄した身ではあり、今も他の大部分は藍銅に全て押し付けてしまおうとも思っています。が、これだけはこの私直々に指導してみせましょう!」
そうーー
「王妃様に関する事だけはっ!」
「え? 王妃様の事なら沢山知ってるけど」
チーーン。
その日、紅藍は不用意な一言という言葉を学んだ。
怒り狂った瑯玕に正座させられる事数時間。
ついに耐えきれなくなった紅藍が逃げ出した先は、もちろん藍銅の所。
紅藍の事で血圧上がりまくりだというのに、居なくなればウロウロと落ち着かなくなっていた藍銅。
そんな自分の元に飛び込んできた紅藍に藍銅はゾクリとした。
だって、涙目で上目遣いされたから。
しかしーー。
「瑯玕は鬼よっ!」
なんで、貴妃は名前で呼んで俺は妃の地位名?
釈然としない気持ちに藍銅は激しく悩むが、それでもちゃっかりと腕は紅藍の背にまわっていた。