3・アレグロ・フェローチェ(快速に恐ろしげに)
駅からの雪道を踏みしめて、オルラック社長は急ぐ。社長の顔が強張っているのは、冷たいみぞれのためだけではない。約八年、オルテップをラルシアの許に預けた。……家賃不要? 確かに家賃は不要だった。細々とした費用は社長負担? 確かに負担した。それにしても、「家賃」よりも「細々とした費用」の方が大幅に高くなるとは、何も聞いていなかった!
「全く、あの女は、とんだ守銭奴の女狐だ!」*20
ぎょっと、シルニェ語の分かった一同が、社長の独り言に振りかえる。間の悪いことに、教会から出てくる新郎新婦を迎える人々が傍らにいた。
「失礼……」とエクスード語で言いながらオルラック社長は先を急ぐ。
結婚式に立ち会っていた一同は、おずおずと婚礼のための合唱を再開した。
「……真心を持って、共にお進みなさい」
ふと、社長は立ち止まり、新郎新婦に振りかえる。……ニルゴーレン。
最近になって、ルニャフの名はナセルデュークにも轟くようになった。オペラ作曲家としてではなく、「結婚行進曲」の作者として。その結婚行進曲は、ルニャフの歌劇『ニルゴーレン』の中の合唱曲だったのである。……してみると、甥を音楽留学させずに、ルニャフの歌劇に出資した方が得だったのでは?
冬の太陽が沈んだ。……急ごう。話によっては、甥を夜汽車に乗せて、連れ帰らねばならぬ。
さらに数ブロック。甥のアパートからファルクの音が聞こえた。社長は見上げる。甥の部屋にだけ、窓辺に明かりが見えない。ただ、暗闇の中からファルクの音が響くのみ。社長は溜め息をついて、階段を駆け上がった。
ノック。部屋の中から聞こえていたファルクの音は、途絶える。
「どなた?」とオルテップ。
「叔父のオルラックだよ」
「叔父さん」と一一歳の少年がドアを開ける、「久しぶりです」
「聖オロシン祭おめでとう」とオルラックは、金貨の入った靴下を甥に贈る。
「ありがとう」とオルテップが靴下を受け取る、「助かります」
「入るぞ」と言いながら社長は甥のアパートに入る、「もう少し頻繁に手紙と……あれを送ってくれなければ、困るぞ」
「あれ?」とオルテップ、ドアを閉めながら尋ねる。
「ええと、最近出回りだした、あれ……。あ、そうだ、『写真』とか言った、かな」
「はい」と苦笑しながらオルテップは俯く。その隙に、オルラックは甥のアパートを見回す。キッチンがきれいだ。あまり使っていないのだろう。
そっとオルラックは甥の頬を撫でる。
「……叔父さん?」
「ちゃんと食べているか?」
「ええ、まあ」とオルテップが言葉を濁す。
「そうか」と叔父は甥の顔を撫で続ける。甥の顔に、まだヒゲが生えていない。オルラックは、書架を見回した。高価そうなハードカバーの書籍がずっしり詰め込まれている。
「あ、ごめんなさい」とオルテップが謝る、「まだ読書は、あまり進んでいないのです」
「本を、どうやって買っている?」と革装丁の重い本を書架に戻しながら、オルラックが甥に訊く。
「定期的にチェヒラーフェン通りの配達屋さんに頼んでくれているそうです」
「……『そうです』?」
「ラルシア先生が注文しておられるそうです」
「では」とオルラックは書架から二冊の楽譜を取り出しながら言う、「前の本をお前が読み終わったかどうか確かめもせずに、あの女は革装丁の本を買い続けている、というのだな?」そして二冊ともファルクの譜面台に乗せて、開いた。
「…………」オルテップは黙っている。
「叔父さんに音楽の事は、良く分からない」と言いながら社長は譜面を指さした、「ところで、この楽譜、両方とも同じではないのか?」
「ええ、ぼくも変だとは思ったのですけれど……」と言いながら甥は俯く。……まずい。これ以上甥を追及すると、「ひどい癇癪」を起こしかねない。最近、「オルテップは長く俯くと、ひどい癇癪を起こす」と叔父は聞いていたからである。
左側の楽譜はエクスード語。右側の楽譜はシルニェ語だった。
しかし、譜面の速度標語は、双方ともラッティア語。左右の譜面に、相違は全くない。いずれも同じ、ナムース作曲『子供の情景』……。 *21
「叔父さん、食事はまだですか?」と甥は何かを期待する。
叔父は、答えず、両方の譜面を裏返す。両方とも裏面に値段が印字されてある。同じ金額。しかも、一冊で「ちょっとしたフルコース」に「少し良いワイン」を付けることのできる金額。
「まだだが……。これからお前をつれて、ラルシア先生に会いに行く。その後で、久し振りに二人で食事をしようか」
「助かります」とオルテップ、余計な一言を追加してしまう、「久しぶりに夕食を食べられます」
「出かけるぞ」と叔父は甥の嘘(「ちゃんと食べている」)を無視して甥を見る、「お前、外套をどうした?」
オルテップは俯く。叔父は自分で甥の答えを用意する、「……質屋か?」
甥は答えない。
「まあ良い、叔父さんの外套の中に入れてあげよう」親鳥が雛を翼で覆うかのように、オルラック社長は甥の小さな体を外套で覆った。
数時間後、二人はファンデン川沿いを疾走する満員の夜汽車の中にいた。乗り合わせた他の乗客二人と四人掛けの椅子に向い合せとなって。
夜汽車といえども三等車は騒がしい。どこかで発泡性の酒の瓶をいくつも開けているらしく、「ぽんっ」という音のする都度、酔客の歓声が上がる。たまたま観光名所「イェレロール」(川沿いに立つ岩山)を通過するためか、歌声で騒がしくもあった。
「悲しく思う理由を指し示すことができないが、昔のおとぎ話が念頭にあったわけではない……」とニェッヒ作詞の歌を酔客たちが口ずさんでいる。
オルテップは、騒音に紛れるように、静かに泣いていた。
「それはすまないことをしたのう」とリュプ、三等車の椅子に慣れない様子で、「まったく、すまない」
「いえ」とオルラック、「スリに財布を取られてお困りだった様子でしたので」
「そうではなくて」とリュプはオルテップを見やる。
「いえ、あの女とは話をつけましたので。もう済んだ話です」とオルラック。
「ごめんなさい」とオルテップが泣きじゃくる。
「もう済んだ話だから」とオルラック。ただし口調が厳しかったため、オルテップの慰めにはならなかった。
「今度は」とリュプ、「わしが責任を持って、この坊やをしかるべき場所に連れていく。面倒もちゃんとみさせる。次の先生は信用して良いぞ」
……とそこまでリュプが言ったとき。四人掛けの座席の残り一人が、異国の酔客にも子供の泣き声にも我慢しかねて、大声を上げた。彼は「予定を早めてここでやってやる」とセレシア語で叫んだのであるが、理解できた者はなかった。
「なんじゃね、お前さん?」
とリュプが言った瞬間。四人目の乗客は中東民族衣装の白い長衣を翻して立ち上がった。頭に載せた白く長い被り物を振り乱して叫ぶ。手には拳銃と爆弾。
「きゃあ!」
三等車乗客たちが恐怖の叫び声をあげる。叔父は、とっさに、緊急停止装置のロープを引いた。激しい軋轢。衝撃で、立っていた者は、そのテロリストも含めて、倒れてしまう。
テロリストが取り落とした爆弾を、リュプがすかさず、窓の外に投げ捨てた。爆発。
激怒するテロリストは銃口を甥に向けた。銃声。弾丸は天井に当たった。テロリストの腕を叔父が弾いていたのである。
停車中の夜汽車の横を、テロリストが官憲に連行されていく。 *22
「危ないところじゃったのう」とリュプ。
オルテップは答えない。泣き止んではいた。が、かわりに彼は暗闇を凝視しながら、いつまでも恐怖に震えていた。
*20 ロットがクララ・シューマンに音楽を教わった事実もなければシューマン宅に下宿した事実もない。したがって、シューマン夫人が、主人公の叔父の言うような守銭奴だったという事実もない。なお、「たんたーかたーん、たんたーかたーん」で始まる結婚行進曲は、ワグナー『ローエングリン』の中の合唱であるのだが。ローエングリンのストーリーといえば「鶴の恩返し」を男女逆転させたような悲劇である。そのような曲を披露宴とかで演奏するのは、果たして適切と言えるであろうか(いや、「男は新床をともにする前にさっさと別れて女は死ね」という恨みでもあるのではなかろうか)。
*21 シューマン夫人が、言語の異なる全く同じ譜面を生徒に買わせたという事実は、ない。ただし、著者の母が不注意にもそういう買い物をしたのは事実である。
*22 賢明な読者は、「ファンデン」川が「ダニューブ(ドナウ)」のアナグラムであり、しかもライン川とも統合してしまっていることに気づくであろう(イェレロールはローレライの逆さまであり、ローレライはライン川に位置する)。が、ロットがドナウあるいはライン沿岸を夜汽車で旅行中にアラブ系テロリストに襲われそうになった、という事実はない(後年のロットの振舞を補強するために施した、著者による創作である)。