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2・アレグロ・ノビリエスコ(快速に貴族様であるかのように)

 メイドから手渡された名刺を見て、指揮者キェニエルは顔をしかめる。

「ナセルデュークの酒造業者? はて。酒代を滞納した覚えはないのだが」

「いかがいたしましょう?」

「まあ良い、通しなさい」

 田舎くさい風貌の大人が居間に通された。大人は、同じく田舎くさい子供の手を引いている。二人の服装は一応清潔そうなので、キェニエルはセレシア製の優美な椅子を親子(?)に勧める、「お掛けなさい……ええと」とシルニェ語の名刺をもう一度見る、「ロトン……プラグ?」

「レテプラック、私のボルストン名はオルラックです」

「オルラック、ですか」と言いながら指揮者も懐から名刺を取り出す。ただし、自分の名刺を相手に渡さず、テーブルに社長の名刺と自分の名刺を並べた。そして、ペン皿から羽ペンを取り、インク壺の蓋を開けながら尋ねる、「で?」

「この子は甥のオルテップ」

「オルテップ、ね」キェニエルは社長の名刺に「甥のオルテップ」とエクスード語で書きいれた。

「こにちわ(テゲン・ガート)」とたどたどしいエクスード語でオルテップが挨拶する。

「はい、こんにちは」と応じて、羽ペンをインク壺に浸す、「それで本日のご用の向きは?」

「この子に最高の音楽の授業を受けさせたくて」と社長は小切手帳を取り出す。

「最高の音楽ね」とキェニエルは鼻で笑う。そして自分の名刺と社長の名刺に何かを書きつけた、「これを持って、オツィーロの所に行きなさい」

 社長は小切手帳を開き、キェニエルの前に置く。

「何ですかな、これは?」

「お好きな額をお書き入れください。紹介料として差し上げます」

「ああ、いらん、いらん。すぐにオツィーロの所に行きなさい」

「どこに行けば会えますか?」

「簡単な話だ! 通りでどれでも良い、四輪馬車を拾いたまえ。二輪はダメだぞ。そして行き先はこのように言う、『ザルフ・オツィーロの居所』とな」

「ザルフ・オツィーロの居所、ですか?」

「そう、ザルフ・オツィーロの居所。家と言ってはならぬ。家におるとは限らぬからな。どこでファンの女どもと情事に耽っておるか、酒場で飲んでいるか、さっぱり解らぬ。おまけに、なぜか僧職で経典参事会委員でもある。とんだ破戒僧がいたものだが」

社長は、びくっとする。幼い甥の耳に相応しい言葉とは思えなかったからである。

「……まあ良い、会ってくれることを祈れ。教会に連れて行かれたり情事の現場に出くわしたりしたら、諦めることだな」

 叔父と甥は、そそくさとキェニエルの許を退出した。

 二人は運が良かったのか悪かったのか、解らない。というのも、二人は、まともにオツィーロその人に自宅で会えたからである。交響詩のジャンル確立者・ファルクの名手の作曲家は、オルテップをジロリと睨みつける。長い僧衣の裾を引き、オツィーロが立つ。そして、子犬を招くように、人差し指をクイッと曲げた。

 オツィーロは無言でファルクの蓋を開けた。「座れ」とオルテップに命じる。そして、譜面台をキッと立て、トンと楽譜を載せた。表紙には「モルツェニケン練習曲集『創造力と三声曲』(原典版)」とあった。

 当惑した顔でオルテップはオツィーロを見上げている。オツィーロは『創造力と三声曲』のページをめくった、「弾け」 *11

 オルテップは、おずおずと指を鍵盤に滑らせる。ぽろろぽろぽろと、『創造力第一番ハ長調』を弾き始めた。主題が属調(ト長調)に入って直後。

「もう良い」とオツィーロは譜面台の楽譜を取り上げる、「席に戻れ」と楽譜で長椅子を示した。長椅子では、不安な面持ちの叔父が、大作曲家を凝視していた。思わず叔父は大作曲家に推薦の言葉を述べる。

「この子には最高の音楽を学ばせたいと思いまして……」

「ミサ、ペンとインク!」とオツィーロは怒鳴る、「ミサ!」

おろおろと叔父と甥は、オツィーロとその視線の先を見比べる。もう一度オツィーロが天井に怒鳴った、「ミサ!」

 ガチャッと扉を開け、二人の女性が入ってきた。一人はメイド服、いま一人は長いドレスを着て。そして、二人とも両手にトレイを持っていた。トレイの上には、二人とも、ペン皿とインク壺。オツィーロは左手でメイドを追い払う。そして、長椅子に腰かけた田舎者に言う。

「ロトンプラグ社長」とオツィーロは、メイドを追い払った左手を下に、叔父の方に向ける。叔父はすかさず立ち上がり、オツィーロの左手に一枚のルリヤート銀貨を握らせて言う。

「私はレテプラックです、楽師さま。オルラックとお呼びください」そしてさらにタキューデン金貨をも握らせた、「甥っ子には最高の音楽を学ばせたいと願っておりまして」

 オツィーロは無視して、手の中の金貨と銀貨をテーブルに放り投げる。こん、ころころこんと金貨も銀貨もテーブルから転げ落ちて、居間の隅に行ってしまう。オツィーロは短く言う。

「お前の名刺」

 叔父は、大作曲家の意図を測りかねながらも、一枚の新しい名刺を懐から取り出した。オツィーロは名刺を一見して、ポイっと虚空に投げ捨てる。複雑な放物線を描いて、名刺は床に落ちる。

「これではなく、テーブルの上の、お前の名刺……。速く!」

 おずおずと叔父は、キェニエルの名刺と、キェニエルの紹介状の書かれたオルラック自身の名刺を手渡す。キェニエルの名刺にはオツィーロ宛伝言が書かれてあった。

「ご面倒でも、その子供の技量を見極めて、しかるべき措置をお採りください。オツィーロ先生の弟子、忠実なるキェニエル。追伸・いつものように」

 キェニエルの名刺をも、「いつものように」ぽいっと投げ捨てる。かつて、ギュルピユという作曲家が自作交響曲第二番ホ短調を献呈しにきた時、総譜を軽く投げ捨てたように 。*12 ペン皿からペンを取り、片手でインク壺の蓋を開ける。そしてオルラックの名刺をトレイに乗せ自身の伝言を(印字やキェニエルの伝言も無視して)アド・リビトゥムに書きつける。

「オツィーロはこの子を教えない。しかし、あなたの手に委ねたいのでお願いする」

「あのう……楽師さま?」と社長。

 オツィーロは田舎社長に目もくれず、愛娘に訊く、「今夜もナフダイルフ荘に行くのだろう、娘よ?」

「ええ、お父様、そのつもり」

「この子と、ロトンプラグを、ナフダイルフ荘に連れて行け」

「お父様?」

「二人をルニャフに会わせろ」

「お父様? どういうつもり?」

 無言でオツィーロは愛娘を睨む。

「……解ったわ」

 ミサが父に背を向けた瞬間、浮気っぽい作曲家は尋ねる、「腹の子は生むつもりか」

「……そのつもりよ」

「好きにしろ」

 好きにした。彼女は扉を閉じ、トレイを小卓に乗せる。引出しから、今度は自分の名刺を取り出した。そして、彼女は自分の名刺に伝言を用意する。彼女が書き終わった時、背後の扉が開く音がした。

「ミサ、こいつらを、ナフダイルフ荘に連れて行け」

「ええ、お父様」

 四輪馬車の中は、妙な取り合わせだったためか、ぎこちない空気が流れていた。田舎くさい風貌の大人と子供。そして、豪華なドレスで着飾った人妻。人妻は、楽しんでいるのか悲しんでいるのか、風景に見入っていた。風景はグルプカーレンの市街から、すぐに郊外の夜景に変わる。

「あの……御夫人?」とオルラック。

「私の名前はミサ」と人妻、「ノフ・ヴェループ夫人……」

「失礼いたしました、貴婦人(ユダル)」と笑顔で平民オルラックは頭を下げる。コニギア人でノフ付きの姓といえば貴族が多かったからである、「ところで、(ドロル)ノフ・ヴェループ様とは、どのようなお方なのでございましょうか?」

 くすっとミサが笑う、「あなた、ノフ・ヴェループの名前も知らないで父に会いに来たの?」それは追い出されるはずだわ、という言葉を人妻は飲み込む。オツィーロは才能ある者しか弟子に採用しないからである。

「あの、それで、ノフ・ヴェループ様、とは?」

「ううん。私の夫ねえ。マハルバス程ではないけれども、皮肉屋。オホテベノフ程ではないけれども、自意識過剰。トラーソム程の才能はないけれども、ある程度の音楽ができる。そして、あなたたちがこれから会おうとしている楽匠ドラキル・ルニャフの盟友。……世間一般には、大指揮者で名が通っている、かしらね」

「おお、そのような方とのお子さんが生まれるとは、めでたいお話ですよ、ねえ」

「世間一般には、『めでたい話』と言わないと思うわ」

「え?」

 まだ目立たない腹をそっと押さえながら、ミサが言う、「この子が夫の子、ならばね」

 ぎょっと叔父は甥の顔を見る。しかし甥は何も解らず、「あまり美人とはいえない」ミサの顔を凝視している。ミサが更に問題発言をする。

「あなたたちが会おうとしているルニャフが、この子の父親」

「……あのう」とオルラック社長は顔をこわばらせながら言う、「ルニャフ様とノフ・ヴェループ様とは、盟友でいらっしゃるのですよね?」

「その通りよ」

 子供は子供らしい顔をし、田舎者は田舎者らしい顔をしていた。

「あなた……父に会うよりも、ギュルピユに会えば良かったのに」

「ギュルピユ様、とは?」

「お国のオルガニスト・作曲家で……」とミサは言葉を飲み込んだ。さすがに「あなたたち同様の田舎者」とは言えなかったからである 。*13 それに。「あ、ほら、もう見えたわよ。あれが、ナフダイルフ荘」

「えっ!」叔父も甥も、驚く。「別荘」の語感を裏切る壮大さで、宮殿と言ってもよいぐらい豪壮な建物だったからである。

 ナフダイルフ荘の内装は、さらに絢爛豪華だった。ルニャフ自身の誇大妄想風オーケストレーションを存分に体現するかのように、大理石、金箔そして各種調度品で飾られていた。叔父は気後れする。遠きセレシアのグリオン産の、毛足の長い絨毯を靴が汚しはせぬかと恐れたのである。もっともルニャフ本人に言わせれば「まだまだ豪華さが足りない」と更に青磁の壺と白磁の置物を、三万タキューデン分、極東シナンのチェンデチンに発注していたのであるが 。*14 自身の借金はさらにその十倍以上に膨れ上がっていることも無視して。

「ミサ!」とルニャフは大理石の階段の赤いカーペットを踏みしめながら降りてきた。ギェルゲン程ではないが、ルニャフは小柄だった。むしろ背が低いという劣等感のため、音楽を不必要に壮大な構成にしたのかもしれない。

「ミサ! 会いたかった!」とルニャフは愛人の体を抱きしめた。

「待って、待って、ドラキル」とミサはルニャフから逃れようともがく、「あなたに会って欲しい人がいるの」

「今度は誰だい?」とルニャフは失望の色を隠さない。ミサは片手で、来客を示した。

「ラルテニア側ファンデン川流域、ナセルデュークからいらっしゃった……」 *15

「酒造業を営むレテプラックと申します。オルラックとお呼びください」と叔父は、二人の紹介状が書きつけられた名刺をルニャフに差し出す。

 ルニャフの顔は、名刺を見ながら険しくなる。……オツィーロが見放した田舎の素人、しかも子供の面倒をみろ、だと?

「本日はどのようなご用件で?」ルニャフは自らの名刺を、ジペニア製蒔絵の戸棚から取り出しながら言う、「申し遅れました、ドラキル・ルニャフと申します」

「うちの甥っ子の面倒を見ていただこうと考えておりまして。この子は、天才なのですよ……」

ルニャフは社長の自画自賛を左手で遮る。そして右手でオルラックの名刺を返そうとする。

「えっと……楽匠先生?」

 ふうっと、ルニャフは大きなため息をつく

「どいつもこいつも、そんなことを言って押しかけて来る」そしてルニャフは一室の扉を開く、「見なさい。この推薦状やら献呈の楽譜やらの山を」そこには、ルニャフの指摘するような紙の束が、うず高く積っていた。ギュルピユ交響曲第二番 に混じって、彼の見たくない「(債権家からの)脅迫状」などもあったのだが。*16 「私は、オペラを作るため、忙しい。祝祭劇場建設の監督などもせねばならぬ。はっきり言おう。私には時間もなければ、レーデンスドナル人の子供への興味もない」

田舎社長はあっけに取られて、ルニャフを凝視していた。ミサは、いつものことであるが、気まずそうに顔を背けている。

「しかし、少し思いなおそうか、とも思う」とルニャフ。

「おお、聞き届けていただけるので?」と言いながらも田舎社長は一抹の不安を感じる。

「とんでもない」不可解なことにルニャフは胸を張る、「貴方に私の楽劇に出資する名誉を与えよう」

「はあっ?」ルニャフの言動は、誰の予想を遥かに超えたものだった。もはや、田舎社長は、エクスード語で敬語を使うことなど、忘れてしまっている。ルニャフは、田舎社長の都合など顧みず、さらに続ける。

「私は、史上稀にみる大天才だ。私を超える音楽家といえば、オホテベノフしかおらぬ。……私に出資することは歴史に貢献できる栄誉ともいえる。ぜひ、私の楽劇に出資したまえ」

「いや……それは」とオルラックは素早く計算する。大量の贅沢品を購入できる謎の人物。「最高の音楽教師が勧める人間」ルニャフ。しかし、彼はナセルデュークで「ルニャフ」なる人名など聞いたこともない。ましてや、「ルニャフ」が(全部で七曲なので曲数ゆえではなくその質から)交響曲の父と言われるオホテベノフに匹敵するような音楽家とも *17。オルラックは、即答を避ける形で、拒否を試みる。

「ええと、そのう、ただいま小切手帳を持ち合わせておりませんので。……帰国してから、出資についてはご検討申し上げたい、と」

「何? 酒屋の行商が、小切手帳も持っていない? そんなはずはあるまい。気にせず、出しなさい、さあ」

 酒屋の行商なる言葉は気に障った。が、ここで小切手帳は見せられない。

「いえ、それは、お断りしたいと」

「断る? 正気かね?」

「はあ、まあ」とオルラックは、どうやってこの場を逃れ、甥を「しかるべき音楽教師に預けたことか」と思案する。……答えが思い浮かばない。

「信じられない。作曲家に出資する以上の金の使い方など、あってたまるか!」 *18

激昂しようとする恋人を、ミサ夫人が遮った、「待って、ドラキル」

「何かね、ミサ」とルニャフは怒ったままの口調で愛人に尋ねる。

「この方々は、訪ねる場所を間違えたみたいだから、私がお連れするわ……馬車でお送りするため、メイドを呼んで下さらない?」

「せっかく来たというのに、私の許から去ろうというのかね、ミサ?」

「ちょっとの間よ」

「……別離の時間などは問題ない。『指輪物語』の続きを作曲しておけば良いのだから。だが、こんな田舎者どもなどの面倒を見なくても」

「あら、田舎者がナフダイルフ荘で行き倒れたなどと音楽雑誌に掲載された日にはどうなることかしら?」

「しかし、そいつらの馬車代を出してやるなど……」

「どうせ『来客の馬車代』として、いつものように、コニギア宮廷に請求すれば良いだけの話でしょ?」

「それはそうだが」

「ね、お願い、ドラキル」

「仕方ないなあ、ミサは、もう」と蕩けるような笑顔で、ルニャフは、子供の視線を無視して、不倫の愛人を熱く抱擁する。そして、熱烈なキスを長く続けた。

「ごめんなさいね」とミサ、馬車の中で、オルラックに謝る、「驚いたでしょ?」

「いえ」と言いつつオルラックは、早くも後悔し始めていた。……この子を音楽の道に進ませようとしたのは、失敗かもしれない。

「はい、これ私の名刺」とミサは、自身の名刺をオルラックに渡す。

「……えっと、これは?」

「あなたを『別の人』に会わせるから。私の名刺を持っていたほうが良いと思って」

「そう言うものですかねえ」とオルラックはミサの名刺を懐に入れる。

「ええ、そうよ。これから私が紹介しようとする【女性の方】は、もう少しできた人、だから」

 オルラックが聞き咎めた、「女性の方?」

「ええ、そうよ」とミサ。

「女性が音楽を……教える? それは無理というものでしょう」当時、西洋社会において音楽は、男性の専売特許だった。

「あら……。でも、彼女は、夫も認めるほどのファルクの名演奏家ですよ」

「その御主人とは?」

「トレブロ・ナムース」

「ああ、その名ならば聞いたことがあります」ナムースのファルク曲『イェレミュルト』は世俗的なナセルデュークにも静かに響いていた。その静けさは、後に「霊廟におけるBGMの定番」になった程である。

「本当は、ご主人のほうに引き合わせられれば良かったのだけれどもね。子供が好きな人だったし」とグルプカーレンの夜空をミサは馬車から見上げる。

「ナムースのご主人では何か都合が悪いことでも?」

「もう十年ぐらい前に、亡くなったのよ、肺炎で四六歳ぐらいに……」

「おお……それは」とオルラックは不吉の影を感じ取る。

「その代わりに奥さんの方が、今、子供たちにファルクを教えていらっしゃるわ」

「子供たち、にですか?」

「ええ、そうよ……。あっ、あなたにもリュプ先生が、子供に『最高の音楽の教育』を受けさせよ、と言われたのかしら?」

「ええ、それはそうなのですが」

「ならば大丈夫。彼女は、今のところ、グルプカーレンで最高の、ファルクの先生だわ。あ、ほら、そこよ」

 馬車はグルプカーレン下町のナムース邸に到着した。

 二人のレテプラックは安堵した。ラルシア・ナムースは、ちょっとした美人だったからである。五〇歳の割に若々しく見え、上品で温和な雰囲気が漂っていた。

「ね、良い先生、でしょう?」とミサ、「では先生、私失礼します。よろしくお願いしますね」と言い置いて帰ってしまう。

「ね、ぼく、お名前は?」とラルシア、紹介者の名刺を脇に移しながら。

「私はオルテップ・レテプラックです」と三歳児がエクスード語で言う、「先生の薫陶を得たいとレーデンスドナル地方のナセルデュークから参りました。以後、よろしくご教示のほどお願い申し上げます」

「あらあら、大人みたいな話しぶりだこと」とラルシアは笑う、「お菓子は、どう?」と彼女はテーブルの上のビスケットを勧める。

 おずおずとオルテップはオルラックを見上げた。普段、叔父は、「間食をするなよ。さもないと、せっかくの晩餐をお腹いっぱい食べられなくなってしまうぞ」と警告していたからである。

 しかし叔父は、掌を上に向け、「遠慮するな」という意思表示をした。幼い甥は、テーブルのビスケットにぱくついた。

「おいしい?」とラルシア。

「うん」と三歳児、「上品な香りがして、柔らかな舌触りがして、まるで聖オロシン祭に頂くジュースのように、甘い!」

「口がお上手ね」とラルシアがオルテップの頭を撫でる。

「口の減らない子供で、申し訳ありません」とオルラックが笑う。

「いいえ」とラルシアが毅然とした微笑をもってオルラックに異議を唱える、「その能力は音楽家にとって、必要不可欠なのです」

「……は?」と話題の展開についていけないオルラック。ラルシアは、丁寧に説明する。

「音楽はご存知のように、音から出来ています。音には強さ弱さなどがあります。でも、『強い弱い』だけでは人の心を動かすことなど出来ません。そこで、音楽家たちは、よく、何かにたとえて演奏するよう、指示することがあります。たとえば、仔馬がぽっぽっぽっぽっぽっぽっぽっぽっ……と走るようにとか、小川の水がさらさらさらさらさらさら……と流れるように、とか 」*19

ナセルデュークから来た二人は、思わず、笑い声を上げた。ラルシアが、「仔馬の動き」や「小川の水」について上体を用いて、リズミカルにかつコミカルに表現してみせたからである。しかし、ラルシアは、真面目な顔をして続ける。

「激しく炎をもって(ノク・オコーフオ)!」とラルシアは燃え盛る炎を上体で表現する、「あるいは、人が死ぬようにひっそり消えるように(オドネールモ)」と弱弱しく倒れる様子をしてみせて、ラルシアは二人に訪ねる、「ラッティア語は、お解りになりまして?」

「少し」とナセルデュークからの二人、オーバーな演技に少々当惑した笑みをラルシアに向けながら。

「それは結構」と満面の笑みをラルシアが見せた、「このように、楽譜には簡単なラッティア語で、いろいろ指示してあります。読めることも必要ですが、その指示を、具体的にイメージして、どのように表現するか……と。考えることも必要なのです」

「はあ……」と深い音楽談義になりそうな気配を察知したオルラックは少し警戒する。

「まず本を良く読みなさいね」

「必要なのですか」と当惑するオルラック、「読書が音楽に、一体、何の関係が?」

「非常に大事なことです」とラルシアは言い切る、「作曲家はどのような表現をしてくるか、解りません。それこそ古代語で指示してくるか、最先端の言葉で指示してくるか……。もちろん、作曲家の方でも『解りやすく譜面を書く』という義務はありますが、演奏家の方には『作曲家の意図を適切に理解して音に表現する』という義務があります。あら、少し難しかったかしら?」

「ええ……少し」とオルラック、甥の代わりに答える。ただ、その答え自体をラルシアは無視して続ける。

「作曲家にも演奏家にも必要なことは、イメージする能力です。そしてそのイメージを誰かに音で伝えるという能力です。そして、『イメージする能力』を助けるのは、私には、読書しか思いつきません。だからこそ、読書は音楽家にとって、大事なのですわ」

「はあ、そうかもしれません」としかオルラックに答えられない。というのも、彼には反論する材料がなかったからである。

「まあ、私にお任せくださいな」とラルシアはオルテップの頭を撫でる、「読むべき本、練習すべき曲、後は何をすべきか……私の方でも考えてみますので」

「よろしいのですか?」

「よろしければ」とラルシアはオルラックに言う、「オルテップ君の住まいに、うちをお使いくださいな。うちは、そういった生徒たちのためのアパートも持っておりますので……。あ、もちろん、家賃などは要りません」

「要らないのですか!」かなりの額を吹っかけられると予想していたオルラックは非常に驚く。

「ええ、それが主人の遺志でもありますので……。あ。ただし、食事代とか譜面・筆記用具・書籍代などの細々とした費用については、社長の方でご用意くださいね?」

「ええ、それは、もう……」

「では、メイドに部屋を案内させますから、もうそちらに住んでいただいてよろしいですよね?」

「ええ、ええ、全然異存は……」そこでオルラックはオルテップに再確認する、「ないよな?」

「はい」とオルテップが答えると、オルテップ、オルラック、ラルシアの三人は軽い笑い声を上げた。

 だが八年後、三人の間に笑いは絶えた。



*11 幸か不幸か、ロットがリストに師事しようとした事実はない。したがって、バッハ「インヴェンション一番」をリストが面接試験代わりにロットに演奏させたという事実もない。ただし、現実のリストは本書で描写したよりも寛大にロットを受け入れたであろうと、著者は確信している。ピアノ協奏曲譜面を持ってこられてその場で(初見で)ピアノ演奏してみせ、作曲家本人のグリーグを励ます、というほどの厚遇ではなかったろうが。


*12 ブルックナーが自作交響曲をリストに献呈しようとしたところ「放置された」のは事実である。が、リストがその作品を「軽く投げ捨てた」という事実はない(放置された譜面は後にブルックナー自身が回収した)。なお、「ギュルピユ」のアナグラム元は単にドイツ語の「橋」しか出てこない。が、ブルックナーが自作交響曲の演奏会で出会った少女に「私の名前を忘れたならば『(ブルツケン)』を思い出してくれ」とか言っているらしいので、あながち間違いとも言えなかろう。


*13 リストの娘がブルックナーを「田舎者」(に類する言葉)で言及したのは事実である。が、それをロットに伝えようとしたという事実はない。


*14 ワグナーがバイエルン王国の財政も顧みず王国の公費で居宅ヴァンフリート荘を豪壮にしたのは事実である。が、そのためにわざわざ中国景徳鎮に金貨三万ドゥカート分の青磁や白磁を発注したという事実はない。


*15 読者の中には、「設定上、当時ラルテニアは存在せず、フロイディアと称していた(後年ラルテニアと改名した)はず」と主張する者がいるかもしれない(拙著『熱情王の生涯』では、そのようになっている)。著者は幼少からカタカナに慣れ親しんでおり、ロシア人の姓であろうと苦にならない。が、どうも一般の日本人はそうではないようである。そのため、(出版準備中の次回作も含めて)わざわざ字数の短い「ラルテニア」に統一した。


*16 ブルックナーの交響曲でワグナーに献呈されたのは第二番ではなく第三番である。もっともブルックナーは二番と三番の両方を持参し、ワグナーに選ばせている。ところがブルックナーはワグナーにビールを樽ごとふるまわれて、「どちらをワグナーが選んだ」のか忘れかけていた。二日酔いの頭に「トランペット」のキーワードが思い出され「トランペットの主題で始まる三番のほうですね?」とブルックナーはワグナーに書き送っている。「そうです、敬具」がワグナーの答えだった。つまり、ひょっと間違えると交響曲第二番が「ワグナー交響曲」になっていた可能性もあった。


*17 本書はオホテベノフが交響曲を七つ作ったかのように書いている。が、もちろんベートーヴェンは九つの交響曲を書いている。


*18 リストの娘すなわち指揮者フォン・ビューローの妻が夫の盟友ワグナーに寝取られて妊娠したのは事実である(おまけにワグナーと再婚した)。ただし、彼らがロット一家と接触があったという事実はない。また、ワグナーは厚かましくも、誰彼となく自作オペラへの投資を呼びかけ断られると憤慨したのも事実である。が、ワグナーがロット一家に投資を要求したという事実はない。


*19 シューマン夫人がピアノ演奏指導時に「仔馬」や「小川」の比喩を用いたという事実は確認できない。が、ピアニスト中村紘子が生徒にベートーヴェン月光について仔馬の比喩を用い、著者自身がチャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾く際に譜面に「小川」の比喩を書いたのは事実である。

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