第1話:夕空に咲く地下
丘の上に立った瞬間、風が変わった。
草の匂いの奥に、石と水晶を削ったような冷たい甘さが混じっている。アウレーリエ・リュコーリアスは目を細め、マントの裾を押さえながら一歩踏み出した。
眼下に広がっていたのは、夕焼けだった。
ただの夕焼けではない。地平線まで続く草原の只中に、透き通った柱が何本も突き立ち、低い陽光を受けて橙と薄紅の光を四方に散らしている。柱の根元には見たことのない植物が群生し、それ自体が淡く発光して、沈みかけた太陽と競い合うように地表を照らしていた。
草原が光っている。いや——地面の下から、何かが咲き出している。
「……すごい」
呟きは風に溶けた。アウリィは息を吸い込み、胸の奥で弾ける感覚をそのまま声にした。
「すごいなあ、ここ」
背中のトランクがかたりと鳴る。ベルトポーチに手を当てて日記帳の感触を確かめ、それから改めて景色を見渡した。精霊の招きに応えてここまで来たが、聞いていたのは「地下迷宮が地上に咲く」という断片だけだった。言葉で聞くのと、実際に見るのでは全然違う。
結晶の柱は近いもので丘から数百歩ほどの距離にあり、遠いものは地平線の際で夕陽に重なって燃えるように見えた。その合間を縫うように、土の街道が一本、草原を横切っている。街道沿いにはいくつかの荷車と、人影がぽつぽつと見えた。
「移動市かな」
アウリィは丘を駆け下りた。マントが風を孕んで翻り、ブーツが乾いた草を踏む感触が心地よい。走りながらも視線はあちこちに飛んで、結晶柱の表面を流れる光の筋や、発光する花の色合いを逐一追いかけてしまう。
街道に近づくと、荷車の列はやはり商いの一団だった。幌を張った荷台に布や干し肉や陶器を積み、何台かは車輪を外して仮設の店構えにしている。移動市——土地が安定しない場所で商人たちが寄り合い、人の流れに沿って場所を変えながら商売をする形式らしい。幌の隙間から覗く品々を見て、アウリィの足が自然と止まった。
「ね、これ何?」
一番手前の荷台から身を乗り出していた中年の商人が、小柄な客を見下ろして目を瞬かせた。アウリィが指差したのは、硝子のように透明な小瓶に詰められた、光る粉だった。
「ああ、結晶花粉だよ。迷宮の花から採れる。明かりに使うんだ」
「へえ、花粉が光るんだ。綺麗……ちょっと触ってもいい?」
「嬢ちゃん、それ素手で触ると手が半日光るからな。……ところで、保護者は?」
アウリィの手が止まった。口元がわずかに引き結ばれる。
「いないよ。ボク一人で旅してるんだけど」
「一人? こんな時分に? 悪いこと言わないから、大人の人と——」
「ボク、見た目よりだいぶ長く旅してるから大丈夫。ありがとう、心配してくれて」
語尾は丁寧に保ったが、声の温度が半音だけ下がった。商人は面食らった顔で口を閉じ、アウリィは素早く話題を戻した。
「それよりこの花粉、一瓶いくら?」
結局、小瓶をひとつ買った。換金用の小粒の宝石をポーチから出すと、商人は目を丸くしたが、値踏みの目つきに変わる前に取引は成立した。アウリィは小瓶を光に透かし、中で揺れる金色の粉をしばらく眺めてから、大事そうにポーチへしまった。
日記に描こう、と思った。色は帰ってからだと忘れるから、今のうちに走り書きだけでもしておきたい。だが街道の先に目をやると、風景が少しおかしかった。
街道が、途切れている。
正確には、途切れたのではなく、塞がれていた。透明な壁——結晶のような、硝子のような、しかしどちらとも違う質感の面が、道を横断するように地面からせり上がっている。壁の向こう側は歪んで見えるが、普通に草原が続いているのが分かる。壁そのものは薄く、叩けば音がしそうなほど透き通っていた。
その手前で、荷車が一台立ち往生していた。
「さっきまでなかったんだよ、こんなもの!」
御者が声を荒らげている。荷台には木箱が積まれ、驢馬が不安そうに耳を動かしている。荷車の周りには数人の旅人が集まり、壁を叩いたり蹴ったりしていたが、びくともしない。
アウリィは早足で近づいた。透明な壁の表面に触れると、指先にかすかな振動が伝わった。冷たくも温かくもない。生きている、と直感的に思った。
精霊に意識を向ける。この世界の精霊の在り方はまだ掴みきれていないが、丘を降りてから感じていた気配はある。地の底から湧き上がるような、ゆっくりとした、大きな呼吸。ただ、いつもの呼びかけに対する応答が少しずれている。名前を呼んでいるのに、返事が違う言葉で返ってくるような感覚。
——でも、応えてはいる。
アウリィは壁に両手を当て、意識を沈めた。精霊の気配を辿る。壁の向こう側ではなく、壁そのものの中に流れがあった。根のように地中へ伸び、どこか遠い中心に向かって脈打っている。
「この壁、まだ伸びてる」
声に出した途端、足元が軋んだ。
地面に亀裂が走り、亀裂の中から細い結晶の芽が覗いた。壁がさらに成長しようとしている。御者が悲鳴を上げ、驢馬が暴れた。荷台の木箱がずれ、ひとつが落ちかけたところを旅人の一人が押さえた。
「退いて! ここ、右側にもう一枚来る!」
聞き慣れない声が飛んだ。アウリィが振り向くと、旅人の群れの後方から一人の女性が駆け寄ってくるところだった。
革の外套の上に道具袋をいくつも提げ、片手に分厚い帳面を抱えている。髪は深い緑がかった黒で、簡素に束ねている。顔立ちは整っているが表情が薄く、駆けながらも視線だけが地面の亀裂を正確に追っていた。
「花脈が北東に折れた。三十秒もしないうちにそこにも壁が出る。荷車を左へ寄せて」
声は落ち着いていたが、有無を言わせない正確さがあった。御者は反射的に驢馬の手綱を引いた。アウリィも壁から手を離し、足元の亀裂の広がりを精霊の感覚で追った。確かに、地中の流れが右手側に枝分かれしようとしている。
「そっちのひとも退いて」
女性がアウリィに声をかけた。だがアウリィは逆に一歩前に出て、地面に手をかざした。
精霊への呼びかけが、いつもとは違う響きで返ってくる。慣れた名前は届かない。でも——意思は伝わる。流れの方向を読むことならできる。地中の脈動が右に分岐する地点が見えた。
「こっちは大丈夫、亀裂はあの杭のところで止まる。荷車が抜けられる幅は残るよ」
「……何を根拠に?」
「地面の下の流れが見える。ボク、精霊術が少し使えるんだ」
女性の目が一瞬だけ細くなった。値踏みではなく、観察の目だった。それから帳面をめくり、何かを確認し、短く頷いた。
「なら、左の車輪が通る位置だけ教えて。私が退避の順路を出す」
連携に迷いがなかった。アウリィが精霊の感覚で安全な地面を示し、女性が花脈——迷宮植物の根の流れらしい——を読んで最短の退避路を指示した。御者が荷車を引き、旅人たちが荷物を支え、全員が透明な壁の成長域から抜け出たのは、新しい壁が地面からせり上がるほんの十数秒前だった。
背後で、二枚目の透明な壁が音もなく立ち上がった。夕陽を受けて、薄紅色の光が路面に長い影を落とす。
「……綺麗」
アウリィは思わず呟いた。壁が咲く瞬間の光は確かに美しかった。
女性が振り返った。帳面を胸に抱えたまま、少しだけ不思議そうな顔をしている。
「壁に閉じ込められかけて、第一声がそれ?」
「だって綺麗だったから。……でもちゃんと怖かったよ? ほら、心臓まだどきどきしてる」
アウリィは自分の胸に手を当ててみせた。嘘ではなかった。女性は短い沈黙のあと、ほんのわずかに口元を緩めた。笑ったというには淡すぎたが、表情の薄い顔に確かに動きがあった。
「シズ・ヴァレリア。迷宮植物の調査をしている」
「アウレーリエ・リュコーリアス。旅をしてるんだ。アウリィでいいよ」
「アウリィ」
シズは名前を一度だけ復唱し、それからアウリィの足元と、ベルトポーチと、背中のトランクを順に見た。
「旅人にしては荷が多い。……さっきの精霊術、見たことのない型だった。外の世界のひと?」
「うん、ここに来たのは今日が初めて。精霊の招きがあって」
「招き……」
シズの視線が、一瞬だけ遠くを向いた。地平線沿いの結晶柱の列、その向こう——夕焼けが沈んでいく方角。中心のほう、とアウリィは直感した。
「中のほうへ行くつもり?」
「行きたい。こんなの見たら、もっと奥を見たくなるに決まってるでしょ」
シズは帳面をめくった。挟まれた押し花がちらりと見えた。透明な花弁——結晶のような質感のそれが、薄紙の間に丁寧に収められている。
「ボクもね、記録するの好きなんだ」
アウリィはポーチから日記帳を取り出して見せた。くたびれた革表紙、開けば走り書きの文字と、下手だが丁寧なスケッチ、合間に挟まった木の葉や布の切れ端。シズは押し花帳を抱え直し、アウリィの日記帳を覗き込んだ。二つの帳面が、夕陽の残照の中で並んだ。
「中へ行くなら案内がいる」
シズが言った。唐突だったが、声には考えた末の響きがあった。
「浸透帯から先は花脈が複雑になる。花路師の資格がないと読めない分岐がある」
「花路師?」
「迷宮内の安全な経路を、植物の根脈から読む技術者。私はその資格を持っている」
「シズが一緒に来てくれるの?」
「調査の延長になる。……それに、さっきの精霊術は記録しておきたい」
建前かもしれない。でもアウリィには、シズの視線が帳面越しに中心の方角を見つめていたのが分かっていた。行きたいのだ、この人も。
「じゃあ、よろしくね。シズ」
アウリィは手を差し出した。シズは一拍遅れてその手を取った。握った手は冷たく、指先にインクの染みがあった。
夕焼けが沈んでいく。結晶柱の光が、代わりに足元から世界を照らし始めていた。遠くの地平線では、大地の底から新しい柱がゆっくりと頭をもたげている。この世界は今も、咲き続けている。
アウリィの胸の中で、旅の始まりの予感が——あの懐かしい、どうしようもなく心が浮き立つ感覚が、静かに灯った。
風が吹いた。草の匂いと結晶の甘さに混じって、どこか遠い場所から、聞いたことのない花の香りが届いた。




