跡に沈む
跡に沈む 著:御影 鼬宇
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(カチッ、カチッ、カチッ……規則的なタイマー。洟をすする音。カチッ、厚手の布が擦れる鈍い音、カチッ、カチッ……)
00:00:13(押下音、モーター音)
やはり、「君」はどこにもいないのか……。ええと、僕がいう「君」というのは、少なくとも、君のことではない。「君」に伝わる言葉を、音を、光(「君」はどうやら、赤色が嫌いらしい)を、僕はまだ知らない。これからも、知りようがない。だから、今の僕から生じる意味はすべて、いつかの君がそのまま引き受けるしかない。どんなかたちでもいい、書き残すのでも、口承でもかまわない。もとより、君に宛てたものではない。引き受けたまま深く飲み込んでくれたら、それでいいのだ。すべてを燃やしてしまってもかまわない。ゆらめく炎や真っ黒な煙に隠れたものが、「君」の言葉なのかもしれないから。無責任な僕を許しておくれ。そもそも、既にねじれすぎているから、責任などありはしないが。僕はここにいる。ここの全貌は分からない。僕だけがそうであるとは限らないが、少なくとも僕はここにいるのだろう。足元は全く視認できないが、僕の足裏の感覚を信じるしかない。ここは、君にとってのここ、ではないのかもしれない。きっと、全然違う。君はここにいるのか、と言うたびに、おれはここにいるのか、と言い間違えそうになる。闇の中に僕はいる。確かに、闇であることは間違いない。しかし、闇なんかどこにだってある。僕と闇は内と外の関係にないのだから。さて、どこまで具に伝えたら、僕がどこにいるかを指し示すことができるのだろう。僕にとっては、闇の中、で十分なのだが、君にとっては若干不都合だろうから。セーフライトと薬品の臭気に長時間晒された目は充血しているらしい。痛いからそう考えるしかない。彼女の裸体を焼き付けた印画紙はまだ熱を帯び、それと同じような表情をした冷たい写真が数枚、赤い光に濡れて、うなだれた家畜のように麻紐に沿って吊るされている。ついさっき、現象トレイの一つをひっくり返して、薬品が使い物にならなくなった。もうしばらくは、「君」を探すことはできない。ここらでよいだろう。言葉を尽くすのは、疲れるだけだ。そろそろ、いや、引き続き、「君」に伝えたい。
「君」が消えてから、どれくらい経っただろうか。暗室に籠り始めてからどれくらいの間、月明かりを見ていないだろうか。「君」に呼びかける方法が見つからないまま、僕だけが、ひどく早く年をとっている気がしてならない。「君」はうまいことやってみせたんだ……写真の隅で、記憶の隅で凍える一枚の羽は、恐ろしく白いままだ。「君」はとうとう、僕にその清い全容を見せてくれなかった。それは、今となっては君の不器用なやさしさであったと分かっている。そうであっても、「君」を一目でいいから見たいとおもうのは、傲慢だろうか。
やはり、何度見つめても、羽は浮かび上がってこない。羽は既に、溶けた鉛みたいに記憶の奥底にへばりついてしまって、どうしたって目の前の写真と「君」の羽を重ねることができない。もう一度、「君」が見たいだけなんだ。永遠を信じてよい、と「君」に言ってほしい。
すっかり冷え切った写真――シングルベッドに横たわった彼女の白い肌以外は何もかも、金色で縁を飾った調度も、安っぽいワインが底に残ったグラスも、縒れて原型をとどめないブランケットも、死仮面の裏側に張り付いたように沈み込んでいる。彼女の輪郭は周辺の闇に半ば溶けてしまって、紙粘土を丸めたような野暮ったい身なりを晒している。しばらく眺めていると、今度は、彼女の方が写真の奥の方へと縮んでいき、割れた蛍光灯のような奇怪なポーズをとるようになる。こんな具合なんだ。退屈な裸体が、乾燥ラックにだらしなくぶら下がり、ヒーターの微かな熱風に震えているのを、ぼんやり眺めている。振り子運動のように、裸体1が裸体2を後ろから繰り返し蹴って、その反動で裸体3、4がぎこちなく跳ねる……。そういえば、事のはじまりもそうだったか――ワインレッドのヒールの欠片、木造階段が軋む音、ウイスキー瓶のキャップ、銀縁の伊達メガネ、そして、彼女の左腕――確か、この順番だ。フリップブックを捲る様に、その映像が僕の目に焼き付いた。その晩、酩酊状態の彼女が、二階に構えるバーの階段を転げ落ちてきたんだ。
その瞬間から、僕の時間も大股で行進を始め、木枯らしに巻き込まれて閑散とした細い裏路地を吹き抜ける。硝子の割れる音、絞り出すような呻き声、腹部の痛みと熱、星を飲み込んだ黒い天井、銀のネックレスに反射した街灯の鈍い光、動脈の不規則なリズム、アルコールの鼻をつく匂いと甘み……かつて僕らであったものを悉くコラージュしていく。そんな風に覚えている。覚え方を覚えている。彼女の第一声は何だったか。声だったか言葉だったか。それとも光であったか。もう覚えていないし、今となっては興味がない。覚えていることは極めて断片的だ。何に沿って組み立てたらよいか、僕にはわからない。オーソドックスな物語にすれば、きっと彼女はウイスキーの風味が残った口で、僕に不器用なキスをしただろうし、僕は彼女をどこかで犯したに違いない。調子に乗って、愛している、などと空回った言葉を向けたかもしれない。本当に、彼女のことを愛していたのかもしれない。愛することとは別の方法で。今となっては、そんな過去を修復できるほどの断片すら、手元に残っていないのだけれど。語り方によっては彼女を何らかの超人に仕立て上げることだってできそうだ。こういうことに関しては、「君」には頼れない。僕がすべて引き受けるしかないんだ。それこそ、「君」のように白い羽をつけることだって可能だ。ああ、あの白い羽は、彼女のものだったのかもしれない。もしそうであれば、僕が彼女からむしり取ったもの……分からない……。
00:10:04(鶏のせり上がるような鳴き声、女の発狂、くぐもった声。クラクションの音)
まぁ、彼女だって、あの晩に階段を転げ落ちていなかったら、今頃はどこかで、羽を伸ばしていたのだろうが。純白の、引き締まった羽を。僕が悪いのかな。でも、もとはといえば、「君」が僕の前に現れたせいだ。「君」が写らなければ、僕と彼女は、写真家と被写体として、いつまでも幸せに暮らしただろうさ。彼女をあんな薄汚い撮影部屋に禁固することだって、なかったわけだ。彼女が哀れだよ。使い古された昆虫標本みたいだ。ずた袋を頭に被せる段になって、彼女は泣いていなかった。分かりやすいやせ我慢だよ。そんなに、強い女じゃない。磔台から見下ろす彼女があまりにいじらしかったものだから、僕は背伸びをして彼女に短いキスをした。暗室に向かう準備を終え、扉を開けた時、彼女は何かしら口にしていたが、こもってよく聞こえなかった。もしかしたら、泣いていたのかもしれない。言葉だったのか、声だったのか、声にならない声だったのか、言葉になりきれなかった声なのか、それとも……。扉を閉めた時から、僕は一切の過去と決別し、「君」を探すための、永遠の旅に出た。
酒で頭がすっかり使い物にならなくなった僕だって、「君」が滲み始めたあの瞬間――その白さはあらゆる黒さも翻して、写真を食い破るような燐光を伴って、彼女の青白い肌の一切をまったく拒んでいた――を、一ピクセルだって違うことなく思い出すことができる。現像を失敗したなどと、一瞬たりとも考えなかった。その羽は、あまりにも重かった。その輪郭は、あまりにも鋭かった。僕はあわてて、彼女が似たようなポーズをとっている写真――彼女は僕の指示の一切に従った、自らは動かない、被写体としてはこれ以上ない存在――を数枚、つづけて現像した。回を追うごとに「君」の羽は、僕の幻想から離れ、不動の実体に近づいていき、とうとう、彼女の足先に触れた。もはや、燭台に垂れた蝋を眺めて、黒い光を湛えた彼女の目尻も、高い鼻も、ふっくらした赤い唇も、絵具をぶちまけて乾ききった粘土板みたいになっていた。彼女は、すっかり写真の中の住人になってしまっていた。「君」は、一枚、また一枚と、彼女の瘦せこけた頬を撫でるように、白い羽を落としていった。それ以降、僕は凡そ眠れなくなった。目を閉じても、瞼の裏側で、羽が光をまき散らしながら踊り続けていた。眠るために酒を飲んだが、酒は日に日に泥水みたいな味になっていった。彼女といくら交わっても、目の前の靄が消えてくれることはなかった。透けたあばらをごまかすように付いている乳房はもっと白い羽で覆われ、彼女の顔は、ループランプの乾いた橙の光の中に溶け込んで、よく見えなかった。「君」は嫉妬――僕らと同じふうに感情に名前を付けるとするなら――していたのだろうか。だから、羽を降らせておきながら、「君」の影も足跡も、何一つ見せてはくれなかったのか。「君」は意地悪だ。「君」は僕らとは違う。それを分かっていながら、僕らと同じ地平に降りてきたんだ……まるで道化じゃないか。
00:14:40(咳き込み。痰を吐き捨てる音。咳き込みが続く)
こんなに誰かに語り掛けるのは、これがはじめてだ。よく、こんなに話せたものだよ。僕もあと何日身体がもつか分からない。彼女が待っているあの部屋に戻って食糧を持ってこようか――彼女はまだ生きているだろうか。そもそも、僕が部屋から出た時、彼女は本当に生きていたのだろうか。いや、それも無駄だ。この命を引き延ばしても、引き延ばせば引き延ばすほど、「君」のいない時間が延びるだけだ。僕はもう、暗室に籠るしかないのだ。それだけが、僕が「君」に向かって開いていくためにできることだ。もうそろそろ、終わろうと思う。あぁ、いいんだ、これで。「君」にとって、言葉の長さも重さも意味も、一切無関係だろうから。僕の骸が、「君」にとってだけ、何かしらの文字になってくれたら幸いだ。
06:44:44 (いびきのような音。溜息)
06:44:46 (ヒスノイズが続く)
カチッ




