最愛の人へ
そうだ、彼に会いに行こう。
あの時お別れを言えなかった彼に。
現時刻は深夜1時を回ったところ。タクシーに乗り、無言の車内で揺られながらそう思ったのは、今日職場で起きたとあることがきっかけだった。
毎日の残業で心身を削り終電で帰る日々。会社のデスクの下にお泊りなんてことも日常茶飯事だった。さらには上司からのセクハラ。先輩を追い抜いて少し出世したせいか、日に日に増す先輩からの嫌がらせ。もう1年にもなるが仕事覚えも悪く、言う事を全く聞かずミスを連発する後輩。そのミスで呼び出されては大勢の前で怒鳴られまたパワハラとセクハラ地獄。
自画自賛ではなく顔が良く仕事が出来る女というものは、それだけ嫉妬やセクハラの対象となってしまうのだ。
入社するまではそんなどうしようもない職場だとは、思ってもいなかったが、私にはそんな職場環境での仕事を続けなければならない理由があった。
母の病気。
日本での治療が難しく海外に行かないと治療ができないが、同じような病状の人が世界にも多数居るためキャパが足りない。手術の用意が出来るまでその病気での入院ができる病院に母は居る。厄介な病気のため保険の適応外。そうすると入院費は全て自己負担となりかなりの高額となる。
それゆえ金払いだけは良いこの会社で仕事を続けているのだった。
しかし、必死に耐え続け意地でも辞めなかった私だが人生の転換期とは突然やってくる。
そう、本日をもって私はこの仕事を辞めるのだ。
時間は8時間ほど遡る。その時の私は会社の屋上でお昼ご飯を食べているところだった。毎日のようにおこる社内での壮絶なハラスメントに耐えながら、この後の事を考え鬱になっていると、唐突に携帯に着信があった。
それは母が現在入院している病院からの電話だった。
着替えは2日前に持って行ったはずだったので、何の電話か分からず不思議に思いながらも電話に出ると、よく知っている声の看護師さんが電話の相手のようだった。
早めに仕事に戻らないといけないので手短にお願いしますと伝えると、看護師さんは悲壮感で一杯な声色で、私に落ち着きを促しながら、母の死を伝えるのだった。
その時私の中で何かが崩れ壊れる音が確かに聞こえた。手から落ちた携帯から看護師さんの叫ぶような声が聞こえる。私は放心状態のまま携帯を置き去りにして仕事に戻った。すでに私の心の容量は一杯。
・・・いや、決壊すらしていた。
そんな時、追い打ちをかけるかのように会社内のサーバーにウイルスが侵入したことが分かった。原因は私の指導している後輩が会社のパソコンで行った海外サイトからの動画の違法ダウンロードだった。どうやらファイルの中にウイルスが紛れ込んでいたようだ。
案の定上司からの呼び出しがあった。内容は「緊急会議をするから準備をしろ。指導が足りなかった君の責任だから一人で来るように」とのことだった。
会議室に入室すると案の定待っていたのは、上司と共謀するクズ社長とセクハラ上司の二人だけだった。口には出さないものの、「このハゲとデブやっぱりか」と。
悪態をつきながら棒読みの謝罪をする。とうぜんだ。母を亡くした今、稼ぐ理由を失った私の中で、この会社に価値は無いのだから。ハゲとデブの言う事はほぼ私の予想通りだった。まず私の謝罪の仕方に憤慨したデブが罵声を浴びせてくるが、それをハゲが諌める。そしてハゲとデブが私を挟んで執拗にボディタッチしながら「そんな態度でこの先〜」「仕事を続けたければ~」「常日頃から私の誘いを〜」「君にも悪い話じゃ〜」「ここにある鍵は~」「というわけで、今夜まっている」「今着てるスーツのまま来る様に」最後にデブがそう言ってハゲと共に退出し緊急会議は終わった。
すでに全てがどうでもよくなっている私は、会議の終わりにそのまま会社を出た。そこから約6時間タクシーに揺られ現在まで戻る。今向かっているのは私の生まれ故郷。私の人生の中で唯一恋して愛した最愛の人に会いに行くためだ。
ついたのは墓地。彼を含む親族一同のお墓の前。その親族も今や私1人のみ。母も近いうちにここに入るんだろうなと思いつつ、途中コンビニで買ったお酒を、彼の眠るお墓にかけ私も酒を煽る。
月明かりがお酒のかかった墓石を照らしキラキラと輝いている。その光景が私には彼が私を歓迎して微笑んでいると錯覚した。もとよりそのつもりだったが、私の中には彼に早く会いたい気持ち以外残ってはいなかった。
ポケットの中から錠剤を取り出すと蓋を開け、わずかに残っている酒と一緒に飲み込んだ。その瞬間思わず笑みがこぼれた。笑ったのなんて何年振りだろう。そう思いながら、彼に笑顔で会いに行けることが無性に嬉しかった。
彼の眠る墓石にしなだれかかり目を瞑る。
やっと。このクソで最低な世界に。今なら別れを告げられる。
最後までお読みいただきありがとうございます。