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オレンジ

作者: カモメ


 二〇一二年六月のある日、世界で最後のガラパゴスゾウガメが多くの人間たちに見守られながら亡くなった。

 人間たちに勝手に「孤独」と名付けられた、ちょっと可哀相なやつだった。


「1」

 金曜日。終末。導入。十二時五〇分。

 客先のオフィスでカラープリンター機のメンテナンスを終えた水戸は、誰も使っていないデスクの一角を借りて作業報告書を書いていた。オフィスの中には週末特有の、少し間延びした感が漂い始めていた。既に皆もう、明日の事を考え始めているような、そんな雰囲気。

 その日朝一番で電話を受けた。「プリンタが、トナーを交換したばかりなのに端の方の印刷が薄く薄く掠れる」という説明を、何度も何度も何度もこの会社の女性事務員にされた。女性事務員は当然機械の事などまるで分からない素人なので、なんとか角度を変えながら幾度となく言葉を選び直しながら水戸に説明を繰り返し、繰り返し繰り返し苦心したが、水戸からしてみれば「トナーを交換したばかりなのに端の方の印刷が薄く掠れる」という情報以外には得られるものはなかった。

 いよいよ説明のボキャブラリも尽きた女性事務員に水戸は、今日のお昼休みに点検に伺いますねと電話口で告げた。相手は上機嫌で電話を切った。上機嫌というのは彼の主観だったかもしれないが、作業を終えて机に座っている彼に電話で話したその女性事務員は労いの言葉を一つとお茶を出してくれたので、少なくとも不機嫌ではないなと水戸は思う事にした。小さな声で礼を言って、熱いお茶をなるべく音を立てないように注意しながら啜る。味がしない。白湯を飲んでいるのとあまり変わらないようだと思った。白磁が透ける薄い緑色。

 この会社に限らず、昼十二時から午後一時までの会社の事務所というのはどこへ行ってもある種不思議な静かさがある、と水戸は普段から思っていた。それは客先のオフィスで昼休憩の間に作業を行う事の多い彼なりの実感だった。誰も誰とも話そうとせず、電話も鳴らず鳴らさず、パソコンのマウスをクリックする音さえ躊躇いがちに聞こえるような静寂。時間が止まっているようにさえ感じた。あるいはそれは休憩している人たちの祈りそのものなのかもしれない。机に伏して光も音も遮断する営業マン。この時間が、昼休みが永遠に終わらないようにと。

 十二時五十五分に予鈴が鳴り、止まっていた時間が俄かに動き出す。その時にはもう水戸は報告書を書き終えていた。

 十三時ちょうど。午後の始業を告げるチャイムが鳴ると同時に少し騒がしくなる。電話を掛け始める者や外回りに行く為に席を立つ営業マンたち。ざわつく事務所の中を水戸は報告書片手に、なるべく隅の方を歩いて奥へと進んだ。そうして先方の、総務部の部長席の横に立ち簡単に作業の説明を始める。機械内部、ドラムカートリッジを外したある部分、そのガラス面にインクの粉が付着し、そのせいで端の方だけ転写がうまくいっていなかった事。当該の箇所を掃除してテストプリント、問題が解決した事を簡潔に話し報告書に作業確認のサインを貰う。部長は水戸の説明を、あまり興味無さそうに聞き相槌を打っていた。

 サインを貰った報告書を仕事道具の詰まった鞄に仕舞い込み、水戸は得意先を後にした。オフィスから出る際に「ありがとうございました」と女性事務員が数名を声を掛けてくれた。その声はどこか上機嫌のように聞こえたが、それもやはり金曜日のせいだからだろうと思った。



「2」

 くたびれた工業団地の中、社用車の軽自動車を走らせる。小さな団地なのですぐに抜け出し、やがて車は国道へと流れていく。道路の左右にはまばらに飲食店とあとは田園風景だけが広がっていた。農家にとっては何の憂いも無い、よく雨の降る年だったが、この日に至っては前線の切れ間を縫って大いに晴れた。何も無い小さな町で、全てが順調に回っているように水戸には思えた。順調に規則正しく回る歯車が人知れず摩耗していくのを感じた。視界の端にはハンドルに伸びる腕、自分の着ている作業着のよれた浅緑色が映る。汚れたままにしないようにと、頻繁に洗濯にかけたその作業着は正に摩耗していく水戸自身であった。作業着の下には真新しい白のワイシャツを着込み、これも新しいサックスブルーの単色のネクタイを締めている。ズボンは黒のスラックスを履き、スーツ姿から背広の代わりに作業着を羽織ったような形であるが、やはり全体としてその作業着だけが淡く浮いているように水戸には思えた。仕事着で姿見の鏡の前に立つときはいつも、中心をぼやかし背景にピントを合わせた写真を見ている時のような落ち着かない気持ちになった。

 水戸は大学を卒業してすぐに地元のOA機器の販売・リースを行っている会社へ就職した。特別産業の無い町だったので、特別な仕事には就かないだろうという学生時代からの思いは現実となった。勝手に夢が叶ってしまった気分だった。以来約五年間。この業界、そしてこの仕事しか知らない。ある意味では世間知らずとさえ言えるだろうと、本人は狭い料簡の中で自分自身を極めつけていた。

 国道は定規で引いたように真っ直ぐ伸びている。団地からも市街地からもどんどん離れ、やがて荒野のように広々とした風景へと至る。あるいは本当に草も苗も生えない荒野であれば良いのに、と水戸は思う。水の張られた田の中には未発達の苗たちが並ぶ。あとひと月も経たない内に苗はこの景色一面を緑色へと変える。儚さを微塵も感じさせない、むしろ真逆の、生の気配に満ちた緑色だ。水戸は車を走らせながら、遠い、写真や物語の中でしか見た事の無い荒野へと思いを馳せた。文明は干からび言葉達は風化し、ただ土と岩とだけが残った世界。荒涼たる空想の世界の中において、水戸はその世界に硬い地面を割いて生える一本の雑草を思い浮かべる。そうして漸く水戸は一滴したたる緑色に癒されるような想いがしたのだった。

 暫く走り、十字路の角にあるコンビニの駐車場へと入っていく。広い駐車場の中で馬鹿らしいくらいきっちりと車を白線の中に収めた。十字路の角には他にモーテルとガソリンスタンドがあり、それぞれ道路を挟んで見つめ合っていた。遠くに治水事業を称える石碑があったが、その他にはやはり田畑しか見えなかった。コンビニの敷地と田んぼとの境には白いフェンスが設けられており、それもなければ駐車場は田んぼと混じり合ってどこまでも広がっていくように思えた。駐車場には水戸の車の他に、大型のトラックが一台、端の方で昼寝をしていた。


 昼下がりのコンビニは閑散としていた。加えてこの立地である。水戸が店内に入ると、店員が店の奥から如何にも億劫そうに出て来た。こんな最果てのコンビニにも店員が常時駐在しているのが水戸には常々不思議に思えた。まるで公共事業だ。廃線を待つ駅舎やあるいは高速道路の終点の料金所のような風情がそこにはあった。

 店内に入った水戸は真っ直ぐ目当ての商品棚へと向かう。まず棚の下段にあるボトルガムが目に入り、そこから少し視線を上に。ミンティアのレギュラータブレットが種類ごとに綺麗に並べられている。ワイルド&ハード。フレッシュクリアミント。グレープなどなど。およそ十種類にも及ぶフレーバーを前に水戸は耐え難い高揚感に包まれる。チェーン店のアイスクリーム屋で、説明無しには何味か判別もつかないような色取り取りのフレーバーを前にした子どものように、心を弾ませる。

 昼食のミンティアは彼にとって、誇張無しに人生で唯一つの楽しみと言えた。小説や漫画を読む。学生時代から聴いている音楽を聴く。週末になれば映画を観に行く。それらは確かに彼の生活を彩っているように傍からは見えた。しかし本人にとっては、それはあくまで表面上だけでの事に過ぎなかった。本当の意味で喜びを感じられるのは、この、昼食の時間だけだった。

 昼食に好きなものを食べられるのは外回りの利点だ、と水戸はつくづく思う。定番のワイルドを三つ。それからジンジャーエールとドライハードを同じく三個ずつ。合計で千円を超えないようにするのは彼なりの自制心であり、一つのルールだった。一般的な社会人の昼飯代としては、毎日続けるにはかなり贅沢な事は重々分かっていた。それから、レギュラータブレット以外にもお買い得な種類のものが存在する事も勿論知っていた。それでも水戸には今の生活を変える気は毛ほどにも起きなかった。毎日棚の中からその日その時の気分にあったフレーバーを選ぶ事、その手順も趣味の範疇であった。九つ束ねたタブレットがスッと掌の中に納まる感覚もまた心地良かった。

 それはかつてまだ彼が昼食にミンティアを選ばなかった頃、無機質に機械的に保守的に、毎日食べたくもないツナマヨおにぎりと焼きそばパンを買っていた頃には決して得られなかった感情だった。快楽だった。選ぶ事考える事を放棄していた日々には無い、たしかな気持ちの浮き上がりがあった。


 ミンティアは水戸の荒野に微かにしかし確かに潤いを与えた。

 昼食は彼の人生において唯一つの趣味であった。



「3」

 車に戻ると、助手席に少女が座っていた。オレンジ色のスカートに、髪は薄緑色の髪留めで二つに結っている。そういういかにも少女らしい格好が妙に似合っている、端正な顔立ちの少女だった。それでいて表情はどこか暗い影を落としたようであった。真ん中で二つに分けた前髪が白い白い額を目立たせる。年齢は十二~三歳くらいに見えたが、あるいは髪型や服装のせいで実際よりやや幼く見えるだけかもしれないと思った。いずれにしても水戸には、その位の年頃の女児に知り合いの心当たりなどまるで無かった。一瞬自分の車を間違えたかとも思ったが、間違えるほどたくさん駐車場に車は停まっていなかった。

「それが昼食? お兄さんはえらく、小食なんだね」

 運転席に乗り込んだ水戸の手の中のミンティアを見て、少女はそんな風に話しかけてきた。その後で「はじめまして、お兄さん」と改めて挨拶をしてきた。断りもなく他人の車の助手席に乗り込んでいた事もつい忘れて、礼儀正しい子だ、と水戸は感じた。少し大人びた風な話し方をするので最初に車の外から見えた時よりも年上かもしれないと考えたが、一方でこれは大人びた風なのではなくて彼女は元よりこういう話し方の子なのかもしれないと思った。国語の教科書を音読する際にも算数の答えを読み上げる時のような調子で話してしまうような、落ち着いた、聞き取りやすい、感情に乏しい話し方。

 水戸を見る少女の瞳はパッチリと大きく開かれていて可愛らしい。不躾に真正面から見つめてくる様子は年相応にも感じられたが、やはり水戸の目を惹くのは少女のその肌の白さであった。肌理は細かく瑞々しいものの、どこか精巧に出来たビスクドールのような物憂げさを漂わせている。

 はじめまして。と水戸も挨拶を返し、そうしてこの位の年頃の少女と普段話す機会など無いので、それからどのように続けて話したら良いか分からず「僕の名前は水戸・・・・・・」と今自分の車の中に居る事すら頭から抜け落ちて慣れない自己紹介を始めようとし、少女に「知っているよ」と遮られた。

「お兄さんの事は、知っているよ。僕はお兄さんに、会いに来たんだ」

 僕、という一人称がまた少女の幼さを助長した。駐車場の隅で眠っていたトラックが起きて、ゆっくりと加速しながら道路に出て行った。国道は街と街とを繋いでいた。絶えず車が右から左、左から右へと流れていたが、その流れが滞る事は無く、車たちは足早に水戸たちの前を横切った。

 少女は随分遠くから来たように思えた。どうやって来たのかは分からなかったが、白くて生命力に欠けた頬とおでこの色は、どこか都会の色のように思えたので、この辺りで暮らしている子どもではないなと水戸は勝手に想像した。それでいて地元からほとんど外に出た事の無い水戸は、都会で暮らす人の事をあまり想像出来なかったので、どうにもこの隣に座る少女が俗世離れ人間離れし過ぎているように思えた。彼の考える俗世とは会社と取引先の事であって、人間とはそこに努める人たちの事を指した。

 ドリンクホルダーにミンティアを投げ込んだ時、ふと思いついた。もしかしたら少女はミンティアを愛飲し過ぎた自分の下に現れたミンティアの妖精なのかもしれない。突拍子の無い思いつきのように思えたが、そう考え始めると頭に付いている薄緑色の髪留めもなんだか象徴的に神秘的に水戸には見えてきた。

「お兄さんが考えている事はなんとなく想像できるけど、違うよ。僕はどこにでもいる、ただのいたいけな美少女であって、お兄さんがおそらく想像しているような妖魔神仙、妖怪変化の類ではないよ」

「……お昼はもう食べたかな?」

 気を遣って尋ねた水戸に少女は「お気遣いなく」と答える。

「僕は生まれつき消化器官に特別な疾患があって、普通の食事が出来ないんだ。いわゆる、内臓が無いぞうというやつだね」

 それはどうやら少女の決め台詞だったらしい。国道を走る車が途切れ妙な間が出来る。世界も気を遣って、少しだけ静かになった。



「4」

 一九八四年十一月、水戸は三兄弟の末っ子としてこの世に生を受けた。少し歳の離れた次兄と、さらにもう少し歳の離れた長兄がいた。常に自分の数歩前を歩んでいくこの兄二人の存在は、水戸の人格形成に少なからず影響を与えた。

 長兄は寡黙で勤勉な人だった。面倒見も良く、水戸は彼を心の底から尊敬した。

 そんな長兄とは対照的に、次兄は自由奔放な人だった。大学進学を機に地元町を飛び出して関西へ行き、以来十数年、家族の誰もまともに連絡が取れない。長兄が四年前に結婚式を挙げ、その際に姿を見せたのが、今の所それが最後の生存確認だった。それもなんとかその時点では生きているらしいというのが分かった程度のもので、何をしているのかどこで暮らしているのかまでは判然としなかった。借金を作るような真似だけはと両親は思っていたが、逆に大金の入った祝儀袋を持ってきて一同を困惑させた。受け取った長兄だけは周りより少し平然とした様子でいて、あるいは傍からその様子を眺めていた水戸には、少し呆れているようにも見えた。「おまえはだんご三兄弟の真ん中だな」とは口下手な長兄が、かつて次兄がまだ実家で一緒に暮らしていた頃に彼に向かって放った一言だった。周囲には理解できないかもしれないが、一番下から長兄とともに真ん中の次兄を挟んでいる水戸には、なんとなく長兄の言葉が理解できた。

 次兄は長兄と似ていないだけでなく家族の誰にも似ていない、と水戸は思っていた。無論、自分とも。彼はよく喋る、人好きのする性格だった。水戸がまだ幼かった頃、中学生だった次兄はよく、当時付き合っていた女性を実家の自分の部屋に連れて来ていた。連れて来る女性は何度か変わったが、次兄が高校生になる頃には家に女性を連れて来る事が無くなった。代わりに次兄が家に帰らない日が増えた。水戸は次兄が外泊でいない月曜の夜には、ブラウン管の中のチイ兄ちゃんを観て、彼の事を思い出した。もっとも次兄の性格はどちらかと言えば江口洋介の役に、似ていたが。当時流行っていたトレンディドラマを一人何役もこなすような目まぐるしい人だった。

 水戸は心の底から長兄を尊敬し、なるべく彼の足跡をなぞろうとする一方で、心のどこか奥底には普段自分でも認識できない次兄への深い憧憬があった。遠くに見える彼の足跡は、無闇に大きく見えた。目を離すとすぐに何所へ飛んだか分からなくなる彼の足取りを、つい探そうとしてしまう自分がいた。



「5」

 車は少女を乗せたまま来た道を戻り、そのまま工業団地、市街地を抜けて河川敷にある公園に着いた。「さくら公園」と呼ばれるその公園は数年前に整地されたばかりの真新しい公園だった。出来たばかりなので、まだ遊具の類も少ない。ともすれば駐車場の広さが最大の特徴と言えなくもなかった。コンビニの駐車場も広かったが、公園の駐車場はそれともまた比べ物にならないくらいに広かった。広過ぎて却ってどこに車を停めたらいいか悩んでしまうほどだったが、少しだけ悩んで結局水戸は敷地のほぼ中央の位置に車を停めた。

 水戸は自分の住む町を紹介する時、自虐的につい「何も無い町」だと言ってしまう。東京から新幹線で二時間半。かつて世界で一番スプーンとナイフとフォークを作っていた町の、その隣に水戸の住む町はある。隣町にそういった洋食器で有名な町があるからと言って、だからと言って水戸の住む町が他の市町村と比べてレストランが多いだとか、町民が好んでカレーライスをよく食べるだとかとにかくそういう特別な、特筆すべき特徴は何一つ無い。

 大河の支流が町を貫き、その土手沿いにはかつては、毎年春になると空を覆い尽くすほどの桜が咲き乱れた。四月の見頃を見計らって開催される「さくら祭り」は県外からも多くの観光客を呼び込んだ。かつては、だ。

 車から降りた水戸と少女は公園を横目に駐車場を横切り、そのまま土手の方へと向かっていく。平日の昼下がり、やはり駐車場には水戸の車以外は誰もいなかった。おそらく公園の中も同じような様子だろうと水戸は思った。そうして遠目から土手の上を見て、等間隔に並んだ桜の木を見る。歳を取り、痩せ細っているのが遠くからでも分かった。

 水戸は駐車場を渡る間にミンティアのジンジャーエールを一ケース、ビニールを剥いで取り出した。手の中から粉っぽいラムネの匂いが漂ってきた。


 内臓が無い少女はアサヒと名乗った。それが少女の本名なのかどうか、姓なのか名なのかも水戸には判別できない。少女は全体的に色素が薄く線の細い異国の血が混じっているように見えた。あるいはそれは生まれつきの体質から来る栄養失調による病弱さ脆弱性なのかもしれなかったし、またあるいは少女が異世界からやって来たと言われても、水戸にはそれを疑う術もなかった。内臓が無い、という少女の自己申告も嘘か真か分からないのだから。どうでもよいと思った。

「お兄さんには、お兄さんがいるだろう?」

 と少女・アサヒは尋ねてきた。水戸は咄嗟に「いないよ」と答えてしまったが、彼にはすぐにそれが次兄の事を差しているのだと勘付いた。

「僕はお兄さんのお兄さんに言われて、わざわざ遠い所からお兄さんに会いに来たんだ」


 駐車場の出口に自動販売機が設置されていた。アサヒがじっとそれを見ていたので、水戸は試しに「何か飲む?」と訊いてみた。少女は水戸を見上げてから、無表情にコクリと頷いた。どうやら食事は出来ないが、飲み物は飲めるらしかった。水戸が自動販売機にお金を入れてあげると、アサヒは少し背伸びをしてオレンジジュースのボタンを押した。こうして車から降りて並んで歩いてみると、水戸は少女との身長差を改めて実感した。歳の離れた妹がいたら、こんな気分なのだろうか、とも思った。

 石畳の階段を上ると、ちょうど土手の真ん中あたりに出た。桜の並木道はアスファルトで舗装され、水戸達の前後に続いていた。河の上流から下流へ、土手にはおよそ三千本の樹が植えられているという。花も散り、緑色の葉をつけたその枝ぶりを水戸は眺める。それは幼い頃の記憶の中の木々よりも、また少し老いたように感じられた。土手の桜について町の人々は好き勝手な事を言う。土が悪いだとか、平成の何年に一部の老木の植え替えをやって、その際に残った木々の根も傷つけてしまったのだとか。文字通り根も葉もないような噂ばかりで、いずれにしても、かつての絢爛さを称えるような言葉はもう聞かなかった。時代が悪いよ、不景気だからさ、と分かったような事を言う者までいた。

 水戸はアサヒを連れて上流の方へと歩き出した。アサヒは桜の木など気にも留めず、オレンジジュースを大事そうに両手に抱えて飲んだ。水戸もジンジャーエールのミンティアを口に放り込む。普段昼食代わりにミンティアを食べる水戸のその食べ方は、一度に十数粒を口に放り込むという豪快なやり方だった。上下の歯と歯の間をミンティアの粒たちが踊り、ゴリゴリと砕かれていく。そうして腹の中へと砕かれた粒が流れていくが、そんなものでは結局、いくら食べても腹がいっぱいになる事はやはり無かった。水戸は腹の底から立ち上ってくる自らの吐息の、その匂いで胃と肺とを満たしているようなものだった。歩き出してすぐに一ケースを食べ終えた水戸は、今度はドライハードのビニールを剥いで同じように噛み出した。ジンジャーエールよりも一層激しい刺激が食道を駆ける。

「お兄さんのお兄さんは、東京のとある町で闇医者のような真似をしているよ」

「闇医者……」

「ブラックジャックみたいなものさ。お兄さんは世代じゃないかな?」

「……それ、君も世代じゃないよ」

「じゃあ町医者ジャンボ」

 それもアサヒの年代が読む漫画ではない気がしたが、水戸はコメントを控えた。土手の先に可動堰の姿が見えてきた。脇にはその管理事務所と資料館とを兼ねた建物がある。資料館では町の治水事業の歴史が展示されている。

 町の中学生は皆、この堰はパナマ運河の工事に係わった唯一の日本人である青山士氏が云々と地域学習の授業の中で教わる。中学当時の水戸にとって、世界のどこにあるかも知らないパナマという土地はひどく遠い存在だった。地球の裏側にあると知った今となっては、社会人となった今となっては殊更に遠い。東京、日本の裏側にいる次兄は、パナマより遠い存在だろうか。

「お兄さんのお兄さんはそういう闇医者みたいな真似事をしていて、そうして僕のような僕らのような特別な、奇病を患っている人達を救う事を生業としているんだよ」

「それは」

 我が兄ながら奇特な事である、と水戸は思う。彼が誰かを救う為にとか、そういう仁慈の心でもって行動している姿など、弟には到底想像できなかった。一方で許可なくやっている身勝手さはやはり次兄らしいとも思えた。

「お兄さんのお兄さんの所には不思議な人たちがたくさん訪れていたよ。まるで絵本の世界だ。例えば生まれつき心臓がステンレスで出来ているお兄さんだとか。知っている?ステンレスという金属は常にその成分であるクロムが空気中の酸素と結合して表面に薄い不導態被膜というものを形成しているから錆びにくいのだそうだけど、そのお兄さんのステンレス製の心臓は血液中の酸素を使ってその被膜を維持しているものだから、お蔭で彼は年中貧血気味なのだそうだよ。また、例えば平熱が十八℃しかないお姉さんだとか。僕もそのお姉さんの手を触らせてもらった事があるけど、ひんやりとしていて気持ち良かったよ。彼女がいれば夏場は冷房いらずだね。もっとも本人は夏になると体調が悪くなるそうなのだけど。また、例えば三年間一睡もしていないお兄さんだとか。三年寝太郎ならぬ三年寝ず太郎だね。彼には利き酒ならぬ利き睡眠導入剤が出来るという特技があるそうなのだけど、効かないのに利きとは皮肉なものだよね。それから、例えばカレーライスが好き過ぎて遂には食べていなくても身体から香辛料の匂いがするようになってしまったおじさんだとか。おじさんは匂いを気にして、大好きなカレーをもうずっと食べられていないんだよ。可哀相だよね。しかし体臭がカレーというのは、これが本当のかれい……」

「言わなくていいよ……」

 口を挟まなければいつまでも喋り続けそうな子だった。こういう年頃の子どもというのは、そういうものなのかもしれないと水戸は心の中で嘆息する。しかし自分の過去を振り返っていつまでも遡ってみてもそんな時分は無かったので、やはりこの少女は病気のせいでやや厭世気味な雰囲気をまとっているものの元来は明るく生気に満ちた性分なのかもしれないと想像した。

 堰の近くまで来たところで、二人は来た道を引き返す事にした。アサヒは戻る前に土手の端の方によって、ポケットからスマートフォンを取り出し、堰の写真を何枚か撮った。もっと見応え撮り応えのある大きなダムでも町にあれば良かったのに、と水戸はなんだか面目ない気持ちになった。同時に水害から幾度となく町を守ってきた堰に対してそういう感情を抱く事にも自戒した。ここは何も無い町だと感じるのは、何も感じようとしない自分の心の乏しさに思えた。二十数年生きてきて何も見つける事の出来ないそれに対する自虐であった。

 小説や漫画を読む。学生時代から聴いている音楽を聴く。週末になれば映画を観に行く。だけどそれらはいつも水戸の心の表面を、磨き上げた金属のように引っ掛かるところの無いツルりとした感情の上を、滑って地面へと落ちて行った。七ケース目のミンティアのビニールを剥ぐ。ワイルド&ハード。少し偏執的な気持ちでタブレットを振り掌に中身を出す。口腔内から食道、胃から肺まで。上半身の中を全て冷たい水で洗われたような清涼感に貫かれる。飲み込み、何度か大きく息を吸って吐いて、またミンティアを口に入れる。昼飯の九ケースは毎日すぐに食べ終えてしまう。食べ終えるともう翌日の昼が待ち遠しかった。今日のような週末の昼には焦燥が喉を焼くようだった。

 アサヒは彼女なりの拘りがあるのか、何度も角度を変えながら撮り直し、堰の写真を撮影していた。


「6」

 午後からは水戸はアサヒと二人で客先を回る事になった。

 公園の駐車場から出て町の方へと車を走らせる。公園に隣接した土地は何枚かの水田になっていたが、すぐに住宅街が見えてきた。一年中「ソフトクリーム」の幟が立っている中華料理屋を越えて、それから石材店の交差点を直進し国道の高架下を潜って、複合商業施設を右手に通り過ぎる。施設はショッピングパーク・ピーコの名で親しまれ、水戸が幼い頃からその中身を何度も入れ替えながら持続させている。

 商業施設を通り過ぎてそれから二度信号を曲がり、車は古い商店街に入ってゆく。途端道幅は狭くなり、背の低い木造建築が左右に並ぶ。その中の一軒、金物屋の前に水戸は車を停めた。駐車場は無いので路上駐車になるが、路肩に丁寧に止めた軽自動車は丸くなった猫のように小さくまとまっている。車から降りると軒先で白猫が陽に当たって丸くなっていた。水戸にとっては見慣れた光景だった。飼い猫ではないのだろうが、店の者が餌をやるせいで半ば居着いているのだった。

 アサヒは白猫を構おうとしゃがみ込んで猫の顎辺りに手を伸ばす。猫は最初少し身を捩ったが、その後はアサヒに好きなように触らせ、されるがままだった。警戒心の無い野良だ、と水戸は思う。昼寝が優先という感じで人間の事など気にも留めていない様子だった。水戸は猫に夢中になっているアサヒを置いて店の中へと足を踏み入れた。

 家族だけで営んでいるその店は金物屋と言いながら樹脂製の台所用品から町指定のゴミ袋、竹箒からプラスチック製のスノーダンプまで日用雑貨が所狭しと並んでいる。水戸は鰻の寝床のようなその店内を奥に進み店の主人に軽く挨拶をして、コピーFAX複合機のメンテナンスを始める。年季の入った、もしかしたらアサヒよりも年上かもしれないその複合機の扱いに、水戸はいつも苦戦する。湿気の多い時期にはいつも節々を悪くする。咳き込むだけで肺に紙が詰まる。それでも寿命が完全に尽きる事の無いその機械に対して、水戸は念入りに保守業務に取り組んだ。

 作業を終えて店を出るとアサヒはまだ白猫の傍らにいた。猫も相変わらず丸いままだった。車に乗り込み水戸が「猫、好きなの?」と尋ねると、アサヒは得意そうにスマートフォンに収められた大量の猫の写真を見せてきた。それは全て少女自身が携帯電話のカメラで撮ったものだった。運転し始めた水戸はそれらの画面を注視する事は出来なかったが、中には自分と同じくらいの体格である大型犬と戯れているアサヒの写真も紛れていた。

「犬も好きだよ。というか、動物は全部好きだよ。お兄さんが考えている事は大体なんとなく予想できるけど、子どもっぽい趣味だとか思っているんじゃないかな?お兄さんは知らないだろうけど、休日の動物園の入園者っていうのは案外、大人と外国人ばかりなんだよ。動物に癒しを求めるのは、案外、子どもより大人の方なのさ」

 そんな調子で、その後更に二件客先を回ってから、水戸は少女を乗せたまま自社へと戻った。



「7」

 帰社した水戸はそのまま社用車を車庫に片付け、そうしてからアサヒを従業員用の駐車場に連れてゆき、自分の車に乗せ「すぐに戻るから」とだけ言って事務所へと駆けた。時刻は十七時三十八分。定時を少し回り、社内には水戸を含めもう数人しか残っていなかった。平日ならまだ何人かは残業をしている時間だったが、金曜日は理由が無くとも早めに帰るのが社内の暗黙のルールだった。心無い社員はそれをエセ・ノー残業デーと呼ぶ。

 机の上に無造作に置かれた書類をまとめて端に寄せ、水戸は急いで日報を書き上げた。その他のデスクワークは週明けに早めに出社して手を付ける算段だった。無意識にだが、普段よりも報告の文章が簡潔になっていた。上司のデスクに書き上げた日報を提出し、足早に事務所を出た。社内には十分といなかった。車の中ではアサヒがカーラジオを聴きながら待っていた。戻ってきた水戸にアサヒは明日もよく晴れるらしい事と、日曜日には隣町にある杉の木公園という場所でシュールストレミングの大試食会が開催される事を教えてくれた。二人ともそんな奇妙なイベントにはまるで興味も沸かなかったが。


 水戸の自宅は町の中でも比較的新しい区域にあった。町内は一戸建てが殆どだったが、近年、大通りに面した少し開けた土地にコンビニエンスストアが出来た。コンビニが出来て、その周りを囲うようにアパートも幾つか建った。間取りは決して広くないがそれ相応に家賃も低い、単身者向けのアパートだった。レゴブロックをそのまま一つ置いたみたいに白くて四角い。水戸の自宅から徒歩で数分の所には大手家電メーカーの工場があり、その工場に勤める独り身の者は皆こぞってアパートの部屋を借りた。工場の敷地は長い塀でぐるりと周囲を囲われている。その塀は彼にとっての原風景ともいうべき、シンボルだった。水戸が自身の今わの際の走馬灯を想像する時、その塀は決まって現れ、延々同じ模様を流し続ける。

 二人が自宅に着いた時、外はまだほんのりと夕日のオレンジが残っていたが、頭上には薄らと月も見えた。アサヒがラジオで聞いた通り、明日も晴天を予感させる夕陽と月だった。家の中に入る前に「キレイな外壁だね」とアサヒは家を褒めたが、水戸は自分の住む家の外壁を褒められた事など今まで一度も無かったので返答に困った。

「持ち家は家主に似るっていうけれど、本当に、この家の外観はお兄さんの人相にそっくりな気がするよ。ほら、あの辺の窓の感じなんかは、お兄さんの神経質そうな眉の形にそっくり」

 そう言って二階の一室の窓を指したアサヒに「あれは家を出た兄が、かつて使っていた部屋だ」と水戸は教えた。外観に限らず、中から外まで至る所、確かによく手入れされた家ではあった。それは潔癖とは少し毛色の違う几帳面さであり、庭のその短く刈り揃えられた芝の様子などは、確かにその一家の性格を象徴しているようでもあり、そしてそれらは主に家長である水戸の父の仕事だった。そうした家の様式に家人は皆馴染んでいたが、唯一馴染まなかった次兄だけが家を出た。馴染まないから家を出たわけでは無かったが、結果的に家から出た。

 仕事を終え先に帰宅していた父と、夕飯の支度を終えた母とが揃ってリビングでテレビを見ていたので、水戸は二人に少女を簡単に紹介した。詳細は省いたが次兄の関係者だと言うと両親はすぐに納得してそれ以上深く詮索はしなかった。それから、長兄との結婚以後この家で同居している義姉を家の奥から呼び出し、同じようにアサヒの事を紹介した。義姉はアサヒの事を大いに気に入ってくれたようなので、少女の世話を彼女に任せ、水戸は自室へと引っ込んだ。

 長兄はまだ帰っていないようだった。家にもやはり暗黙のルールがあり、朝食と夕食はなるべく家族が皆揃ってから食べる事になっていた。仕事着から部屋着に着替え、そう言えば幼い頃からそんな暗黙のルールに従ってきたが、次兄だけはやはり、このルールに縛られてはいなかったような気がすると水戸は思った。実家を出て行った次兄が、何を考えているのかは分からないが彼が寄越した少女が、今この家の中にいる。その事実が水戸を妙な気持ちにさせた。妙に落ち着かない、それでいて家族が一人増えたような、一人元に戻ったような、奇妙な充足感。長兄が結婚して、その連れ合いとなった義姉と一緒に暮らす事になった時には、感じ得なかった考えもしなかった感情だった。

 着替えを終えた頃に、車庫の方で長兄が帰ってくる車の音がした。それから程なくして、夕飯に呼ばれたので水戸はリビングへと降りた。



「8」

 食卓に並べられた五人分の夕食を見て水戸は胃が少し緊張するのを感じる。長方形のテーブルのいつもの自分の席に着くと長兄が「今日は早かったんだな」と声を掛けて来たので、水戸は「週末だから」と返した。夕食はカレーライスだった。椅子に座っているだけで湯気が匂いを鼻まで運んでくるようだった。カレーの香辛料の匂いは、食欲を強迫観念のようにして水戸に押し付けて来た。レトルトの、特別に手の込んでいるわけでもない至極普通の家庭料理のカレーライスだったが、その匂いは部屋中を暴力的に包み込んでいた。

 アサヒちゃんにはカレーの代わりにと言って、義姉がオレンジジュースを少女の前に出したコップに注いだ。水戸は昼間、土手でもジュースを買ってあげた事を思い出し、あまり甘いものばかり飲ませるのもどうかと思い「虫歯になるから」と義姉が少女を甘やかすのを制したが、当人は「心配は無用だよ」と平気な様子だった。

「僕をそこら辺の子どもと一緒にしてもらっては、困るよお兄さん。確率的に言えば、僕は他の子たちよりも圧倒的に虫歯になる可能性は低いのだから。それに僕は、夜寝る前にはちゃんと歯を磨くからね。物凄く入念に歯を磨くんだよ、僕は。本当は、そんな必要も無いのだけれどね」

 曰くアサヒは歯磨きが大好きな子どものようで、歯磨き粉の味にはちょっとうるさいのだそうだ。こんな病気を患っていなければ、少女はグルメな子だったのだろうかと水戸は考え、一方でいややはり今のような境遇だからこそ味覚に飢えてそのような嗜好に至ったのだろうと推し量った。

 水戸はカレーライスを一口食べ、それから小皿に取り分けられたポテトサラダを半分ほど口に入れた。母の作るカレーライスには毎度ゴロゴロとした人参やジャガイモが入っていて非常に食いでがある。ポテトサラダも同様にジャガイモの存在感が強い。水戸はすぐに口の中がパサつき、胃が膨れていくのを感じる。それから徐々にうなじの辺りが汗ばんでいくのを感じ、次第に開いた食道が肺と心臓を微かに圧迫するのを感じる。

 それでも皿の上のポテトサラダを食べ切り、惣菜のメンチカツも一つ食べ、カレーライスも残さず食べた。コップの水を飲み干すと胸の圧迫感が少し和らいだ。


「お兄さんのお兄さんにお兄さんがいるとは、初耳だったよ」

 夕食を終えて自室に戻る水戸にアサヒは着いてきた。出来る事なら長兄夫婦の部屋に着いて行って欲しいと水戸は思ったが、少女は勝手に、何も言わずに水戸に着いてきた。このままどうやら今日は彼の部屋で一晩過ごすつもりらしかった。

「だけど確かに、お兄さんのお兄さんは次男って感じだよね。三兄弟の次男と言えば、やはり医者と相場が決まっているよ」

 少し考えて水戸は漸く少女がまた漫画の話をしているのだという事に気が付いた。しかしアサヒが言わんとするキャラクター、聖人君子の彼と次兄とでは同じ三兄弟の二男でも性格は到底似つかない。同漫画のキャラクターに喩えるなら、アミバのような偽物の小悪党とまでは言わないが、雲のジュウザのような自由人を水戸は次兄と重ねて連想した。それにしても。

「漫画、好きなんだね。それも、少年漫画やちょっと古い漫画ばかり」

「理想の妹って感じのキャラクターだろう、僕は。別にお兄さんに話題を合わせようとしているだけであって、本当は少女漫画だって読むんだよ」

 今の所、水戸がリアルタイムで読んでいた少年漫画の話題は一つも出てきていないので、水戸はまたしても閉口した。

「しかしけど、お兄さんが望むのなら、セーラームーンやレイアースやカードキャプターさくらの話をする事も吝かではないよ」

「……いや、いいよ」


 水戸が風呂から上がると、先にもう寝る支度を終えていたアサヒが布団に横たわっていた。布団は来客用のものを母が一階から運んできたようだった。布団を一枚、普段より余計に敷いただけで水戸は自分の部屋なのにどうにも自分の部屋じゃないような錯覚に見舞われた。少なくなった足場をぎこちなく差し足で渡って、部屋の奥にあるベッドに漸く辿り着く。時計の短針はまだ十一より手前を指していた。どうにも水戸は眠りに就くには早過ぎる時間に思えたが、少女の手前夜更かしする訳にもいかず、仕方なく部屋の灯りを消した。

「すまないね、お兄さん。僕の就寝時間に合わせさせてしまって。僕は、健康優良児だから、そういう、夜遅くまで起きているとか、出来なくて」

 アサヒの歯切れは段々と鈍っていく。

「しかし、アレだね。お兄さんはその。僕と同じ、で」

 食事があまり、得意じゃないね。そう言い残してアサヒは静かに眠りに就いた。

 水戸は少女が眠った後も暫く寝付けなかった。



「9」

 その晩、水戸は一九九九年の夢を見た。世紀末。学校の、教室の中。夢の中で彼は中学三年生だった。

 夢の中の水戸は黒い学ランを身にまとっていた。それは三年間も着ていたとは思えないほど真黒い、真新しい学ランだった。それでいて夢の中なものだから、自分で自分の外見は確認できないが、身体にピタリと合いまるで窮屈さを感じない制服は、まさしく今自分は中学三年生なのだと彼に誤認させた。誰に聞いたわけでもないが、すぐに中学時代の、それも三年生なのだと理解した。あるいは水戸自身の夢なので、彼がそうと思い込んだ時点でその教室は中学三年のそれになるのだが、夢の中にいる彼はそれにすぐに気付けない。

 その年はその年の暮れは、妙なドキドキに包まれていた。不安も緊張も恐怖も期待も昂揚も、全てが綯い交ぜになったドキドキだった。ずっと遠くから巨大な隕石が迫ってきているかのような気分であり、一方で新しい千年紀には言葉では言い表せないような物凄い福音が待っているようでもあった。薄暗くて薄い靄の中で水戸はただただ落ち着かない気分だった。そんな浮き足立った金曜日の午後みたいな気持ちを、夢の中の地に足着かない気分を、水戸は夢の中でどこか懐かしく感じていた。たった十数年ほど前の記憶だったが、なんだか百年ぶりの思い出のようにも思えた。

「水戸くん、そのみかん、食べないの?」

 そう聞いてきたのは、当時隣の席に座っていた、文芸部のクラスメイトだった。言われて水戸は手元に視線を落とすと、机の上には小ぶりなみかんが一つ。小さくて、甘さがぎゅっと詰まっている事が皮の上からでも分かる、見るからに美味そうなみかんだった。みかんの他には無機質な教科書とノートとが広がっている。橙色が白いノートの上で目立って映えた。それから水戸は教室の中を見渡したが、皆きちんと自分の席に座って正面を向いていた。みかんを食べようとしているのだから、今は給食の時間なのだろうかと思ったが、そうも見えなかった。かといって授業中でも無いように感じられた。その証拠に教壇は空である。

 隣の席の女の子。文芸部のイメージにそぐわない彼女は、夢の中でも当時のように快濶であった。水戸は当時から決して饒舌な男子では無かったが、そんな彼にも彼女はその天真爛漫さでもって臆する事無く話しかけた。そんな彼女の性格のお蔭で水戸も、彼女とは気後れする事無く話す事が出来た。誰かとたくさん話した記憶の無い中学時代において、彼女とのその多くないやり取りの一つ一つは水戸の記憶の奥底に沈んでいて今でも褪せる事無くこうして時々夢を通じて表層へと浮き上がってくるのだった。

 彼女の机の上には、教科書もノートも無かった。代わりに食べ終えたばかりの給食の盆があり、彼女は、これもまた彼女のイメージそのままに快濶に、配膳された給食を全て綺麗に残さず平らげていた。

「みかん、苦手なの?」

「・・・・・・さんは。みかん、好きなの?」

 夢の中で問われた水戸は彼女に問い返す。そして自分に問いかける。当時の僕は、みかん苦手だったのだろうか。給食は、毎日残さず食べていただろうか。彼女は給食を残さなかった。彼女が給食を残す姿を、水戸はあまり見た記憶がなかった。いつも快濶に、礼儀良く、出された給食を綺麗に食べていた。朗らかな人だった。頭が良く、所作が美しい。同級生のはずだが大人っぽく見えた。今もなお。中学三年生の学ランに包まれた水戸は、十五歳まで戻った精神で彼女を見やると、なんだか彼女はやはり自分よりほんの少しだけ大人のように思えた。十五歳と二十七歳を行ったり来たりする自分よりも、その揺らぎを超えて、大人。

「みかん、好きなの?」

 水戸は問うた。彼女はうん、と笑顔で答えた。彼は時々思い出す。どうやら自分は彼女の事が好きだったらしい。



「10」

 土曜日は予報の通り大いに晴れた。

 水戸とアサヒは昼前に家を出たが、水戸は、この調子だと正午を過ぎる頃には随分と強い日差しになりそうだと予感していた。アサヒは昨日は被っていなかった、オレンジ色の小さな帽子を今日は頭の上に乗せていたが、それはあまり日除けになるようなものには水戸には見えなかった。家に何か代わりになるような鍔付の帽子は無かったかと探そうとしたが、義姉に「野暮な事をするものではない」と止められてしまった。

 水戸たちは家を出て、街の中心の方へと向かって歩いていく。車の排気ガスを浴びるのが嫌なので、国道の側は避けて道を選んだ。途中で木々に囲まれた小さい公園の脇を通ったので、水戸はアサヒに寄っていくかと尋ねたが、少女は首を縦には振らなかった。滑り台とブランコしかない、名前も無い公園だった。公園には入らずに二人は更に歩いていく。二人は当ても無く歩いた。目的の無い散歩だった。意味の無い遠回りを繰り返し、時々、建物の影や高架下のヒンヤリとした日陰の中で立ち止まって休憩を取った。

 大した距離を歩いたわけでもないのに、水戸はすぐに軽く息を切らして服の下にもうっすらと汗が滲み出しているのを感じた。運動不足だ、と実感する。そうかといってすぐに生活習慣を改める気にはなれなかったが、水戸はなんとなく改めて自分の年齢を数え直してみた。

 水戸は自分の具合に照らし合わせて、アサヒを「大丈夫?」「疲れていない?」と案じたが少女は却って平気な様子だった。呼吸も乱れていなければ、汗の一つも掻いていない。まるで顔色の変わらないアサヒを、水戸はやはり浮世離れしているなと感じた。年頃の少年少女が持つ無尽蔵のスタミナなど、彼の頭の中からはとうの昔に抜け落ちていた。

「お兄さんは体力が無いね。ちゃんと朝ご飯は食べた? ご飯をちゃんと食べないからそんな風なんだよ。そんな風に元気の無い、無気力な若者みたいなさ」

 好き勝手言う。その上説得力も無い、と水戸は思う。


 二人は途中のスーパーでバレンシアオレンジを一つだけ買った。売り場でじっくり厳選してなるべく大ぶりなやつを手に取った。

「子どもの頃、みかんが成長して大きくなるとオレンジになるんだと信じ込んでいた」

 温州みかんとバレンシアオレンジ。その品種の違いなど、幼い頃の水戸には分かるはずもなく、ただ大きさの違い生育度の違いがそこにあるだけと勘違いしていた。子どもと大人の関係のように。レジ袋を断り裸のままのオレンジを手に持ち彼らは歩いた。子どもは成長すれば勝手に大人になるのだと、大人になれるのだと水戸は信じ込んでいた。

「お兄さんはあまり頭の良い子どもでは無かったんだね」

 水戸は少しだけ眉を歪な形に動かし嫌な顔をしようとしたが、それよりも自然と上がる口角に自嘲とは違う笑みを感じられずにはいられなかった。なんとなく。次兄が彼女を自分の元に寄越した気持ちが理解できそうな気がした。次兄はあれで、弟である自分には甘いのだ。

 物欲しそうに見えたので、水戸は手に持っていたオレンジをアサヒに手渡しバトンタッチする。彼女の小さな手に大玉のオレンジは持て余す。アサヒは両手で壊れ物を扱うみたいにオレンジを抱いて歩き出した。

 二人は更に町の中心部に向かっていく。スーパーからおおよそ十分弱の所、町で唯一の駅があり、駅舎はとても小さいが線路の脇には幹も枝も非常に太い生命力に溢れた樹が何本も植えられている。桜の樹だ。二人は線路を跨いで中心から周辺へと移動していく。古い商店街を抜けて、途中で大きな工場の目の前を通り過ぎて、そうして二人は中学校へ着いた。

「僕がもし、なんでも願いを叶えてくれる魔法使いだったとしたら、お兄さんは僕に何を願う?」

 すぐに正門を潜る気にはなれず二人は敷地の外から、無人のグラウンドを眺めた。乾いた土。それらを囲うように生えた、手入れされていない雑草の絨毯。奥にある鉄棒に陸上部がよくぶら下って懸垂していたのを水戸は思い出す。何も変わっていない。

「おっと。このオレンジを爆弾に変えて校舎をぶっ飛ばしたいとか、そういう安直なやつは止めてよね。そういう、よくあるやつ。国語の教科書だけで齧った梶井リスペクト的な、安っぽいやつはさ」

「……君は、頭の良い子どもなんだな」

 梶井基次郎の「檸檬」を国語の授業で習ったのはいつだっただろうかと水戸は考える。正門を素通りして駐輪小屋をぐるりと回る。そうして体育館の脇にある裏門から二人は学校の敷地へと侵入する。不思議と人気が無かった。休日でもクラブ活動に勤しむ学生や、教師たちが少しはいるかと思ったが。あるいは本当に誰もいないのかもしれないと水戸は思った。不思議な感覚だが、アサヒと一緒に歩いているとその不思議も薄れた。またあるいはもう、自分は彼女の魔法に既に掛かっているのかもしれないと、夢の中を歩くような足取りで進んだ。

「お兄さんはこの学校に通っていたの」

 そうだ、と水戸は答える。そうしてまた水戸は自虐的に思考を巡らせる。自分の人生は劇的ではない。人生を変えるような、生き方を左右するような、強烈な分水嶺は無く。思い出に乏しく、感動に疎く、トラウマは薄い。だからいつまでも中学時代の夢など見るのだ、と。何も無いから。それはたぶん、おそらく今後も。

 生徒玄関から校舎内へ入った。他人の下駄箱を使う気にはなれず、下足はそのまま放置して来客用のサンダルを二人で履いた。来客用サンダルが置いてあった向かいには用務員室があり、そこには外部から来たものを促す受付が設置されていた。来校者は必ず記入して下さいとの事。これは、かつては無かったかもしれない、と水戸は思う。受付には記入せずに二人は進む。教室棟へと向かい、一階の廊下を見渡して水戸は少し足を止める。並ぶ室名札を眺め、ほんの少しだけ考えたが、やはり三年生時の教室を目指す事にして階段を上った。


「中学生の頃、あまり喋るのが得意じゃなかったんだ」

 それは些細な出来事だった。思春期特有の、過剰な自意識からくる、小さくて大きな悩み。他人より鼻が大きくて顔のバランスが悪く感じるだとか、半袖からのぞく自分の腕の毛が他人よりずっと濃く見える羞恥だとか。自分以外は誰も気にしない顔の端のニキビとか、そういう類の。

 水戸はある日突然、自分の口臭が人のそれより臭うのではと感じるようになった。教室でクラスメイトが匂いの話をすると(それが自分とは全くの無関係の話題と分かっていても)水戸は自然と身を竦めて息を殺した。口を閉じた。ひどい時には胃がキリキリと痛んだ。過敏だったのだ、あの頃は。愚鈍に生きたつもりだが、繊細である事を強いられた時間もあった。年齢。良くも悪くも青春だったのだ。もとより口数の多い方ではなかった水戸は、中学時代を経て、より一層無口になった。薄いトラウマだ、と水戸は思う。

「今もお兄さんは上手そうに見えないよ」

 三階までの階段を登り切り、目指す教室は廊下の突き当り、一番奥だった。アサヒは先程まで両手で大事そうに持っていたオレンジを、今は額に乗せてバランスを取りながら落とさぬよう遊びながらフラフラと歩いている。あれが爆弾だったら、と水戸は妄想してみるが緊張感は得られなかった。現実味が薄く薄く引き伸ばされていく。爆発に巻き込まれても自分は死なない、という夢の世界の無根拠。そういえば、と水戸はぼんやりした頭で気付く。

「帽子、どうしたの」

 気が付けば先程まで被っていたオレンジ色の帽子は、少女の頭の上から消えていた。アサヒはオレンジを額の上から両手に持ち直し、じっと水戸の方を見る。

「知らないの、お兄さん、忘れたの? 学校の中では、教室に入る時は帽子は脱がなきゃなんだよ」

 その口調は確かに不注意なクラスメイトを諭すような柔らかさを持っていたはずだが、無遠慮に向けられたその視線は、その大きな双眸から水戸は静かな圧を感じた。冷たく静かな圧。親や教師からの説教ではなくお寺で聞くお坊さんの説法に近いような。三年五組の札が掛かる教室の戸を開く。教室の中は案の定、無人だった。アサヒはゆったりした足取りで教室の中央へ入っていく。ついで水戸も教室の中へ、慎重な足取りで入っていく。何度も何度も出入りしたはずの教室だが、ひどく緊張した。それは十数年振りの凱旋、というのが理由だけではないように水戸には思えた。

「さて。お兄さんの席は、どこだったの? 憶えているかな」

 アサヒはまるで何かの儀式の手順を確認するような口調で問うた。水戸は憶えていないと応える。何回か席替えもあったし、思い入れの深い席などそうそう憶えてはいなかった。たしか、この辺かな、と水戸は一番窓側の後ろから三番目の席に腰を掛けた。そこは夢の中でよく彼が座っていた席だった。腰を掛け、ちらりと隣の席に目をやる。勿論席は空席だ。

「何度も言うけれど、オレンジは爆弾じゃないし檸檬でもない。それでもお兄さんが望んで。何か過去を吹き飛ばすような。払拭するような期待があるのなら」

 アサヒは教室の中をグルグルと歩き回りながら話す。水戸に話しかけているようであり、教室中に授業しているようでもあった。文法よりも発音や話すことに重点を置いている英語教師みたいにして、グルグルと教室中を回る。

「例えば勉学そのものへのコンプレックス。あるいは、苦手だった教師」

 教壇にオレンジを乗せて少女は水戸の顔を見る。または。オレンジを持って再び教室内を歩き出す。

「嫌いだったクラスメイト。いじめ……は無さそうかな、お兄さんの場合」

 いくつかの机にオレンジを乗せては持ち上げ、少女は水戸の席に近付いてくる。

「好きだった女の子」

 少女は水戸の前の席にオレンジを乗せる。「……そこじゃないよ」水戸は小さい声で応える。開く口が小さくなる。呼吸がし難い気がしてきた。

 ドン。少女はこれまでよりも力強くオレンジを水戸の机の上に置いた。身を竦め、背を丸めていた水戸は咄嗟の事に驚き思わず仰け反る。目の前に、アサヒの顔が随分近くにあった。

「自分自身」

 座ったままの水戸に、アサヒは不意に口づけをした。驚いたままの彼の唇に、少女は強く自身の唇を押し当てた。彼は、水戸は、少年はオレンジが爆発するよりもっとずっと驚いた。

 長いのか短いのかも分からなかったが、触れたままの唇を先に離してきたのもアサヒの方からだった。

「お兄さんはなんだか、生きているって感じの味がするね」

 休日なのに、どこか遠くの方でチャイムが鳴っているような気がした。



「11」

 翌日。水戸は帰路へ着くアサヒを送るために、家から車で二十分ほど離れた新幹線の停車駅へとやってきた。

 駅前のロータリーに車を停めて、水戸はアサヒを見送った。

「あのさ、もし向こうで兄に会ったら、よろしく伝えておいてもらえないかな」

 別れ際、歯切れは悪いがはっきりした音で彼は伝えた。元気でやっている、って。アサヒは笑みを返し、伝言を承った。その笑顔は少女のくせにどこか大人っぽく、かつて好きだったクラスメイトを水戸に思い出させた。

「それはきっとお兄さんのお兄さんも喜ぶと思うよ」

「うん。それじゃあ、君も元気で」

「ありがとう。お兄さんもね」

 少女は二階建ての新幹線に乗り去っていき、そうしてすぐに、本格的な夏がやってきた。


<了>

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― 新着の感想 ―
[良い点] 拝読しました。 とても独特な雰囲気のある小説ですね。読み込むほど味わい深い作品と拝察しました。文章表現も凝っていて、知らない言葉を辞書で調べながら、ふむふむと読み進めました。 水戸さん…
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