誰よりも愛しい君へ
「きっ、貴様ァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
ダリルが怒りに吼えた。
再び、さらに多くの雷の槍を空から降り注ぐ。しかしその矛先は、シュタールではなく村人を抑えこむ黒甲冑の兵隊へと向けられている。空を漂う雷の球体が。ビリビリと果てしない紫電を帯び、シュタールの頭上から村全体へと拡散する。
やがて電気の糸で繋がれた雷のしゃぼんは、初期のサッカーボールほどの大きさからテニスボールほどまで縮小すると、閃光と共に雷の槍を辺り一面へと振り下ろされた。
天変地異にも匹敵する惨劇が完成する。
あちこちから鳴り響く轟音。百を超える球体から放たれた雷は、正確に村人を抑え込む黒甲冑の兵隊の心臓を打ち抜く。
対してすぐそばの村人には連鎖的に感電してしまう様子も、ほんのわずかな痺れと言った些細なダメージすらない。
雷天使の鉾
ダリルが使用した武器―――魔装の名である。普段は左手の中に存在するその魔装は、ダリルが魔力を通すことによって作動する。空中にいくつもの雷でできた球体を形成し、左手人差し指から放出する糸状の雷を意識下で操作することによってその糸を通して魔力を球体へ供給し中心点から放出する。
その雷の姿がまるで空から降り注ぐ槍のようであることがこの名の由来である。雷球は大きさはサッカーボールほどの大きさで固定されるが起動時に使用した魔力の分だけ数を増す。今回ダリルが起動時に使用した魔力は、ダリルの持つすべての魔力の内、4分の1程度。そしてその後の放電の規模は、最初に生み出された雷球の数 ÷ 起動後に使用した魔力の量で決まる。
さらにこの魔装の生み出す雷は、直接触れない限り感電することがないという特徴を持つ。どれもこれもが国家の最高峰。まさに国に仕える騎士の力を惜しげもなく発揮し尽くす。
故に村人を気にすることなく、ダリルは雷を墜とすことが出来る。だが当然問題もあった。シュタールの頭上を浮遊していた雷球は既に村中に散っている。それは目の前にいる最も厄介な敵への攻撃が薄くなるということだ。
近づくことはできない。つい先ほどの出来事だ。桑を武器に立ち向かった仲間が、それでやられている。
「エリナ!アルラを連れて早く!」
思い出したようにエリナがアルラの手を引いて走り出す。逃すものかと巻き角の戦将が足を踏み出すも直後に雷に打たれ、強制的に行動を中止する。
しかし、少ない。さっきまで百を超える雷球がシュタールの上空を漂っていたのに対し、現在は十程度の数しかない。当然振り落とされる雷の槍の数は減り
その分の雷が黒甲冑の兵隊へ墜ちた。
雷が村に降り注ぐ中、アルラはまだ立ち上がれずにいた。体がではなく心が。逃げたくとも、体が思うように動かない。腹の底からどす黒い何かがこみあげてくるのを感じた。受け止めきれる、ハズもない。大切な存在を目の前で失った。今まで隣で笑っていた少女はもういない。
そんな重苦しい感情の鎖がアルラの心臓を締め上げる。
(お前に何ができた、なんで何もしなかった?力がないからか?勇気がないからか?それとも両方か?)
母に手を引かれ、力なく走りながら心の中の自分に問いかける。暗い暗い泥沼の中で、アルラの前に自分の姿を形どった何かが現れて問いかけた。
(力があれば助けられたか?勇気があれば助けられたか?片方だけあっても無駄だった?両方とも持ってない僕にはどうしようもなかったか?)
自問自答の果て、一つの答えに辿り着く。自分自身の中で極限まで混乱を広げてしまった彼の答えは正しいとは限らない。ただし決して間違っているとも大声で凶弾する資格は誰にもない。きっと正解なんて最初から存在しないのだろう。
少年は一人、孤独の中で呟いた。
「僕のせい...?」
バチンッ!と。
軽い音と共に、アルラの頬に平手の痛みがあった。顔を上げるとそこには涙を流してしかししっかりと前を向く母の姿。
いつも優しい笑顔を浮かべ、どんな時も寄り添ってくれた母が、初めてアルラへと痛みを与えるやり方を取った瞬間だ。あまりの不慣れにアルラの沈みゆく思考は停止し、いつの間にか真剣に母の横顔を見つめていた。
「気持ちを負の方向へ傾けてはだめよ。あなたは何も悪くない。悲観的になってはいけない」
震える声で諭す母の表情は、誰よりも強く、何よりも儚い。
後方100メートルほどの所では今でも雷が降り注ぎ、光と音と衝撃が追い風のように二人の背中を押す。聞きなれない、聞きたくもない異様な音が鼓膜にこびりつく。
今までの落雷とは異質の音の正体は、アルラ達と村をはさんで反対側の森の中。巨大な砲台が頭をこちらへ向け、山火事のような火炎放射を繰り出していた。そのあまりにも大きな炎は、建物も、田畑も、人も、全てを平等に灰へと変えた。
今まで続いた平穏も、みんなとの思い出も、全てが灰に変わっていく。炎に巻かれながらもゆらりと動く黒甲冑の姿はアルラの心にさらなる絶望をねじこみ、不安という害悪の種を植え付ける。
自分もああなるのだろうか、考えるだけで嫌な汗が吹き出す。中にはもがき抗う者もいたが、その抵抗もむなしく次々にその命を散らしていく。炎の中心地。雷の球体が再び巻き角の戦将の頭上に集中し、2つの影がぶつかり合うのが見える。
何か話しているようだがここからでは会話の内容を聞こえるはずもない。
無力な少年にできることは、父の無事を祈ることだけだった。森へ。少年とその母は、もう振り返ることはなかった。ただひたすらに走った。涙を流して走った。歯を食いしばって走った。
失われた命を叫びながら走った。己の無力を嘆きながら走った。理不尽に怒りながら走った。
父の無事を願いながら走った。行く先の未来を願いながら走った。
走った。
走った。
走った。
走った。
やがて雷の音も炎の音も聞こえなくなると、少年は全身の力が抜けてその場に膝をつき、母は息を切らして両手を地面につけ、ほほから雫をこぼした。
今の二人に聞こえるのは、互いの荒い息遣いだけだ。一刻も早く遠くへ。そうはわかってはいても、体は動かない。肉体の疲労からではない。心の疲労からだった。目の前で幼馴染が殺され、故郷を焼かれ、父の安否も分からず、残されたのは母と自分だけ。そんなどうしようもない状況が少年の心を突き落とした。
アルラは再び迷走する。誰にでもなく、自分自身に語り掛ける。こうなってしまった経緯を。こんなことが起こってしまった原因を。こんな残酷を押し付けてきた静かな悪意を。もはや抗う気力さえ残されることも無く、この世にたった一つの命は奥歯でがりがりと擦り付けた。
どうしてこうなった。僕たちはただひっそりと静かに生きていただけだ。何も悪いことなんてしていないじゃないか。
心に絡みついたどす黒い鎖が、闇を帯びて膨れ上がるように感じた。恐怖はやがて怒りへと姿を変え、恨みへと辿りつく。当たり前だった平穏はもう帰ってこない。生まれ育った故郷も、長き時を共に過ごした少女も、炎に巻かれて焼け焦げて、灰になって崩れ去り、どこかへ消えてしまった。
したくもない実感が確かにその手に感触として残っている。
アルラは開いた手を強く握ると、行き場のない感情をこめて大地を殴った。何度も何度も殴った。拳が血を吹き出し、ぽつぽつと地面を染めても止まることはない。心の中で真っ黒な感情が渦巻いて、アルラの心を飲み込んでいく。膨れ上がった闇の塊をほどいたのは、母の言葉。
抱きしめて、誰かの温もりを思い出す。
「ごめんね...」
アルラは静かに、ゆっくりと母へと向き直る。二人とも瞼は腫れ上がり涙の跡が顔に残っている。エリナは目をつぶり呼吸を整えると力ない声で話し始めた。
「悪いのは...全部母さんなの...」
「...」
「私さえ村にいなければ、きっとこんなことにはならなかった」
「母さん」
重苦しい空気が辺りに蔓延する。アルラはその先を聞こうとはしなかった。正しく言えば聞けなかった、だ。母に何があったかは分からない。だが聞くべきではないとアルラは直感で理解した。そして本当に悪いのが母でないことも分かっていた。
エリナも俯いて黙り込む。その表情からは絶望だけが読み取れた。人とは底知れない恐怖を体験すると、こうも変わってしまうものなのか。やがてこの重苦しい空気に耐え切れなくなったアルラが切り出した。
「母さん、行こう。」
母はゆっくりと頷き、絶望の色に染まりあがった顔を上げて、か弱い小さな声で返事を返す。
「そう、ね...」
二人は歩き始めた。目的地はない。しいて言うならより安全な場所へ。生きてさえいれば、また父には会えるだろう。そう信じていないと二人は心の平穏を保てない。
今はとにかく。遠くへ。
2人は一言も発することなく歩き続けた。やがて星が西の夜空に消えてゆき、明るく照らす太陽が登っていった。空は橙に染まり、どこからか鳥が鳴いた。
一晩の出来事と括るには長過ぎる時間が過ぎ去ろうとしていた。あれからどれだけ歩いただろうか。村からはだいぶ離れたはずだ。ひたすら東へと歩き続けた。夜も明け、日が昇りかけている。どれだけ歩いても、目に映るのは似たような緑だけ。身体も心も限界だった。
これから先のことを考えると、震えが止まらない。
その時だ。
後方からガサガサと草をかき分けるような音を二人は聞いた。近づいてくる。希望が恐怖を上回った。
少年は、ふと反応する。
「父さん?」
期待が意図せず言葉となって漏れ出ていた。根拠もなく信じていた。父さんが勝ったのだ。僕たちは助かった。もう大丈夫なのだ。
人は心の底から絶望した時、状況を自分の都合のいいように解釈する生き物だ。試験に失敗したとき、悪いのはこの時期に面白いゲームを発売した販売会社だと道で転んだとき、悪いのはこんな悪い道を作った工事員だと。己の心の平穏を保つために、人は都合よく解釈を捻じ曲げようとする。それは心に負の感情が溜まっているほどに効果を表す。絶望が支配する心に少しでも希望を与えようと、脳が働きかける
アルラとエリナの表情に明るさが戻りかけたその時。
「やっと追いついたな」
心臓を握りつぶされたような感覚が2人の心を支配した。
草木をかき分け現れたのは、頭に2本の巻き角を持ち、銀の義手を身に着けた戦将。シュタールだった。装備は所々壊れ、肌は黒く焼け焦げている部分もある。再び現れた恐怖の象徴に整えたはずの息は自然と荒くなり、アルラはパニック状態に陥った。目が回り、脳を直接殴られたような鈍い痛みが頭に現れる。胃がひっくり返ったような吐き気もだ。
ずしずしと一歩ずつ、ゆっくりと2人に歩み寄る巻き角の戦将。そのあまりの迫力と恐怖にアルラは口を押え、立ち上がることもできない。尻もちをついたまま後ろへ後ずさる。
「あの人は...ダリルさんは...」
「流石に手こずったが、全盛期の雷鳴だったらあるいは私を殺せたのかもしれぬな」
その言葉を聞いた瞬間、アルラは気が遠くなるのを感じとった。ああ。またこれだ。リーナを失ったときと同じ、この世のあらゆる負の感情を無理やり混ぜ込んだようなどす黒い何かがとめどなく溢れ出る。
「うっ、くっ...」
この世に立った二人の最愛を失って。
いつでも『母』を貫き通したエリナの瞳から雫がこぼれ落ちる。彼女の夫でありアルラ・ラーファの父であるダリルはシュタールに敗れ、殺された。信じたくはなくとも、結果がすべてを物語る。
そう宣告されたようなもだった。
愛する夫はもういない。そんな虚無感と絶望感がエリナの体と心を蝕む。
「さあ、共に来てもらうぞ」
筋肉質な手が伸びる。少年に残されたたった一つをも奪い去ろうと。ただただ肩を震わせるだけの『母』。もうこの世にはいないであろう『父』。
『母』は迷うことなどなかった。
「あなたは」
声が震えている。体もだ。喉の奥から掠れた声を絞りだすエリナが
害悪から守るようにアルラの前へと立ち、シュタールの声を遮った。
「あなたはきっと、私がついてゆくと言ったとしても、この子を殺すのでしょう」
「その通りだ」
戦将は眉一つ動かさずあっさりと答える。それを聞いたエリナにもゆっくりとだが変化が現れた。フーッと息を吐き、深呼吸をすると落ち着いた様子で言い放つ。
「ならば答えは出たわ」
エリナが短いセリフを言い終える前に、アルラへと手を向ける。
するとただ一人の『母』の左手が淡く輝く電灯のようなか細い光を発したと思えば、光は紐のように腕からほどけおちてアルラの体を包み込むと淡い光となって周囲を照らした。
生き物のように光が纏わりつく様はまるで夏の夜川に幻想を灯す蛍。あるいは暗闇の中で光り輝く星々。ぽつぽつと雪のような光がアルラの体から空へと舞う。
「何のつもりだ?」
戦将が背負った大剣を引き抜き、エリナの顔へとその剣先を向ける。アルラを覆う淡い光は徐々に光度を増して、全身をオーロラのようなベールが包み込んだ。
光の中のアルラは。
「私の罪は『逃避』、何時いかなる状況からも逃げおおせる力。いくつもの次元を超えて
対象を移動させる。移動先は私にもわからないし、どれだけ遠くへ飛ぶかは私が背負う負担次第」
そして、と一人の母が言葉を紡ぐ。
「この力は親しい生物にしか働かないから、あなたを飛ばすことはできないわ」
戦将が、初めて苦い顔を浮かべた。たとえ捕らえたとしても戦力として戦場へ投下出来ないと知ったからかここで情報を持った人間を一人逃してしまうと思ったからか。額に汗を浮かべ、口を固く結ぶと、エリナを呪うような目で睨みつける。
「でも、私の命を対価にこの子を逃がすことならできる」
エリナの瞳に決意が宿る。これは賭けだ。転移する先によってはさらに苦しい思いをさせてしまうかもしれない。だがこの男からアルラを逃がすにはこれしかない。決意は覚悟へと変化し、エリナは自分の負の心が取り除かれたような気がした。
最愛の子のために。
ゴオッッ!!という音と共に、アルラを中心に風が渦巻く。ここでようやく、アルラに理解が追いついた。母はここで死ぬ気だと。
瞬間。
やらせはしない。と、戦将が飛び出した。銀に輝く右腕を握り、小さな命へ拳を振り抜く。
「!!」
攻撃は届かなかった。本来であれば今頃ちっぽけな少年の顔面を捉え、遥か後方へ吹き飛ばしているはずの腕は空中で突如途切れて銀の義手の手首から先が消滅し、アルラの背後、数メートルほど先にその手首は現れた。
「一度発動さえさせてしてしまえば、生を脅かす害悪はもう届かない。私にも、この子にも」
アルラを包むオーロラが、全てを飲み込む炎とも、眩く爆ぜる雷とも違う。ほんのりと優しい光を帯びると、アルラの足先が砂となって崩れ落ちた。
別れの時は近い。アルラの体は端から徐々に乾いた砂のように崩壊を始める。
「母さん!嫌だっ、嫌だっ!!」
少しの沈黙の後、母は振り返り、アルラをそっと抱きしめる。
アルラの頬を伝う涙が、エリナの肩へと流れ落ちた。既にアルラは腰より少し上の辺りまでの体が砂と化していた。
崩れ行く子を優しく、優しく抱きしめた母は、見送るように囁く。
「アル、私の可愛い子。あなたのこれからに幸福と平穏が訪れることを
遠い場所から願い続けるわ」
何度目かもわからない大粒の涙が親子の肩を濡らす。
「ありがとう」
母の最期の温もりを感じながら、母の声を聴きながら。アルラ・ラーファは虚空へ消えた。最後にアルラの目に映ったのは最愛の母の、強く、優しく、温かい笑顔だった。
森に残されたのは百戦錬磨の戦将と、一人の母と、その子の残骸の砂粒だけ。絶望が渦巻く森の中。ひとかけらの希望が抗った。その希望はとても小さなものだった。しかし小さな希望は抗い続けた。荒まく邪悪に喰らいついた。そしてその希望はついには小さな命を救って
赤い華を咲かせて散る一人の『母』は確かに、その場所に生きていた――――――――。