再起動
「いやさ。こう見えて私も医者生活は長いけどねえ、一日に二度も緊急搬送された奴なんざ初めて見たよ。何、よっぽどな悪霊にでも憑かれとんのかこのガキァよお」
(病院だというのに)すぱすぱと煙草をふかしながらそんな風に言ったのは、もう何年使っているのかわからないくすんだ白衣を纏う、初老の女医だった。とても医師免許を持っているとは思えないような立ち振る舞いの女医の視線の先には、全身を包帯で固められた青年がベッドに寝かされている。
余すところなく傷だらけだったそれの処置が終わったのがつい数分前、今は昏睡状態で、当分は起きる気配がないらしい。また、命に別状はないとのこと。
灰皿に煙草をぐりぐり押し付けた女医にそう聞かされて、とりあえずキマイラはほっと胸を撫で下ろした。
ここは病院。というより小規模な診療所、神人ゲラルマギナとの最初の邂逅で意識を失ったアルラを運び込んだあの診療所だ。すっかり夜も更けて、しかし灯りが灯った部屋はこの一室だけなので、アルラとキマイラの他に患者はいないらしい。平和なのはいいことだが、わからない。もうほんの数時間後に、ここは無数の怪我人が溢れかえる地獄になる可能性を秘めているのだから。
「.........」
「.........」
ところで、だ。
先の神人ゲラルマギナ戦に置いて行かれた少女がいるらしい。
隣からのプレッシャーが強すぎて、どうしても視線をそっちにやれなかった。
ラミル・オー・メイゲルはたった一人、彼女を巻き込みたくないというアルラの希望によって、ブリッツコーポレーションへ乗り込む際に置き去りにされた少女だ。『世界編集』という強力な異能を扱う彼女は、自分だけ置いて行かれた上に二人がぼろぼろになって帰ってきたのが余程許せないらしく、再会してからずっとこの調子だった。
突っつきたくなる膨れっ面だが、実際にその爆弾を突く勇気はキマイラには無かった。噛みつかれて指が一本無くなってしまいかねない。或いは、彼女の異能『でとんでもない報復を受けるかも。
考えただけで止まらない身震いを勘違いしたのか、女医が余った毛布をキマイラに投げつけて、忠告した。
「ったく治療中に抜け出してまで何してきたんだか知らないけどね、医者の言うこと聞けねえ奴ァ早死にするよ。幸い、当たり所が良かったんだろう。打撲と内出血程度で済んでるけどね」
当たり所が良かった。運が良かったと女医は言ったが実際にはきっと違う。ゲラルマギナがこの程度で済むように調整してアルラを叩き潰したのだ。奴は命に傷をつけることを何より嫌っていたし、何より、運がどうのこうので博打の神人にアルラが勝ったとは考えにくい。
最後の脱出劇も、恐らく見逃されただけだ。奴が本気で二人を捉えようとしていたらどうなっていたか、それは今となっては知る由もない話だが、しかし決して不可能では無かったはずだ。むしろ、アルラを死なない程度に痛めつけるよりは何倍も簡単だっただろう。
ずきんと、不意にキマイラの頭に電撃を流したような痛みが奔る。不意に垂れた鼻血を慌てて拭おうとティッシュ箱を掴むキマイラを見て、また煙草をふかしながら女医はため息をついた。
「つかアンタもだよキマイラちゃん。オーバーコストを連続で使い続けたんだろ、内臓のダメージが尋常じゃあない。肺に血が溜まりかけてるし筋断裂も起こしてる、起きてるだけで激痛のはずだよ。さてはまた自分の脳みそいじって痛覚誤魔化してるね」
「うっ...」
「痛みってのは体が示す限界のシグナルなんだよ。無痛症患者が動脈を傷付けたのに気付けずぽっくり逝っちまった事例を知らないのかい?無くせば自由に動けるってわけじゃない、いつかガタがくるって前にも警告したはずだよ」
「すみません...」
「私に謝ってどうする。謝罪の相手は自分の体でしょーが。あとその子にもね」
言われて、恐る恐る視線を横に傾ける。
ちらっと様子をうかがうだけのつもりが、がっつり目が合ってしまった。思わず毛布で仕切りを作って視線を遮ろうとするも、二人は3メートルどころか1メートルも離れていない、つまり彼女の射程範囲内。『世界編集』によって毛布を『切り取り』され、もう向かい合うしかなくなってしまう状況の出来上がり。共通の友人がトイレ等で席を立った飲み会のような理不尽なプレッシャーに押しつぶされそうになっているが、はっきり言って地獄である。
お通夜のような空気に耐えかねたのか、はたまたキマイラとラミルのことを想ってか、沈黙を破ったのは初老の女医だった。
「ったく、まだこいつの治療は済んでないよほら出てった出てった!野郎の全裸まさぐるババアなんて見たって面白くないだろう。アンタら二人は外で仲良く今後のことでも話し合ってきな」
「ちょ、あたしも怪我人なんすけど!!ちょ押さないでってば」
「丁度いいです。二人っきりで話したいこともありますし、治療に専念してもらうためにも私たちは席を外しましょう。ね?キマイラさん」
「え?いや、あのラミルさん?」
「ね?」
「......はい」
切り出しといてなんだが、女医は少しだけキマイラを可哀想に思った。が、結局自業自得だしこちらとしても患者を勝手に連れ出したのはいただけないのでざまあみろとも思う。
ラミルとその圧にやられたキマイラが病室から出ていったのを確認してから、だ。
「やれやれ、これでいいのかい?」
女医がそう声を掛けて、アルラは静かに体を起こした。
首をごきごきと鳴らそうとして、しかし打撲の痛みに思わず表情が固まる。所々痛む個所はあるが、外見的なダメージもキマイラ程ではない。
「助かるぜ先生」
「全く、起きて早々『意識が戻ったのは内緒にしてほしい』なんて言われるとは誰も思わんよ。それで?あの子たちに内緒で何企んでるんだい」
「復讐」
「やめときな」
即答だった。
女医はキマイラが座っていたパイプ椅子にどかんと腰を乗せると、クリップファイルに留めていた書類を何枚かベッド上に投げ捨てた。
一枚手に取ってみると、人体図に書き加えられた細々とした文字の束を見るに、これはアルラ・ラーファのカルテ。アルラ本人も把握していなかった『体の悪いところ』についての記述がびっしり表記されたそれを手に取り、しかし文字が多すぎて途中で読むのをやめる。
ベッドから起き上がろうとして、体のあちこちに痺れるような痛みを覚える。
「アンタが思ってる以上にアンタの体はズタボロだよ。全くどんな使い方したら人体ってのはこうなんだい」
「触診と視診だけでわかるもんなの?」
「わかるだろ、私は怪物ちゃんの主治医だよ。並大抵じゃないのさ」
妙に納得できる言い回しが出てきた。
書類を投げ捨て、ベッド横の机に畳んで置いてあったぼろぼろの衣類を包帯の上から着用する。
「死ぬよ」
とても医者の発現とは思えない。しかし明確でわかりやすい警告が発せられた。
女医の瞳の色が、その言葉がどれだけ真剣なのかを教えてくれる。
「アンタの体だ、アンタが一番よく知ってるでしょうに。それとも言われなきゃ気付けないおバカちゃん?」
「高校の頃の模試判定は大体Aだったよ。それに人なんて死ぬときは死ぬし死なないときは死なないもんだ。どちらにせよ動かないと始まらない。」
最後にウィアを掴み取ると、ポケットにしまい、申し訳程度にテレビのディスプレイの反射で外見を整えた。額にバンダナのように巻き付いている包帯を(邪魔だから)取ろうとして、女医に止められた。
もう一度首を鳴らそうとして、今度はがきごきっ!?と音が鳴る。
「あいつらにチクらないでね、生きて帰っても殺されちゃう」
がらがらと開けた窓の外に広がる闇は、手を伸ばせば吸い込まれてしまいそうで安心できる。普段は何気ない静けさで満ちているであろう夜も、今夜ばかりは地震対策のアラートで濁されていた。
冷たく差し込む夜風が体中の傷を撫でる。
窓枠に足を掛けると、そこからは早かった。
あっという間に見えなくなったアルラの背中を、口の隙間から白煙を吐く女医は馬鹿を見る目で見送った。