骨折れ肉断たれども
「......我も己の異常を自覚しているが、君も大概だな。仲間をビルから突き落とすとは」
「一緒にすんなよ。全人類巻き込んで心中希望なあんたと俺を。誰がどう見たって比較になんねえだろ」
「我は幸福を望んでいるだけだ」
「あんた自身のな。それも自己満足だ、誰かに頼まれたか?頼まれてねえだろ?」
「...始める前に、少し話をしようか。青年」
アルラの背中を突き抜けた冷たい感触は、背後の割れた窓から吹き込む夜風だけが原因じゃないはずだ。体の僅かな振動も、武者震いだけが原因じゃないように。
足元でぱきぱきと、ガラス片の砕ける音が聞こえる。
「考え直す気は?」
「ねえよ」
「ふっ、だろうな。そう言うと思ったよ」
己の心音以外の音が消えて感じる。
眼前のゲラルマギナの表情は至って穏やかなのに、空気だけは内側から張り裂けるような重圧で満ち満ちている。プレッシャー...とでも言うべきか、空気中に細かい鉛が大量に浮かんでいるかのような重さを、確かにこの身に感じている。
ここに来る前に『ウィア』と交わした会話(?)を思い出す。
頼んでもないのにカメラの映像からゲラルマギナの戦力を演算したウィアによると、こちらの勝率は限りなくゼロに等しいらしかった。キマイラの元へ辿り着くまでの道中、道案内をほっぽりだしてビルの出口へ誘導しようとするくらいに。
機械に命を心配されるくらい絶望的な溝があるのは分かりきっていた。
(埋められない溝なら飛び越えるっきゃない。フラン・シュガーランチ、寿ヶ原小熊、それに、ラミル。全員が格上だった。足りない分は、知恵と個性で補うっきゃないんだ)
今までがそうだった。
アルラ・ラーファは運に恵まれただけで、実力だけで勝ち取った勝利は一つだってなかったはずだ。そんでもって今回の相手は『博打』を極め果たした神人というのだから皮肉が効いている。
笑いたくなったが、そんな気分じゃない。むしろ、最悪な気分を押し殺してここにいるのだと、再確認させられただけだった。
からからと、神人の手の中でサイコロが鳴っている。持ち主の表情は心なしか浮かないように見えるが、真意はわからない。
だが、奴も薄々とわかってるのかもしれない。
自分の行いが決して許されるモノでなく、自分の立場が客観的な悪に位置していると。だから賛同者を欲しがった。一緒に地獄に落ちる仲間が居た方が心強いから。
赤信号、みんなで渡れば怖くない。不安を感じた人間は振り返って、追従してくれる存在を求めてしまうものだということを、それまでの人生で嫌というほど知っていたから。
人間は群れる生き物だから。
男は、死んだ家族を送り出す時のような、悲観的な微笑みを見せた。
「そうか..........では」
男の言葉がスタートの合図だった。
「始めようか」
ぐおんっっ!!!という暴風が吹き荒れた。
落下したサイコロによって引き起こされた術式。不可視の重圧が天井から、アルラを踏み潰さんと落ちてきた。それにより押しのけられた空気が四方へ散って風になっている。
『質』が異なるとはいえ、前回は一撃で意識を奪われた奴の攻撃。
だが今は違う。事前にキマイラとの攻防をカメラ越しに観察できたのも大きいが、何よりあの時と違って、今のアルラ・ラーファは至って冷静になれている。人は死の危険が身近に感じられるほど賢くなれる。それはさもなくば、危険に対処できずに死んでしまうからだろう。車にはねられる直前、意識が加速したみたいに全てを理解できるという。
それに近い感覚を、アルラ・ラーファは現在進行形で体験していた。
こちらにもたれかかる『死』を敢えて拒まない。近づいたからこそ得られた、生物としての生存本能だけを頼りに。
がっっ!!と床を蹴る。
限りなく水平に近い前傾姿勢のそれはもはや四足獣のスタートダッシュのそれに近い。ギリギリのタイミングで重圧による踏み付けを回避し、尚且つ敵の懐へ潜ることに成功する。
すくい上げるようなアッパーを、ゲラルマギナは軽く上半身を後ろへ引いて躱す。
ここまでは計算済みとばかりに、アルラはすかさず懐へ手を突っ込む。
取り出したのは、今時どこででも手に入る350mlペットボトルだった。お茶のラベルが張ったままで、一度開封してから中身を入れ替えたのか、容器の中身はいくつかの層に分かれているように見える。
今度はゲラルマギナから離れるようにバックステップを踏むと、緩めていた封を固く締めて、アルラはそれを敵の顔面目掛けて投げ放つ。
ゲラルマギナが、眼前に迫るそれを弾き飛ばそうとした瞬間だった。
ボッッッ!!!と。
白煙を撒き散らかしながら炸裂したペットボトルは、内側から細かい金属片をばら撒きながら粉々に砕け散る。
砕いたドライアイス、水、金属片を層分けして封入したペットボトル爆弾だ。栓を固くした後に軽くシェイクすると水とドライアイスが接触、中身が膨張し、破裂するというシンプルな仕組みの破片手榴弾だが、威力は抜群。人体程度は容易に破壊してしまう。
はずだったが......。
「流石に、神人レベルに通用する小細工じゃあねえか」
言った瞬間、粉塵に穴を穿ち、白と黒のサイコロがアルラの眼前へ迫っていた。
反射的に掌で弾き飛ばして、直後に己のミスを自覚する。アルラが弾いたサイコロは床を転がり、とっくにその目を確定させている。
「卯の目」
「!?」
反応が間に合わない。
だむっ!!というバスケットボールを思いっきり壁に叩きつけた時のような音が炸裂し、アルラは大きく真横へ弾き飛ばされる。例えるなら、最大限縮めたバネの一方に括りつけられて、それを開放した時のような衝撃だった。
ガシャガシャガシャパキン!!!と、体が砕けたガラスの散らばる床にバウンドして、あちこちに細かい破片が刺さってしまったのか、服の下から僅かに血が滲み始めた。
息を整える暇も与えられない。
今度は、床に先程の『弾く』術式が放たれる。だんっっ!!と一帯の床が縦に揺れ、その反動がガラス片を空中に巻き上げた。
視界と共に、アルラの行動の幅を奪う鋭利なカーテンが出来上がる。
アルラの一瞬の躊躇を、ゲラルマギナは逃さない。
大型獣の突進にも勝るタックルでガラスのカーテンを推し通ると、そのまま片腕でアルラの首根っこをひっとらえてしまったのだ。
「ぐっ...がっ...!?」
「どうした。こんなものではないだろう!!」
ゴバッ!!と。
その音は投げつけられたアルラの体を受け止めた壁からか、それとも衝撃をもろに喰らったアルラの体が発したのか。どちらにも大した違いは無かった。
投げ飛ばされてる最中は時間が圧縮されたみたいに回りがよく見えた。壁に激突してからは、背骨の痛みだけが思考を支配したが。
せり上がる肺の空気を思いきり吐き出して、ぱらぱらと舞い上がったガラス片が再び床へ散らばる音を聞きながら、アルラはふらつく体を抑え込んで立ち上がる。
げほげほと咳を吐き、押さえつけられた喉の異常の有無を確認する。どうやら何ともないらしい、ぺっと赤が混じった唾を吐き、こつこつとこちらへ歩み寄ってくるゲラルマギナに拳を構えた。
これだけでも、実力差を痛感するには十分すぎるやり取りだった。
もし奴がその気になっていれば、恐らく今この場で原型も保てなかっただろう。
アルラはこの数秒を生き延びたのではなく、生かされた。誰も殺したくないというゲラルマギナの平和主義からくる加減なのか、別の要因があるのかは定かではないが。
(改めて思い知った。これが神人の地力か、まともにやり合ってもこっちの体が持たねえぞ)
「憎悪の君、異能はどうした?何故使わない」
「......」
「当てて見せようか。使えないのだろう」
思わず跳ねそうになった肩を留め、アルラはポーカーフェイスに徹する。
察してか否か、神人の足と口は止まらない。
「見たところエネルギー切れと言ったところか。確か己が生命を犠牲にするのだったな、あの変声で使い果たしたというわけか」
「...さあな、敢えて使ってないのかもよ?」
「使えるのなら使っているだろう君なら。対処出来る無駄なダメージを放置しておくほどの間抜けではないはずだ」
「.........」
事実、奴の言葉は当たっている。
アルラ・ラーファは異能『神花之心』を師から譲り受け、行使することが出来る咎人だが、この『神花之心』には発動する際、アルラ自身の寿命を消費するという危険なデメリットのおまけが付いている。
そしてこの建物に侵入した時点でアルラが戦闘に使える寿命はもう残り僅かだった。その搾りかすのような寿命も、変声の際に魔力を生成するのに使ってしまったのだ。
今のアルラは異能も使えなければ体質から魔法にも頼れない、一般人に過ぎない。
故に、様々な小細工を労す必要があった。
いつの間にか、二人の距離は10メートル程度にまで縮まっている。
「わかるはずだ。君に勝ち目は無い。それは君が異能を使うことが出来ようとも変わらない。そして我は君の命まで奪うつもりはない。大人しく手を引くのだ」
「おいおい、状況的に不利なのはあんたの方だって忘れたのかよ神様。機密情報はキマイラが持ち逃げ、俺はお前があいつの後を追うのを阻止するだけの足止めに過ぎない。勝敗は決してるんだよ」
「我が自社の危機に対して何の策も講じぬ大間抜けなら、な」
次回は7/23日です