ガラスの欠片と血溜まりの味
「はあ...はあ...はあ...っ!!」
一方で、だ。
神人を紙一重で出し抜き、何とか逃げおおせたキマイラは相変わらず息を切らしながら、しかし可能な限り自身から発生する音の全てを消しながら現場を速やかに離れようとしていた。
ずきんっ!!と。
不意に頭に響く鈍痛に、思わず足を止めてしまう。
(ぐっ...ぅっ。やっぱりコストが重すぎた、もうとっくに許容オーバーっすね...)
頭痛の原因は他でもない、キマイラの術式が原因だった。
彼女は他の魔法使いとは一線を画す方法で魔法を扱う。まず他人の術式を観察するところから始め、徐々に目を慣らす。術式の全てを記憶し、頭の中で無限に再生を続ける。そして、メモ帳に記憶を書き記すかの如く、覚えた術式を電流の形に変換してしまう。
これにより、キマイラは必要機材さえそろっていれば、制限こそ残るものの、覚えたありとあらゆる術式を模倣、合成、オリジナリティを付け足して、自分のものとして振舞うことが出来るのだ。
しかしながら、特異性故のデメリットももちろん存在する。
電流に変換した術式を体内に取り込むということは、己の脳に特殊であるとはいえ電撃を浴びせるということだ。
他人の術式を盗んだところで、それはキマイラ用に調整されたものではない。他人用に調整された術式を無理やり自分の体に当てはめているだけだと、当然それだけでも苦痛が生じる。
副作用も全て、当然と言えば当然だ。
しかし今回、この痛みと引き換えに得たモノは何よりも重要なモノだった。
背後から音も無く近づいてきた戦闘用ドローン。その表面に付着していた何かを、さっと抜き取る。途端にドローンは制御を失って、そのまま落下した。
元から壊れかけていたものだ、うんともすんとも言わなくなったそれ踏み越えて、キマイラは手にしたものを再び確認する。
小指程度のサイズ感を持つ機械は、少女の掌の上で小さく駆動音を鳴らしている。
「成るほど」
絶対に聞きたくない声を聞いた。
体が震えていることに、キマイラはそこでようやく気が付いた。
恐る恐る振り向くと、直視したくなかった現実は、やっぱりそこで悲しく突っ立っていた。階層を仕切る天井或いは床を破壊して追ってきたのか、髪にうっすらと粉塵が散っている。
......男が口を開く。
「倒す倒すの方針から突然逃げへ方向転換はそれか。最初にカララ・オフィウクスから乗っ取ったドローンに付けていた装置だな」
「この電子寄生虫はあんたの部下のドローンを経由して建物の警備システムまで侵入しているっす。つまり、防犯カメラの映像、国家未承認兵器の売買記録とか全部。突き出せば、あんたは終わる」
「では、ここからどう巻き返す」
「.........」
何も言い返せない。
当然だ。逆に、この追い詰められた状況から逆転できるという奴の方がおかしい。これ相手にそんな芸当が可能なのはよっぽど実力が上の神人か、魔王くらいだ。
これ以上後ろに下がろうにも、ガラスとその奥の夜空がそれを阻む。
これ以上前に進もうにも、キマイラじゃどうしようもない神人が立ちはだかる。
いよいよ詰み、か。
諦めがついたのか、ふと口の端が少しばかりつり上がったのを自覚して、キマイラは。
「あたしは、人でなしなんでね」
カチッ、と。
スイッチを押すような、或いは撃鉄を引くような鈍い音を聞いた。
それは少女の右手の機械から。正確には彼女が握りしめたスタンガンから鳴らされて、やがて何千回と聞いた、聞き飽きた電撃の音に切り替わった。
なけなしの戦意を研ぎ澄ます。
ここを突破すれば、全ては丸く収まって、誰も傷つかないハッピーエンドが待っている。キマイラはそんなものを求めて戦ったことは一度だってないが、今回ばかりは心の底から望んでいる。
「あたしに『普通』を求めるなよ神様。普通なら逃げ出す、普通ならあきらめる。だったらなんだ、あたしは普通じゃない。諦めることだけはしない」
無駄だと分かっていても、吠える。
確固たる意志を持つゲラルマギナには絶対に届かない。千年生きた大樹にフルーツナイフで挑みかかるようなもので、口に出すだけ簡単に刃が折れることは目に見える。
だが敢えて吠える。
大怪我を負った時、力いっぱい叫ぶことで痛みを紛らわすように。
からん、という、プラスチックとプラスチックをかち合わせたような軽い音が広がる。
神人ゲラルマギナの手の中で、だ。
「進み続けるだけが得策とは言えない。時には退くことも重要なのだよ。臆病は罪ではなく美徳、生物的により完成されてるという意味だ。引き際を知らない将のその後を察せぬほど愚かではあるまい」
『その通りです。退却は如何なる闘争においても有効な戦略の一つ。状況的に不利な場面では特に、援軍、支援の要請で戦況を一気に崩すことも出来る。貴方はまず最初に私と敵対した時、援軍を呼ぶべきだった』
何処からともなく聞こえたその声はやたらと高圧的だった。小さく舌打ちし、思い当たる名前を当てはめる。
つい先ほどの戦いで敗北し、ゲラルマギナによってどこかへ運ばれたはずの男がそいつだ。辺りを見回して姿こそ見えないが、恐らくはまたカメラとマイク越しにこちらを伺っているのだろう。思わず名を呼んでしまった。
「カララ・オフィウクス......!」
「意識が戻ったか」
『おかげさまで。社長ばかりに前線に立っていただくわけにはいきません故』
敗北後に再び立ち上がり上司のために戦う意思を見せるカララ・オフィウクスは社員としては優秀なのだろうが、こちらとしては迷惑極まりない。
『少しくらい安んでればいいものをこの糞社畜』とキマイラは思ったが、口にはしなかった。
「少しくらい休んでればいいものをこの糞社畜」
『糞社畜!!??!??!』
「あっやべ。つい本音が」
「.........我が社は週休完全二日制の採用と共に社員の労働環境改善に力を注いでいる。各月ごとの健康診断はもちろん、有給休暇の申請も基本通すように心掛けている。...ところで」
不意にゲラルマギナがくるりとキマイラに背を向けて、暗闇の向こうに目線を向ける。目線の先に広がる闇に、つられてキマイラも視線を向けるも、何か目立つようなものがあるというわけではない。
彼は、何気なしに。教師が生徒の回答の誤りを修正するかのように指摘する。探し物をするかのように、今度は視線を前へと戻しながら。
「カララ・オフィウクスは、『社長』などと我を呼ばぬぞ」
誰にも予想が付かなかった静寂の後に、だ。
『あれ、そうなの?』
ズドォッッッッッ!!と。
直後、神人の頭上にて物理的に衝撃が飛び散った。
光と共に天井が崩落し、瓦礫がゲラルマギナの体を上から覆い隠し、或いは圧し潰さんと雪崩れ込む。巻き上がる粉塵と細かい破片が四方八方へと飛び散って、崩落の衝撃によってキマイラが背負うガラス窓にも無数の亀裂が広がった。
パリンパリンパリンッ!!という子気味良い音と共にガラスが砕け、外の冷たい夜風が差し込んだ。
ぽっかり空いた天井の穴から、何かが見下ろしていることに気付く。
たたんっ!と飛び降りた影は神人が瓦礫を吹き飛ばすのと同時にキマイラの目前に着地、吹き飛ばされた瓦礫によってされに砕けたガラスの音を背に、彼は正面から神人と相対する。
予め追い出しておいたはずのアルラ・ラーファだった。
何となく、そんな気はしていたのだ。ごくごく短い付き合いだが、彼が素直に人の言うことを聞くようなタイプではないという事を、キマイラは理解していた。
それでもなお、思わず名前を呼んでしまう。風に舞う砂の粒から眼球を守るために瞼が落ちるように。或いは熱湯に触れた指先が慌てて腕全体を引っこめてしまうように。
『アルラさん!?』と、自分でも知らず知らずのうちに彼の名を呼んでいた。
背を向けたまま視線だけ向けてそれに答えると、改めて目の前の『敵』に集中する。
「闇属性の魔力の性質は『抑制』、空気中を伝わる音の振動を『抑制』して変化を加えたのか。見た目に似合わず器用な真似をする」
「一発で見抜くかよ。流石だな神様」
「本物の彼はどうした。安全に隠しておいたはずだが
「軽く質問したら気ィ失ったから放置してきた。命までは奪ってねえよ」
「アルラさんっ...どうして!?」
「ウィアでカメラの映像を辿ってきた。お前ひとりで突っ走りすぎだぞキマイラ、危なかったらちゃんと頼れ。巻き込んだからには、最後まで付き合わせろよな」
その言葉に、思わず泣きそうになる。
ああ。あいつらとは大違いだと、素直にそう思った。
割れたガラスの向こう...すっかり光を失った空を駆ける夜風が吹き付けていた。ぱらぱらと薄いガラスの破片が床を擦る音がする。鋭く危険に尖ってて、それでいて鼻の奥を燻る香りがする。
ばきぼきべきっ!!という拳を鳴らす音があった。
片手に取り出していた黒い携帯端末『ウィア』を懐へ納め、手首足首をぐりぐりと回した後に、灰色を被る青年はにたりと頬を吊り上げる。
カメラ越しに見ていたと言っていた。ならば目の前の神人の恐怖も知っているだろうに。だがしかし、臆せず言い放つ。
「ここからは選手交代だ」
ぐいっ!!と思いっきり少女の肩を引く。
それこそ、割れた窓の外まで放り捨てる勢いで。
「えっ?」
「は?」
直後、キマイラは一人ビルの外に居た。
思わず神人と二人して声を漏らしたキマイラの体を重力は無慈悲に、血も涙も無く引っ張っていく。即ち、自由落下が始まる。
少女の悲痛な叫びが下へ下へと遠ざかるのを聞いた後、べちゃっ!!みたいな音が無いことだけを確認する。どうやら電流やら術式の組み合わせやらで上手く着地したようだ。危うく平日午後のサスペンスドラマみたいな内容になる所だったがそんなことを気にする彼ではなかった。
ばきぼきと首を鳴すと、乱暴にバトンを受け取った青年は改めて神人と向き合った。
継続して悲観的な表情を浮かべていた神人が、初めて好戦的気質を内に見せる。
ここからどうやって神人に打ち勝つ?ウィア越しに観察した無数の不可解な術式をどうやってひも解く?生きて帰るにはどうすれば?......何も考えていない。何も考えていないが、あの時動いていなければキマイラは完全にゲームオーバーだったのだ。目の前の糞ったれなマッドサイエンティストに脳みそまで弄りまわされて人格までおかしくされていたかもしれない。
そんなあるはずもないであろうIFを勝手に連想し、勝手に怒り、アルラ・ラーファは勝手に復讐を誓っていた。