神である前にヒトで在れ
目を覚ました時、少女は何処かもわからない、しかし不気味に感じるくらい小奇麗な白にまみれた空間にいた。
ゲラルマギナに捕まった後、いつの間にか意識を失っていたようだ。とはいっても数時間単位意識が無かったわけでもないらしく、過ぎた時間はほんの十分にも満たないようだった。壁に掛かっている時計が本当の時間を示しているのであればの話だが。
まだずきずきと痛む頭を無理やり起こし、周囲を見渡してみる。
見た限りわかるものと言えば出入口と思しき扉くらいで、後は本当に何もない。ミニマリストが徹底的に無駄を排除しようとした結果みたいな部屋の壁に今ももたれかかっている。
ここまで自分を運んできた張本人がいないのを不自然に考えていると、当の本人が扉から現れた。
ゲラルマギナ。
今回の仕事のターゲットであり、この国にとって何か良からぬことを企んでいるという人物。
男はこちらに視線を投げかけると、少し驚いたように口を開く。
「もう意識が戻ったか。流石と言ったところだな」
「......ここは」
「仕事場さ。本来のな」
そういうと、ゲラルマギナはキマイラのすぐ隣の壁へと歩み寄る。何やら壁を指先でちょんちょんと操作すると、精巧に隠蔽された『扉』が静かに開いた。
指で『ついてこい』とジェスチャーするゲラルマギナに今この場で抗うことは得策とは言えない。現在自分があの建物のどの地点にいるのかも分からず、ましてや目に前にいる『神人』が簡単に逃がしてくれるとも思えなかったからだ。
数分前までの激昂の時にこんな風に冷静になれてれば、少しは展開も違ったかもしれないのに。
(......?)
大人しく扉を抜けた先、何処かで見たようなガラス張りの廊下を歩き出す。下層で見たそれと違う点と言えば、ガラスが異常に分厚いこととその向こうにうっすらとぼやける光があることくらいか。蛍か何かを向こう側に飾っているのか、水族館でよくある、まるで海の中に居るかのように錯覚させる水中トンネルのように思える景色だ。
「何処に......あたしを何処へ連れていくつもりっすか」
「冷静を取り戻したようで安心したぞ少女よ。それに先程我は言ったはずだ。計画の核心、君は我の計画自体を嗅ぎ付けて入るようだが計画そのものが何なのかを知らないようなのでな。それは事前知識無しに試験へ挑むようなものだ。話し合いも殴り合いも全てそれを見た後でも遅くない」
「どうっすかね。『ろくでもない』って事だけは分かってるんでね、それにあたしは試験だろうが何だろうがヤマカンで殴りこむタイプっす」
「無謀と勇気をはき違えると恐ろしいぞ。己を知らぬ者から戦場では死んでいく」
身の程をわきまえろ、とでも言いたいのか。
ぎりりと奥歯を噛み締め、少女の全身の筋肉が強張った。
少女の緊張と敵対心も相まって、鉛でも混じっているのかと錯覚するくらいに重い空気が充満していく。
敵と敵、始末屋とターゲット。相容れない二人の間に生まれる気まずい空気を、拳と刃と弾丸で拭い去ろうとするには気が早い。今この場で立ち向かったのなら、それこそゲラルマギナの言う『無謀』という奴だ。
そんなキマイラの思考を知ってか知らずか、キマイラより一足前を歩くゲラルマギナはさり気にこう切り出した。
「君は......現在時点での世界総人口を知っているかね」
質問の意図を掴めず、キマイラが頭の上にハテナを浮かべる。
悪意に満ち満ちた環境で育っただけあって、キマイラは人に向けられる感情に敏感だ。
敵対する自身への何か心理的なアプローチかとも思ったが、目を見る限りそういうわけではないらしかった。
こちらに対する、敵意なきただ純粋な興味。
『神人』としてではなく、『研究者』としての面とでも言うべきか。
渋々口を開く。
「......約33億。その内二百万人が『異界人』、一万人に一人の割合で『咎人』が」
「その通り、ではその内の何人が、真に己の幸福を享受していると思うかね?」」
「...幸福の定義によるとしか。衣食住揃ってれば幸せな人、ひたすら金銭を求める人、幸せの感じ方はそいつ次第でしょうよ」
「ふむ...」
『神人』は顎に手を当てて、少し考えた後に、だ。
「全人類共通の幸福とは何だろう?」
ぱちん!と指を鳴らし、横目にキマイラを収めながら問いかけた。
その問いにキマイラは僅かに考えて、しかし答えを出す気になれず、結局無言で男の後頭部を睨みつけていた。
キマイラが口にしたように、幸福とは一人一人の価値観の問題だ。
例えば差別に苦しめられた獣人の少年がいたとして、彼にとっての幸せである『差別意識からの解放』は、差別していた側の人間には伝わらない。
飢える少女は一個のりんごに幸福を感じるだろうが、肥えた貴族の少女がたった一つの果実に対して同様に感じることは無いだろう。
ゲラルマギナにとってそれは『今の世界をどう思う?』程度の意味のない質問の一種だった。
そこに答えはない。
円周率の終点を探すみたいに、答えは永年に、そして絶対に見つかることは無いだろう。
「理解されないことほど不幸なことは無いだろう」
ゲラルマギナは少女の視線を受けながら、揺るがない信念を持ってきっぱり言い切った。
思わず、敵であるはずのキマイラがほんの僅かに耳を貸し、共感しそうになるくらいに。
「裏を返せば『理解』こそ幸福というわけだよ。あくまでも我個人の意見に過ぎないのだがな」
「そのあんた個人の意見とやらを無理やり他人に押し付けようとしてるって彼から聞いてますが?」
「はは、手痛いが確かにその通りだ。我は己の価値観を不特定多数の他人に共有しようとしている。しかし君達は我を残虐非道な外道と思っているようだがそれは違う、我とて罪悪感はある」
「嘘つけよ」
「嘘ではない。ただ罪悪感以上に、今あるこの世界を目視したくない気持ちがあるだけだ」
こいつが見てきた世界をキマイラは知らない。
こいつにここまで言わせるほど醜い世界とやらについて、心当たりがないわけでもないが、それでも奴は人知を超えた『神人』なのだ。取りえる手段なんていくつもあっただろうに、なお周りを全て巻き込んで全人類で身勝手な『幸福』を目指す選択肢を選ばせた世界とはどんなものだったのか、興味が無いと言えば嘘になる。
キマイラとゲラルマギナでは...否。人類とゲラルマギナでは、生きた時間に違いがありすぎた。
「理解の欠如が生んだ悲劇を何度も見てきた」
そういうゲラルマギナの脳裏に浮かんだ光景の中には粉塵が舞い、幼い子供がほとんど骨と皮だけの姿でひび割れた地面に横たわっている。
今でも夢に見る光景だった。
頭上を弾丸が飛び交っている。
雲も含めて空が焼けている。
記憶の中で。迷彩に身を包んだ一人の兵士が、血と涙を垂れ流して立ち尽くしていた。
「.........あんたは」
「理解を放棄した人類の辿る道は常に一定だ。戦争、飢餓、革命、天災。我は目を背けていたいだけなのだ。弱き民も、国家間摩擦も、もう何も見たくないのだ」
そうこう言っている内に辿り着く。
ガラス張りの廊下の果て。終点。水族館の海中トンネルのように長く続いていた廊下の先に鎮座する、金属でできた分厚い扉へと。
ゲラルマギナが掌でそれに触れた途端、重厚な扉が音を立てて開いていく。
中から光が漏れる。
「何を...」
「憎悪の彼にも話したのだがな、断られてしまった」
そこだけ。この部屋だけ、灯りが照らしていた。
まず目に入ったのは、正面に鎮座した巨大な水槽のようなガラスの壁。これもまた水族館の特大水槽の如きスケールで、しかしそのガラス面には寄り添うように見たことも無い機械群が所々に取り付けられている。
分厚いガラスに仕切られた空間の向こう側を一目見て、キマイラは無色透明のガス類を開発するスペースなのかと考えた。取り付けられた機械にもホースのような管が繋がっていたし、何よりガラスの向こう側の空間には生物どころか、兵器のような人工物の姿さえ見れなかったから。
のろのろと近付き、困惑した自分の表情を薄く反射するガラスに触れる。
まるでガラスそのものが携帯の画面のように振舞い、彼女が触れた点の先にある景色が顕微鏡を通したみたいに拡大表示される。
蠢いていたモノは、ミジンコにも似たシルエットの、しかし少女が見たことのない『生物』だった。
しかし、一目見ただけでわかるほど明らかに、構造的に間違っていた。
半透明のぶよぶよした体に通った一本の線は『背骨』に見える。髪の毛より数倍細い肋骨に守られて鼓動しているのは、この生物の『心臓』だろうか。
(微生物に背骨と心臓!?ありえない。しかも小さいながらも脳まで...生物学的に、それだと......ッ!?)
疑問が振って栓を開けた炭酸ジュースのように溢れ出てくる。
持てる全ての知識を総動員してなお、現れる疑問を片付けることが叶わない。
疑問に対する疑問があった。
これは、この何かはそもそも、『生物』なのか......?
ゲラルマギナはこの『何か』で、一体何をしでかそうとしている......?
「『NOAH』、我が秘密裏に研究、制作した、世界最小の脊椎動物だ」
少女の中の生物の定義ががらがらと音を立てて壊れた瞬間だった。
大洪水の際、方舟を造り多くの種を救ったとされる人物の名を冠したミクロサイズの多細胞生物。肉眼では確認できない大きさ、風に乗って何処へでも移動できるほどの『小ささ』。数々の異常を蓄え、生物学的にまずありえない存在が今目の前にある。
信じざるを得ない。実物を目の当たりにしてしまったからには。
そうだ、思い出した。
この国において最も信用ならない言葉は『ありえない』だったということを。『ありえない』がありえない、技術と研究と科学の国家。故に、何に置いたって実現不可能なんてことは無い。その気になればこの国は生きた巨人だって造れるかもしれないのだから。
問題は、奴の計画におけるこの未知の『生物』の役割だ。難解なパズルを解き明かすかの如く、少女の頭の中で欠けていたピースが組み上がっていく。
ピースの一つ、脳のレントゲンを思い出す。
「手術痕も無いのに抉られた脳。それによって引き起こされる記憶と行動の誘導...!!」
「NOAHは体内に入るとまず血管を介して人の脳へ向かい出す。到着と同時にその脳細胞を糧に増殖、一定の範囲内にとどまり続け、回復を妨げる。特定の気候下でなければ活動せず、かつある程度の数がまとまらなければ人体にも影響を与えれないという欠点はあるがね」
確証を得て全てが繋がった。
説明したがりの研究者は、厚さ1メートルの強化ガラスの向こう側を覗きながらこう言った。
「意識の統一。全人類共通の価値観、全人類共通の『理解』を掲げることで、人類はより上位の生命体へと昇華し得る」
「人類の、昇華?」
「時代を巻き戻そう」
遠くから、こちらへ差し伸べられた手があった。
筋肉質でごつごつとしたその腕は、よく見るとあちこちに傷跡がびっしりとこびりついていた。銃創。刺創。爆創。熱創。その傷の一つ一つが、彼の体に降りかかった暴力の全てを物語るように。
男は澄んだ瞳でこちらを見つめていた。
共感を。キマイラに対し、己が思想への理解を求めて。
「箱庭の百年、レークスの時代の再来を我は待つ。君もこちら側へ来い、今からでも歓迎しよう。かの賢王が成し遂げられなかった百年あまりの平穏を、我と共に永遠へ導こうではないか。さあ」
高い天井から指す光が、二人を照らす。
男は締めくくるように言葉を綴った。
「手を」
しばらくの沈黙があった。
互いの呼吸音だけが空間に取り残されていて、しかし少女はそれとは別に己の内から響き渡る鼓動の音を確認していた。
世界の裏側に潜むキマイラだ。『平和』について考えたことが無いと言うと嘘になる。日々与えられたどす黒い仕事をこなすたびに、どこかで誰かの不幸と涙を眺めてきた。
殺された犯罪者の父を慕う幼い娘の涙とか、豚箱へ叩き込まれた息子の帰りを待ち続ける母の涙とか、親友の仇と対峙してなお引き金を引けなかった男の涙とかをだ。
何度も考えた。それらは、世界にとって本当に流れる必要のあった涙なのか、と。あたしの行動一つで、見てきた景色は全部真逆になったんじゃないか、と。今まで歩いてきた暗い道が明るくなったのかもしれないとも。
ひょっとしたら、それこそ全世界共通の『幸福』と呼ぶにふさわしいのかもしれないと、キマイラは考える。
全人類が意思を共通する世界。異なる意志による摩擦が完全に消滅することで、世の中の争いという争いが撲滅された世界。当然、戦争なんて生まれない。誰もが一つのルールを守り続けるのだから、犯罪なんて言葉は世界から抹消されるかもしれない。
誰も傷つかない、誰も誰かを失わない世界。涙は枯れ、狂気的なまでに統一された笑顔が溢れる世界は、誰がどう見たって幸福だ。反対の余地もない。
スタンガンをお守りか何かのように握りしめて、キマイラの足が手を差し伸べるゲラルマギナへ向かって進み始めた。
そして―――...。
「馬鹿かよ」
パチン!!と。
差し伸べられていたその手を、キマイラは一切躊躇わず弾いた。
少女は迷わなかったのだ。己がやるべきことを第一に、巻き込んでしまった彼らへの後悔を第二に。第三に、目の前の無責任男への極限の怒りを以て、彼の手を拒んだ。
ゲラルマギナは驚いたように目を見開き、そして行き場を失った自身の手へと目をやった。
直後、ドゴォォォォオオオンッッ!!という爆音が至近で炸裂する。
既に何らかの術式を『付与』していたのか、キマイラに弾かれたゲラルマギナの手がいきなり起爆し、爆破の熱と衝撃と爆風は彼の顔面へ直撃した。
バックステップで大きく距離を取ると、宣戦布告を終えた少女は高らかに宣言する。
片手にスタンガンを。もう片手に勇気を握りしめ、張り上げる。
「時代は決して逆行なんてしない。悪いがあたしは聖人でも君子でもないんだ、世界がどんな転び方したって、あたしはあんたと同じ色には染まらない!!こんな話を聞かされたら猶更止まれない。あんたにゃ悪いが『神人』ゲラルマギナ!壊れてもらうぞ、今、ここで!!」
彼の言う『理解』なき世界の縮図がここにあった。
黒煙を手で切り裂いて、『神人』は心底悲し気に表情を曇らせていた。その表情を見ると少女は、にっと頬を吊り上げた。
何を言われてもゲラルマギナが止まれないように。どれだけ歩み寄られても、キマイラだってへし折れないのだ。
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