こんな道しか
まるで真っ白な蛍光ペンキを塗りたくったような一室の中だった。
壁から吊り下げられた複数のモニター。ゴウゴウと音を立てる遠心分離機や試験造粒機。書類や機材だらけのテーブルに転がる立体模型。研究者と思しき白衣の手の中で揺れる試験管。慌ただしい足音があちこちから聞こえる部屋の中で、一つだけ明らかに異彩を放つ存在が独立していた。
神人ゲラルマギナ。
逆立った白髪交じりの黒髪短髪。体躯は2メートル近く、スーツを内側から圧迫する筋肉の存在が、彼の威圧感を限りなく広げている。
かつんかつんと白衣だらけの研究所を進みながら、人知を超えた『神人』は、背後の扉から現れた男性に短く言葉を投げた。
「例の件はどうなっている」
「順調にございます」
丁寧な返答に『神人』が満足した様子は無い。
むしろ、じろりと瞳だけを動かして、彼は身にまとう威圧感を増幅させた。ぞわりと研究者たちの間にざわめきが奔るが、ゲラルマギナの背後について回る秘書(?)らしき男は特に反応を示さない。
その反応を予想していた...といった表情で、男は手元のファイルをめくりあげる。
「第三ブロック、第四ブロック、第六ブロックは既に構築が完了致しました。第一ブロック、第五ブロックは23時までに完了する見込みです。第二ブロックは機器の故障の影響を受けて少々遅れるでしょうが、計画全体に問題はございません」
「隔離中の検体の容態に変化は」
「ございません。経過は良好です」
『なら良かった』とだけ呟き、神人はそれ以上何かを聞くことはしなかった。
ブリッツコーポレーション本社ビル内第七研究室。
技術国トウオウの医療系全般を独占するブリッツコーポレーションの保有する研究施設の一つ。日々、国中から集められた優秀な研究者たちが新薬や新機材の開発に心血を注ぎ、間接的に人の命を救う場こそがこの場所だった。
社長自らがこの場に姿を見せているのは、彼が社長であると同時に、この場で多くの人を病やケガから救うために働く『研究者』の一人であるからだ。
普段はちゃんとした白衣に身を包むのだが、今晩ばかりはそうもいかない。白衣に身を包んだ『研究者』を捨て去り、今宵は白衣を脱ぎ捨てた『神人』の姿であり続けなければならない。
パンパンと二回ほど手を叩くと辺りの仲間たちに向けて、『神人』は我が子でも愛でるような穏やかな口調でこう話した。
「君たちももう帰れ。我が社は残業を認めない。一刻も早く成果を上げたいという君たちの研究心は痛いほど理解しているつもりだが体を壊しては元も子もない。これは社長命令だ、他のまだ社内に残っている者たちにも伝えてくれ」
社長命令というワードを聞き、慌てて白衣たちが退室していく。各々が機材や機械を所定の位置にきちんと整頓した状態で保管する作業を終えると、あっという間に純白の研究室から人影が消え失せた。
一呼吸挟んで、ゲラルマギナの雰囲気が明確に切り替わる。
新春の訪れを愛でる詩人のような穏やかさは消え失せて、凍てつく冬の冷気を宿したかのような眼光が現れた。
「さて」
ずおっ!!と、神人の瞳から優しさが完全に失われる。
ゴミを見るような視線が、振り返った先で固まりかけた秘書を容赦なく貫いた。
「説明してもらおう。何故我の許可なく民間人を実験体とし、かの少女へ刺客として送り込んだ。返答次第では...わかるな?」
明らかに怒気を孕んだ言葉であった。常人であれば、彼の威圧を受けた者は自らその意識をシャットアウトしてしまうところだが、彼はなんとか耐えていた。
相変わらず、なんて易しい人なのだろうと、ブリッツコーポレーション特別社長秘書カララ・オフィウクスは怯えを心に押しとどめつつ思う。
神人は、ヒトでありながら神の領域へ一歩踏み込んだ者を指す言葉である。
この世にたったの18人。歴史全体を読み漁っても、その総数は100人にも満たないという希少な存在だ。己の体を糧として知識を求め、尚且つ強靭な魂と精神、肉体を併せ持った上で更に厳しい条件を潜り抜けて、初めてヒトは神の領域へ踏み込むことが出来ると言う。
簡潔にするなら、『ヒトを捨てて初めて届く領域』こそが神人。
しかし裏を返すと神人は、人間性を完全に捨て去った存在ということになる。
そんな中で在ってなお、失態を犯した部下を即座に処分することなく、あまつさえ弁明のチャンスを与えるのだから、彼は神人にしては易しすぎる。
「申し訳ございませんでした」
表層で冷静を取り繕い、カララ・オフィウクスは目を閉じてゆっくりと頭を下げる。
「確かに、あの咎人を『検体』としたのは私にございます。あの時既に三度失敗を重ねておりました故、より確実な手段を考えるあまり貴方様の命から逸れたモノへと...」
「言い訳が聞きたいわけではない。我は最初に言ったはずだ。計画遂行の瞬間まで、決して無関係な民間人を巻き込むな、と」
「......申し訳ございません」
震えが誤魔化せない。
冷や汗は止まらないし、生きた心地がしなかった。
目の前で自らを捌くための包丁を研がれる魚のような気分だった。しかし真に恐ろしいのは包丁それ自体ではなく、振るう板前だ。
「我の目を欺けるとでも思っていたか?ならば君は酷く傲慢だ。四度目だけではない、それ以前の三度全てが我々と無関係な一般人ではないのか?惣菜屋の女店主に何の罪がある?仕事帰りのサラリーマンは?人手が必要だったのならば、我が意思に賛同してくれた同胞の協力を仰ぐことだって出来ただろう。我は疑問が尽きんぞ」
「かっ、彼らは既に我が社における新開発の身体強化パッチ実験の被験者であったため、出来る限り消費を避けたいと...」
「ならば我に伝えればよかっただろうその旨を、報連相は社会人の基本だろう。そして『消費』などという言葉で命を消耗品かのように扱うことは決して許さんぞ」
ごぎぎぎっ!?と、握りしめられた拳から骨の鳴る音が響く。
明確かつ鋭利な怒気に加えて、きっと本人にその自覚はないのだろうが、殺意の欠片が香り始める。 極限の緊張感に、カララ・オフィウクスはひたすらに高い場所に張った蜘蛛の糸を渡らせられているかのような錯覚を覚え始める。
間違いはない。
零れたとたんに命を失うという点において、今ここにある現実と彼が見る錯覚に何ら間違いはない。
しばらくの無言の間、二人はゲラルマギナが先導する形で研究室を抜けて、その先の廊下を何度か曲がった先に待つエレベータールームへ辿り着く。
ぽーんという電子的な音と共に扉が開き、二人は四角く狭い密室へ乗り込んだ。
エレベーターが上へと動き出した直後にだった。
「それにだ」
無言の静寂が切り裂かれる。
張りつめた緊張感がたった一言で爆発寸前まで一気に上り詰めた。
我ながら、よく肩を振るわせなかったと自分をほめてやりたくなる気持ちを抑えて、カララ・オフィウクスは更に首を傾けて俯いた。
丁寧に清掃され光沢を帯びた床に、自らの表情が反射していた。
「君は、あのキマイラという少女を殺そうとしたな?我が君に命じた内容、忘れたわけではあるまい」
「......少女に計画を邪魔させるな。ただし、例えどのような状況で在ろうとも、決して彼女を殺してはならない」
「その通りだ。一言一句違えて無いではないか。なのに何故だ?何故命令を破った。答えてくれ」
二度目の電子音。
エレベーターの扉が開き、目的の改装に到着する。
ゲラルマギナが再び開いた扉の外へと歩み始めて、しかしカララ・オフィウクスは無言で彼の背後に追従することしか出来なかった。
無慈悲に。
通路の先で立ち止まって、ゲラルマギナが返答を求める。
初めて、己の背後の哀れな男の方へと振り返る。
「どうした?何故答えない」
何と答えるのが正解なのか分からない。
ただ正直に、あの時の感情をありのままに話すことが正解だとは思えない。
「私は...」
正解ではないをわかっていながら、それ以外の回答を得るという『逃げ道』は無かった。
もう、答えるしかない。
凍てつくような眼光で見下ろされて、十分後に自分がどんな姿を保っているのかが容易に想像できるのに、それでも答える以外の選択肢は無かった。
「『激情型』があの時点でどの程度の完成度に達していたのかを観察するために、貴方様のためにどうしても必要であると個人的に思考を重ねに重ねて考えつきました...。貴方様の思惑から外れた行動を取り、人命を蔑ろにしたことを深く反省しております。何なりと、処罰を申し付けください......」
深々と下げた頭を冷徹に見下ろされているのが殺気で伝わってきた。
一秒が一分とも一時間とも感じる、無限とすら思えた沈黙があった。
カララ・オフィウクスは、己の『死』を覚悟して。数秒先の自分の首が繋がっている保証を失い、脳がそれ以上思考することを拒み、もはや冷や汗の一滴すら掻かなくなっていた。
ばつん!!という音と共に、廊下の奥から次々と照明が消えていく。棺桶内にも似た、安らかな死を演出するための暗がりが現れる。
やがて、神人の口が開いた。
「経過観察を怠るな。彼らが失った時間は我々があがくことでしか戻ってこない。新たに我が命じる、五人目は君だ。君の才能をフル活用し、少女を計画から脱線させるのだ」
「......憎悪の青年はいかほどに致しましょうか」
「同様に。今度こそ我が命を違えるな、彼女らを敵と認めても、殺すことは許さん」
ひとまず、助かった。
カララ・オフィウクスの緊張の線はぷっつり切れて、絹のように柔らかい安堵感が身を包む。
再び、ゲラルマギナが歩み始める。
『ついてくるな』と無言のサインを受け取り、カララ・オフィウクスがそれ以上かれに追従することはない。
下げていた頭をゆっくりと上げる。
先ほどとはまた別の。既に消灯し無人となった研究室へと歩を進める神人の背中を見る。
悲しいほどに大きく、これから人類意思統一の罪を背負うには小さすぎる背中だった。
だからだろうか。
「一つ...よろしいでしょうか」
ゲラルマギナは振り返らなかった。
いつまでも頭を下げ続けていたカララ・オフィウクスは構わず、無言の肯定と勝手に受け取った。
恐れに必死に抗いながら、彼の唇が言葉を紡いだ。
「貴方様は...甘すぎるのです」
「.........かも、しれないな」
かつんかつん、と。
足音がいつまでも遠ざかっていく。
そして、神人は。
ヒトであることに疲れ果てた、元々はヒトそのものだったはずの異常人は、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
屈強な後ろ姿が闇に埋もれていく。彼の表情は闇の中、誰の目にも届かない。
自分自身で在ろうとも。
「だからこそ、我にはこんな方法しか思いつかなかったのだよ」