『新しい』への挑戦
「ふしゅう~...」
煉瓦と水の街ニミセト
そのとある不吉な名前の宿『まんまる河豚亭』の大浴場、アルラはその浴槽に浸かっていた。だらしなさ全開の声が浴室に響く。彼にとってはお湯につかるのも10年ぶりだ。生粋の『元』日本男児であるアルラには、風呂とは日常生活に欠かせない必須行動。汚れを落とすために水浴びはしていたものの、それを10年間も奪われてきたのだ。下手したら蝙蝠食を超える苦痛の要素だったかもしれない。
「やっぱ日本人は風呂だな風呂...」
アルラがこんな時間に一人で大浴場にいるのは、あまりにもふかふかのベッドであったからか散々寝て変な時間に目が覚めてしまったからだ。温かい日差しに瞳の裏を差され、ふあぁと目が覚めると部屋の時計の短針が指し示すのは数字の4。『そういえばこの宿には大浴場があるとロビーのお姉さんが説明していたな、これは行けという神からの啓示に違いない!』と朝っぱらから一人で盛り上がり、朝風呂を楽しんでいた。
「さて、これからどうするかな!」
誰もいないのをいいことに、ワザとらしく大声で悩むアルラはブクブクと口を湯につける。それをやって可愛いのは女の子だけだが、これもアルラの謎テンションの弊害だ。
風呂というのは不思議なもので、誰もが周りを気にせず欲望を語れる珍しい場所である。普段は寡黙な人物が、風呂場では大声で歌を歌い始めるなんてことある。人間誰しも社会の中で生きていれば当然ストレスも溜まる。ストレスとは心の垢だ。
垢は落とさないといずれ異臭を発し、さらなる汚れを生み出す。体はきれいでも心が汚れているのでは意味はない。言わば風呂は体の汚れだけでなく、ストレスという泥に覆われた本音を洗う場所なのだ。
アルラが優雅(?)に悩んでいるとガラリと浴室の扉が開き、向こう側の脱衣所から海人族の男性が入ってきた。
「おっと、人がいたのか、オレだけだと思ったんだがなぁ~」
「目が覚めてしまったもんで」
少しがっかりした様子のその海人族の男性は掛け湯を体に掛けると、浴槽のアルラの向かい側に座った。
「お兄さん旅の者かい?ここらへんでは見かけない顔だな」
「そういうアンタは地元民か」
「おうよ、生まれも育ちもニミセトよ」
そう言って何処からか持ち出したのは大きめの瓶。中にはなにやら半透明の液体が入っているが、アルラそれが何かはすぐに察しがついた。
「酒か」
「そうさ、兄ちゃんも飲むかい?」
「酒は苦手なんだ」
こっちの世界では未成年の18歳でも酒は飲める。前世では会社の付き合いで飲み会に参加することもしばしばあったアルラだが、かなり酒に弱いので、飲むとすぐに酔っぱらって倒れてしまうのでウーロン茶ばかり飲んでいた。こっちに来て体そのものが別人となったのでもしかしたら飲めるのかもしれないが、それでもこんな早朝から飲むものじゃない。
「兄ちゃんは何しにこの街へ?」
「金稼ぎ...?」
「へえ、珍しいな兄ちゃんみたいな若者が。儲かったかい?」
「まだどうやって稼ぐかも決めてないさ。なにせ来たばかりだし元手は50万リクス、いや少し使ったから45万くらい?しかない」
「それなら街の中心地にデカい広場がオススメだ。あそこは旅の商人や旅人が許可を取らなくても露店を開くことが出来るのさ」
手を顎に当てて唸るアルラを見て、親切にも説明を入れてくれたその男は窓側に移動して、曇った窓ガラスを指でなぞって街全体の図を描いた。
ニミセトの街の水路は中心地から外側へ円を描くように造られている。内側に行くに連れて円は大きくなり、最終的には高い外壁が街を覆っている。つまりバウムクーヘンに縦線をいくつも引いたような型だ。町中に張り巡らされた水路こそが、この街の生活の基盤となる。
街はかなりの面積があるので移動が大変だが、水に浮かべた小型エンジン付きの小舟で物資のや人の輸送も簡単。
水道の水もこの水路から小規模だが高性能な浄化槽を通して引かれている。
「この街の水は向こう側の湖から引いているんだろ?それなのに水は中央の水路から流れているのか?」
「一度湖から汲んだ水を何層もの浄化槽に通して中央から流してるのさ。一番外側の水路には水が溢れないように湖へ戻す管があるんだ」
指先で描かれた図を見て納得したのか、アルラは浴槽から出て脱衣所つつながる扉を開ける。
「ありがとう、参考になった。とりあえず中央を見て回ることにする」
「へへっ、いいってことよ」
当然何を買うか、どうやって金稼ぎするかなどアルラは決めていないので、『良さそうなものがあったら買う』程度の気持ちでしかないのだが。どうせ宿にいてもやることなどないのだ。と軽い気持ちで街の中央へと足を延ばす。時計の短針は出掛けるころ、今度は6を差していた。日差しの光が水路の水に跳ね返り、綺麗に透けた水が水路の底を映し出すその風景はアルラにまるで海外に住み始めたような感覚を植え付ける。
地球から記憶ごとやってきたアルラにとっては、本当にそうも言えるが。
ぶらぶらと煉瓦と水の街を練り歩いて。
目的の場所に辿り着くと、そこには人混みがあった。ただの人混みではない。近いものを上げるとすれば、まるで歴戦の主婦が集う夕暮れとセール時の商店街。あるいは都会の夏祭り。あるいは地域交流の大運動会。とにかく、人だ。ブルーシートを床に広げて商品を並べている店もあれば屋台を設置して食べ物を売る店もある。中には食材などを業者用レベルの量で売っている人も見受けられる。
バザーと祭りと市場を一度に開催したかのような光景だった。
「ほんと何でも売ってるな...ピロピロ笛なんて並べてる奴は最早何がしたいんだよ」
まともなものを売っている店のほうが少ないという印象を受けるアルラは、近くのブルーシートの上に並べられた商品を手に取ってみる。鳩時計の鳩オンリー。赤い何かのボタン。大きめの剣の鞘。見事にガラクタだらけだった。
「どっかに魔法書とか売ってないかな」
その熱気に若干押され気味になりながら、アルラは辺りの店を見て回っていた。
そして数ある商品の中で、アルラは見つけてしまった。
「こっ...これはッ!!」
ある種の運命の出会いだったかもしれない。数分後、ホクホク顔のアルラの右手にぶら下がる革製の買い物鞄の中に入っているのは大きめのフライパン。焦げにくい引っ付きにくいタイプのそれとフライ返し、そしてお玉。見た目に考慮してピンク色のエプロンも。
後は横長の薄い木の板に一番安かった赤のペンキ、見つけた瞬間、アルラが思いついた商売に必須な3種の神器である。
業務用あれこれを売っていた露店に出向くと、借りてきたリヤカーの上に購入した大量の材料を載せ、中央地のまだ店が出ていないエリアへ。多少値は張ったが、組み立てると屋台となるハイテクリヤカーを説明書通りカチャカチャすると、フライパンをその奥で構える。
ホットケーキミックスに卵、バターと水を適量混ぜ合わせて砂糖を少し。遂にアルラの目的のモノがこの世界に生み出される。
その名もクレープ生地。
アルラの考えた商売とはクレープ屋。
大量に購入したのは先の材料と各種フルーツに生クリームそれらがクーラーボックスに保冷剤と共に入れられている。朝っぱらからこんなものを食べたいと思う人は少ないだろう。朝は最も忙しい時間のひとつ、現代人も食パン一枚やおにぎりといった手ごろで腹にたまる食べ物を食べるのが一般的なのだが。
ただしそれは日本や地球という此処とは別の世界での話だ。肉やらなんやらがっつり系の屋台が立ち並ぶこの場でなら、デザートに甘いものを欲するものは少なからずいる。
そう、異世界人の朝は基本的に暇なのだ。
ペンキで木の板にクレープと大きく書いて店の上に掲げれば準備完了。
「いらっしゃいいらっしゃ~い!甘くて美味しくて...えっと、その、甘くて美味しいクレープだよ~!」
適当な呼び込み文句が思い浮かばなかったのか、同じ言葉を二回繋げただけの宣伝をしながら、頭の上でお玉とフライ返しをカンカンと鳴らすアルラ。精一杯の笑顔で声を張り上げ、早朝の街に響かせる...のだが。
「誰も来ない」
現代日本(あくまでも当時の基準だが)の食べ物なんかも普及しているこの世界でもクレープはメジャーなものだと思っていたが、どうやら違うらしかった。というよりは食べ物全般が進んでいるわけでもないらしい。
呪詛のような言葉を漏らすアルラの表情はとても暗いものだ。屋台を立ててから数十分、人っ子一人寄ってこない。初めて聞く名前なのか、遠巻きでちらちら屋台を見る人はいる者の声をかけてくる人はいまだゼロのままだった。
「味には自信あるんだけどなあ、試食とか今からでもやったほうがいいか...?」
どれだけ美味くとも、誰も買ってくれないのでは意味もないし、広まりようもない。このままでは材料費やらハイテクリヤカーのレンタル費で大赤字だ。こういうのは普通、真新しいもの見たさに人が大勢寄ってくるものだとばかり考えていたアルラの痛い誤算である
(これでは金稼ぎして情報を得るどころではない。これから先の生活すら危うい!)
頭を抱えて唸るアルラを見て遠くで人がひそひそと話しているのが見えるそんな時。
「どうも」
暇そうにお玉を片手で回すアルラに、一人の少女が屋台の下から覗き込むような形に声をかけた。
「アタシの名前はフランシスカ・ドーナッツホール・ホーリー。年は14歳、好きな食べ物は甘いものです。はい。その美味しそうなの、アタシに一つくださいな?キシシ」
「...なんで個人情報明かしたの?」
「これほどの美少女が大切な大切な個人情報を知らないおじさんに明かしたんですよ?割引とか期待してみたり」
そう言ってふりふりと腰を振るのはおかしな格好の少女だった。お話しに出てくる魔女のような紺色のとんがり帽子が隠すのは茶色い癖毛。それに地面に擦れて腕だけが出ているぶかぶかのローブ。極めつけはその両手に大切そうに持たれた黄緑色のゾウを模した子供用のジョウロ。
アルラから見た第一印象は『なんだこいつ』不気味な笑い声に不気味な、というよりは奇妙な見た目。
それ以外の言葉が見つからなかった。
「悪いけどウチは今不景気なんだ、そんなことで割引は出来ないぜ。それと俺はまだ18だからおじさんじゃねえ」
「不景気というか人がいませんね。はい」
「新しいものを試すには勇気がいるからな」
「その程度の勇気も持たざる者がこれから先の時代をやっていけるとは思いませんけどね、最近は魔王や勇者の動きも活発らしいですし、何時までも引きこもっていては滅ぼされるだけですよ。戦わなければ生き残れないんです。キシシシシ」
「君ほんとは20歳くらい年誤魔化してるでしょ」
どこかで聞いたフレーズに懐かしみを感じながら。手際よく生地をフライパンにお玉の底で広げ、乾くとフライ返しを器用に使って裏返す。出来上がった生地に生クリームや各種フルーツを載せ、くるりと巻いて紙で持つ部分を作ると...
「はいよ、こちらクレープね。320リクスになります」
「因みにアタシのこのローブの下、何も履いていません」
「.........300リクスになります」
「ちょろいですね」
なんとアルラは残念な部類の人間だった!!
情報には金が付きまとうものである。有益な情報にはそれなりの値段が伴うのだが、二度目の思春期真っただ中のアルラがこの情報をどう判断したかはご想像にお任せしよう。
もっとも、結果から見れば明らかではあるが。
なにやら負けた気がしてならないアルラは少し落ち込んだ様子でフライパンに少し残ってしまった生地を削り落としながら、受け取った代金を用意しておいた箱の中に乱雑に片手で放り込む。
一方ぶかぶかローブにとんがり帽子の少女は、口の上にクリームをひげのようにつけてはむはむとバナナとイチゴ入りの特性クレープを頬張っている。
「ほうほうこれはいけますね、というか、美味しいです!はい」
「そうでしょうそうでしょう」
ふん、と鼻息を立てるエプロン姿の青年の顔は自慢げだ。アルラ・ラーファの持つ前世の記憶。つまり『灯美薫』は、料理が趣味であった。高校生から一人暮らしを始め、毎日欠かさず自炊生活を送っていたうえに、数々の飲食店バイトを掛け持ちしているうちに、内に秘めた
料理の才能が開花したのだ。
言ってみれば独り身が故にいらぬ才能を開花させた。
その腕前は、家庭科教師の腰を抜かし、バイト先の店長に「正社員として永久就職してくれ」と言わしめ、高校の進路指導主任に『ミシュランでも目指してるの?』と言わせたほどだ。
「あなた、ウチでコックでもやりませんか?」
「悪いけどおままごとの相手は今度な。お兄さんにはやることがあるんだよ。この屋台もそれまでのつなぎだ」
「そうですか...残念ですね、はい」
そう言うととんがり帽子の少女は「また来ます」とだけ残してどこかへ去っていった。片手に食べかけのクレープを握り、何故かもう片方の手にはゾウを模したジョウロを持って。
「...変な子供だったな」
日差しが強く照り付ける屋台の中、どこかへ去っていくとんがり帽子にぶかぶかローブの少女の後姿を見ながらアルラはそうつぶやいていた。
実は自分が誰よりも変な奴ということには気づいていないのだから、かなり重症なのだが。