プロローグ
『全ての原初は時計である』
声、ではない。
どこか宇宙の片隅にて、意思を持った概念そのものが語り掛ける程度のか弱い言葉があった。
否。
ここは、宇宙ですらない。
もっと言えば、世界じゃない。枠組みは無く、概念も無く、法則も無く、記憶も無く、個人も無く、群れも無く、何もない。
唯一、罪が揺蕩っている。
『時間、空間、位相、世界......これら深淵に迫りし回答を導き出した者こそ、唯一』
姿、捉えきれず。
形、判別付かず。
朧気な思想だけが何かから別離して、漂っているかのような曖昧なモノ。
ただただ語るに思想だけ。何処かで物語を眺める傍観者はそっと言葉を紡ぐ。歌うような甘い音にも憎むような重い音にも苦しむような苦悶の音にも楽観する気まぐれな音にも聞こえるそれは。
『現世の価値と意味を知る―――』
語り手と呼ぶには、巨星の如く膨大すぎた――――。
とある街のボロアパート、月々家賃三万二千円の部屋だった。
今日も青年はその部屋で目覚める。これも毎日のことだが、目覚ましがほとんど意味を成していないのだ。
だからといって時間に疎いわけでもなく、むしろ目覚ましが鳴る前に自分から目が覚めるのは健康体の証だろう。朝日差し込む四畳半のせまっ苦しい部屋の中では、主がまだ読み切っていないライトノベルや漫画が散乱している。
休日の朝だというのにスマホがやかましく、ぼさぼさ髪を掻く青年の部屋いっぱいに鳴り響く。
眠そうに瞼を擦る誰かがすすいと寝ぼけまなこをそのままに、液晶いっぱいに映し出された名前を確かめようとするも、ぼやけてピントが定まらないうちに諦めた。
辛うじてわかる赤色のボタンに指を置く。
一旦は喧騒が搔き消えて、また布団に潜り込もうとした彼の思惑と怠惰を再び鳴り響く着信音が妨げる。
いっそのこと無視してやろう。
そんな彼の考えを電話の向こうの誰かはお見通しだったらしい、
電話を手に取った。
「もしもし...?」
「もしもし薫、俺だよ俺」
ズキンッ!!と、彼は急な頭痛に思わず顔をしかめていた。
そっ、と。また赤色のボタンをタッチして平和な休日を取り戻そうとしたところで、電話の向こう側から慌てて制止する声があった。
声を聴くなりそっと通話を終了させようとしたが感づかれたらしい。画面の向こうの人物は慌てて制止していたが、うんざりするほど繰り返した彼はぶっちゃけもうすでにこの先の展開が読めている。
電話の相手は青年と同じ会社の同僚で残り少ない同期の一人、みんなの間で呼ばれる名は通称山ちゃん。
青年の数少ない友人の1人でもあるが、本名は長い付き合いの青年すら忘れかけていた。
彼はすぅっ、と区切るように息を吸うと。
「いいえ、神様は信じていないし聖書もいりません。新開発の商品もいらないしアンケートにも答えませんではそういうことで」
「待て待て待て待て!!わかってんだろ俺だよ頼れるお前の同期さんだよ!休日を邪魔したのは悪いと思うけど話だけでも!!」
「ダウト、お前は僕を頼るけど僕は君を頼れない。休日だってわかってるならゆっくりさせてほしいんだけど」
「お前にとっては休みでも、今の俺にとっては平日みたいなものなんだよ!」
「任された仕事も終わらせないで毎晩毎晩飲みになんて行ってるからだろ...自業自得だよ自業自得。悪いんだけど今忙しいから、じゃあ」
「嘘つけ寝てただろ俺が電話を掛けるまで!声のトーンでわかるぞ!」
呆れて、やれやれとまた頭を掻く。
先述の通りこの後の流れは大体決まってる。この電話越しの同期はなかなか終わらない自分の仕事を手伝わせようとしてくるのだ。
いつものと言えば検索履歴にどっさり出てくるようになりつつあるパターンだ。社会人になってからもう何十回と繰り返しているので、ほぼ毎回大体お決まりのワードが並んでしまうのだが。
「お願いだよ薫~!このままじゃまた課長にどやされちまうよ!助けてくれ~!」
「そうやっていつも僕を巻き込むんだもの、もういつ首が飛んでもおかしくないんだよ?そろそろ本気を出して仕事に取り組まないとどうなっても知らないよ」
この会話ももう何度目だろうか。少なくても十回やその程度ではない。毎回こっちが折れて手伝いに行く羽目になるのだ、休日なのに。休日が潰れるせいで日ごろから消化しようと思っている積みラノベも読み切れない、ずっと気になっていたネットドラマも観れていないし、巷で話題のアーティストが主題歌を務めた映画に至ってはSNSでネタバレを食らってしまった。
そう考える一方で、青年もまた仕方なく。いつものように流れに身を任せることにする。自業自得とはいえ相手に助けられたことも(比較にならないほど少ないのだが)あったのだ。どうやら青年、こういう時はお互い様の精神を心臓に杭で打ち込まれているらしい
「仕方ない...こんどの呑みはそっちの奢りな」
「恩に着るぜ~!ほんと、薫さまさまだよ」
人がいいことに定評がある彼は押しには非常に弱い。
こうして今日も結局、青年は仲良く道連れされるのだった。
それではここで挟もうか。
青年の名は灯美薫、24歳。
料理が趣味のどこにでもいるごく普通の会社員で家族はいない、彼女はもっといない。両親は青年が生まれてすぐに事故で亡くなっているので兄と共に叔父の家に預けられた。しかし兄も青年が8歳になったばかりという時、いきなり家に押し入ってきた強盗に刺されて亡くなったのだが。
高校からは今住んでるボロアパートを借りて、現在勤めている会社に就職した。何処にでもあるごく普通の商社。やりがいはあるがこれと言った刺激も無く、何年たっても変わらない忙しさに体を苛める日々が続いている。
一人暮らしで収入もそこそこなのでしっかりと毎日食っていけている。
つまり、ごく『普通』の一般人。自他ともに認める、社会に散らばる有象無象の一人である。
「さてと、行くか...」
磨き終わった歯を鏡でチェックすると、荷物を持ち部屋を出て鍵を閉める。
ドアを開けると、途端に冬の朝日と冷たい風が部屋に漏れ出し、薫は思わず体を震わせた。
季節はすでに冬、12月の半ば。もうすぐクリスマスだというのに、何故一人寂しく会社に向かっているのだろう。と心の中に生じた疑問に馬鹿正直に向き合うと精神が崩壊しかねないので、何もなかったことにして歩を進める今日この頃。
(なんだか無性に腹が立ってきた。ちくしょうやっぱり一発ぶん殴ってやる)
息を撒きながら怒りをその顔に露にする青年が会社に到着すると、時刻は八時半、山ちゃんは...まだ来ていない。人を駆り出しといて遅れてくるとはなんて奴だ。絶対にぶん殴ってやろう。薫がそんなことを考えてると。
「いやー悪いな薫、こんな休日に」
「そう思うなら普段からしっかりしてくれよ...とりあえず一発殴らせろ」
全ての元凶がやっと現れた。渾身の右ストレートを腹に放つが、あっさりと受け止められてしまう。今日はこのくらいで勘弁してやる、と心の中で自分をなだめ捨て台詞を吐き捨て、二人で仕事に取り掛かる。
終わりの見えない果てしない作業。次第に会話も消え、静寂がその場を包み込み、暖房が室内を程よく温めて眠気を誘う。
しばらくしてお昼時、終わりがようやく見えてきたというところで休憩をはさむことにした。何事にも休息は必要である。特に薫はこいつに休日という休息を奪われているからなおさらである。
「じゃあ俺近くのイレブンマート行ってくるから、何か買ってこようか?」
「じゃあ卵サンドと鮭おにぎり、あとコーヒーもよろしく。もちろんそっちの奢りね」
「容赦ねえなあ」
「こっちはせっかくの休日に駆り出されてるんだからこれくらいは当然でしょ」
ほとんど休憩を挟まずパソコンとにらめっこしていたせいか、いつも以上に疲労感が襲ってくる。よく考えれば昨日も夜11時ごろまで残って自分の仕事を片づけていた。疲れないのがおかしいというものだ。休憩室で少し仮眠をとることにした。
休憩室は横長のソファーが2つ向かい合わせに設置されており、必要であればそこで仮眠を取れるようになっている。
窓際の机にはちょっとした雑誌などが置いてあり、その横の棚には軽い軽食が詰まっている。
休憩室の窓を少し開け、ソファーに横になった。
「家の布団でゆっくりと寝たかったなあ...」
そんな叶わぬ望みをつぶやきつつ、目を閉じる。よほど疲れが溜まっていたのか、目を閉じて数分もしないうちに意識が遠退き始めた―――――――。
溺れるように。
泥の底へ沈むように、だ。
目が覚めると、彼は見知らぬ土地に居た。
色とりどりの美しい花が咲き誇る花畑。雲の合間から差す陽の光がその花々を照らし、花はより一層輝くようにその色彩を極彩色へ染め上げている。
陽の中を鮮やかな蝶が舞い踊り、春風が辺りをやさしく...温かく包み込む。そんな場所にいつの間にか俺は立っていた。いいや、ずっと居たのに気付かなかっただけなのか...?
(......?)
立ち尽くす、しかない。
どこだ、ここは。
見覚えが無い。二十うん年生きてきて、こんな場所に訪れたという記憶は脳みその何処にだって存在していないはずだ。記憶があいまいなほど幼い頃に訪れたとか、忘れているとか、そういうわけでもないはずだ。何故か確信できる。
ライオンが生まれたその時から自分がサバンナの王者であることを自覚するように、まるで遺伝子に刻まれたような確信があった。
きょろきょろと首を回して、自分を取り囲む景色の全てを視界に収めようとしてみた。花畑は地平線の向こうまで続いているようで、嗅いだことのない花の香水みたいな香りが鼻の奥をくすぐっていた。
(どこ......だ?ここは、僕は、いや俺は...?)
ズキンッ!!!と。
自分のことを考えようとすると酷く頭が痛む。頭を手で押さえようとして、それが出来ないことに気が付いた。
両腕は、極彩色の霧に覆われていた。もやもやと蠢き、辛うじて腕のような形を形成していても実体がないようだ。試しに目の前を飛んでいた蝶に触れようとして、しかし霧の腕は羽ばたく蝶をすり抜ける。
両脚も、もっと言えば全身が同じ状態だった。
歩こうとしても脚は地面に触れられない。頭と視界だけが定点カメラを動かすみたいに自由で、つまり見ることしか出来ない。
(頭が割れるように痛い。視界がぼやける。どうしてここに、僕はさっきまで......何をしてたんだっけ?)
自分の痕跡を探そうと果てしない花畑のあちこちに視線を向けてみる。
ふと、背後へと振り返って、思わず固まってしまった。
女の子が立っている。白いワンピースを身に纏い、吹く春風に長い髪をなびかせる。美しく、それでいてどこか懐かしい少女が。
宝石のように透き通った青の瞳、腰まで伸びた白銀の髪。美しい、というより可憐な少女だった。
思わず口を間抜けに開いて見入ってしまうほどに可憐な少女はこちらを向いたかと思うと、すぐ振り返って青年に背を向け歩き出す。
「まっ待って!」
と、思わず声を出して呼び止めようとした。
が、言葉は出ない。極彩色の霧のようなモノが、いつの間にか首上から口までも侵食していた。
ズキンッと、頭が痛む。ぽたぽたと、辛うじて残っていた瞳から何かが零れた。涙以外の、しかし人体には無くてはならない真っ赤な何かが。
少女は少しだけ歩みを止め、こちらを振り返る。その顔には笑みが浮かべられていた。優しく、だけどどこか、悲しく造られた笑顔。
『道を間違えてはだめですからね』
どうしてだろうか。
彼女のことを知っている気がするのは。
どういうことなのだろうか。
彼女の背中を追いかけなくちゃならない気がするのは。
一歩、一歩と踏み出そうとして、やっぱり脚は動かない。花畑に上から釘で刺されて固定されているみたいに微動だに出来ない。極彩色に覆われた手を彼女へ向けたが、彼女は微笑みながらこう言った。
『私は必ずここであなたを待っています。悠久の時が流れようと、何があっても必ずここで貴方を待ち続けますから。ただ凍り付いた秒針を眺めることになったとしても、みんながあなたを忘れたとしても、あの頃みたいに待っていますから』
意味が解らなかった。
優しい声が青年の耳に響き、少女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
教えてくれ。
君と俺は、どうしてここに居る?君は誰で、俺は何だ?
『あの日のあなたの優しい言葉、今でも昨日のことのように思い出しますよ。世界中が私の敵だった、あなただけが信じてくれた。あなたが私にくれたあの言葉があったから、私はここまでこれたんです。だから、必ず迎えに来てくださいね』
次の瞬間、一面の花畑も流れゆく空もさえずる小鳥たちも。一瞬にして全ての景色が業火に包まれた。美しく咲き乱れていた花々も、舞う蝶も、全てが炎に変わっていく。少女はただ、一筋の涙を頬へ流してこちらを眺めていた。
囁くような小さな声だった。
けど、確かに聞こえた。
『時と...世界があなたの味方であり続けますように―――...』
心臓が燃えていく。
全身が熱を帯びる。心に得体の知れない衝動が沸き起こって、動かない脚を引きちぎってでも少女の背中を追いかけようと必死に手を伸ばした。
再び視界が暗転してゆく。まだその涙の意味も知らないのに。
取って代わるように、どこかの世界で誰かが呼んでいた。
俺を...いや僕を。
「―――!」
なんだ。
「か―...!――る...!」
誰なんだ。
「薫...っ!薫!」
僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。やかましい声が。いつものように自分の仕事を押し付け、失敗するたびに泣きつき結局こっちが酷い目を見ることになる。
あれ?俺はなんで泣いてたんだっけ?
「薫ッッ!!」
目を覚ますとそこは。見慣れたはずのビルの一室、ほとんど毎日のように通い続けたはずのありふれた光景は。
(......?)
業火に包まれていた。
「.........は?」
「いやお前『は?』じゃねーよ薫!よかった、生きてたな!?急いで脱出するぞ!」
目の前に突如として現れた顔は、涙と鼻水で中途半端にクシャクシャだった。近寄られたくないと口に出しそうになるも、今はそれどころじゃないのだがやっぱり近づかれたくは無かったのでさりげなく肩を押し返す。
薫が仮眠を取っていた休憩スペース――――それどころかフロア全体が灼熱の中に埋もれていた。当然言うまでもなく、『一般人』である薫の脳内は未だかつてないパニックに見舞われる。何がどうしてこうなったのか、悪いのは自分かはたまた別の誰かなのか。遂には考えることをやめてしまいそうになるも、
呼吸を沈めて煙を吸わないようにしなくてはと頭では理解しているのに、パニックからかどんどん呼吸は荒くなる。決して炎の熱のせいじゃない汗がだらだらと顔面を伝っている。
「まっ、待って山ちゃん!これっこれはどういうこと......?俺はまだ夢でも見てるのか?」
「どうもこうもあるかよ!見りゃわかるだろ!?火事だ!」
「え...?火事?」
「それ以外の何に見えるんだよ!?どっきりじゃないぞ、
フロアのあちこちに燃え盛る火炎が見える。無造作に積み上げられていたはずのダンボール、重要な機密を詰め込んだファイル。その何もかもがただ赤に染まっていく。
絡みつく死の黒煙もだ。
しかし休憩スペースは偶然にも窓を開けていたためか煙が充満せず、火の手もまだそこまで回っていなかったらしい。薫は半ばパニック状態になりながらも、口元をポケットに入れておいた安物のハンカチで覆い隠す。
これでどの程度平気なのかなんてわからないが、無いよりはマシだろう。
「焦ったぞ、コンビニから戻ってきたらいきなりここの上の階が全部燃えているんだからな、周り見て避難してる奴の中にお前がいなかったからな。急いで登ってきた」
それを聞いてぎょっとした。
燃えているとわかっている建物にわざわざ乗り込んできたというか?きっと誰かが通報して、じきに救急隊や消防隊員も駆け付けただろうに。
「わざわざ外から入ってきたってこと!?なんでそんな危ない真似を...!」
「お前をほっといて一人で逃げれるかよ!」
「山ちゃん...ほんとに君って奴は」
友人の行動に表面では怒り、しかし内心感動しつつも、はここから脱出することだけを考えなければ。決してパニックになってはいけない。
薫は一度額に手を当てて、落ち着いて周囲を観察する。よく見れば、普段は意識すらしないような情報もどんどん頭の中に流れ込んでくるようだった。
冷静に脱出することを考える。もうこの階に安全な場所なんてどこにもないだろう。
この仮眠スペースにも火の手が回りつつある。ビルはインテリアの関係で所々に燃えやすい絨毯や木材が使われている場所がある。なのできっと火は回りやすい。煙は下から上に昇ってくるので、時間が経てばたつほど今いる場所は黒煙に覆われることになるだろう。
隣で自分から突っ込んできたくせに未だ慌てふためく友人は、ここから上の階が燃えていたと言っていた。となるとこのビルが崩れる可能性も大いにあり得る。鉄筋コンクリートで固めた建築物だろうが何だろうが、結局のところヒトが創り出したことに変わりはないのだから。壊れるときは意外とあっけなく壊れ去ってしまう。
もう一刻の猶予もない...パラパラと小さく細かいものだが、少しずつ瓦礫も落ちてきた。
「エレベーターは使えねーぞ!俺は階段で登ってきた!」
「急ごう!」
火の勢いが強すぎる。もう休憩スペースもほとんど火に呑まれている。二人は全力で階段へと向かう。
炎が皮膚に触れ熱を伝える。重ねられていた書類などは灰に変わり舞い散らかる。床に置きっぱなしだったファイルの山につまづいて転びかけた薫の手を友人が掴み、引き揚げて、どうにか足元の炎に触れずに立つことが出来た。
礼を言う間も惜しんで、息をこらえて全速力で階段へ。ここはビルの6階、階段を降りるのにも時間がかかってしまう。火と煙は待ってくれない。
「薫!降りるぞ!」
「うん!」
階段を2人で駆け下りる。火は既にこのビル全体に回っているようだ。
どこもかしこも火で包まれている。あちこちに焦げ臭い匂いと有毒な黒煙が充満しかけ、時間を何十倍にも引き延ばされたような緊張が奔る。
現在地点はちょうど2階と1階の中間部分。もう一息で1階に到着する。
外から聞こえるサイレンの音が少しだけ青年を安心させた。
「ねえ山ちゃん...」
「どうした!?」
「僕、もう二度と山ちゃんの休日出勤には付き合わないからな!」
「ちょっ!これは俺悪くないだろ!」
「畜生!ここまでの作業が全部パー!!労災降りるのかなこれ!!」
「言ってる場合かよ口塞げ煙吸うなよ!!」
無事階段を下りきった二人は1階から外に脱出。ビルの外に逃げることが出来た。二人とも息は上がり、熱とダッシュの影響で汗でベタベタだ。もう少し遅かったら無事じゃすまなかっただろう。
九死に一生を得るとはこのことだ。
「君たち!無事か!?」
頑固おやじといった風貌の救急隊員が駆け寄ってくる。薫もそれを見て緊張がほどけたのか、どっと膝を崩して今更息を荒げていた。
「意識はある、呼吸障害も無し。全身に軽度の火傷......とりあえず大丈夫そうだが念のため二人共病院へ搬送しよう、煙を吸ったかもしれない。それとそっちの君!取り残された人たちの救出は消防の役目だ!無茶して君まで巻き込まれたらどうするんだ!」
「すっすいません...」
山ちゃんが突っ込んでいったことを救急隊員の人に怒られていた。当たり前だ。とんでもない無茶だった。だがその山ちゃんの無茶がなければ、薫は死んでいたのかもしれない。
彼も薫と同様に緊張の糸が途切れたからか、その場で腰を落として荒く息を吐いていた。
「それにまだここは危険だ、もっと離れてな...」
バゴォォォォン!!!、と。
直後ビルの上階で大きな爆発音が響いて、ビクッと全身でびびってしまった。
近くで悲鳴も聞こえる。今更になってサイレンの音も認識し始めた。
爆音の方向から、不意に大きな影が差していた。
ふと空を見上げて、多分僕の瞳孔は今までにないくらい開いていた。
自然と僕の体はどう動けばいいか理解してたかのように、飛び出していた。同じようにほとんど反射で口から言葉がはみ出た。
手が伸びた。それに気づいた彼の表情はきょとんと無防備で、『どうして今更そんなに必死なんだ?』とでも考えてるように思えた。
「山ちゃん危な...!!」
平凡な青年は全力でもう一人の青年へタックルをかましてその場から弾き飛ばした。
全身を地面に打ち付けるようにして着地した薫の体は、痛みからか動かなくなった。立ち上がろうと思っても立ち上がることはできなかった。立ち上がるための足は瓦礫の下だからだ。
人体を構成する大切な何かが零れていくのを感じる。
ごぼっ!?と口から湧き出た血液が、頬を伝ってアスファルトとを染めているのか。
(あ、山ちゃんがなんか言ってる...聞こえないけど...)
体に痛みはなかった。それどころか五感がすべて遠のいていくようにも思えた。
いいや、そうじゃないのか。
痛みはある。どういうわけか、ただひたすらに頭が痛い。しかしそれすらも表現する術はない。
(結局、こうなるのか...)
ああ、寒い、死ぬってこういうことなのか。不思議と恐怖はない。むしろ自分の行動が誇らしかった。
最後の最後に人を助けることを選べた。きっとさっき、自分だけで逃げていたら、僕は生き延びたとしても一生後悔してたんだろうな。
青年の意識は徐々に肉体から失われていった。下半身は完全に瓦礫の下、夥しい量の鮮血が彼自身の体を浸していった。
(死にたくないなあ)
これが、彼が最期に思い浮かべた言葉となってしまった。
何処にでもいる平凡な青年。灯美薫の意識は深海よりも更に深く、宇宙の果てより果てしなく暗い闇の中に消えて、パチンと音を立ててはじけ飛んだ。
これより始まる物語の原点は常にここにある。ただ一人の凡人の死は蝶の羽ばたきのように切なくあっけないものであったが、何時の時代だって引き金はその程度のものだ。
花は咲いた。凛と佇む姿の影に光を灯し、極彩色を帯びた命の目覚めは近い。
だから。
これは己の罪と向き合う物語。
初投稿です
よろしくお願いいたします