オレンジを食べようとしていただけのおじさん「なんだったんだろう、今のは」
「御覧下さい! 船酔い知らずの、魔法のバニースーツです! 何でバニーガールかって? そりゃあカジノ船で使うからですよ。今の国王陛下になってから街中は取り締まりが厳しくなりましたからねえ……だけど海の上なら国王令も追って来れませんから。お客さんとバニーガールを乗せて港を出て、博打をしながらそのあたりをクルーズして戻って来るってわけです。いかがです? 白金魔法商会謹製の……ベルベットブラック、ローズレッド、インディゴブルーにそれから……ああ、揃いのアクセサリーも着けないと魔法の効果が出ません。これを着ると船の上でも陸上と同じように歩けますし、船酔いもしません。いや勿論わたしゃ着た事無いですけど、揺れ自体を感じなくなるそうですよ。今なら1セットで金貨15枚、いえ、12枚にしましょう……あ、もし今ここで着てみせていただけるならもう銀貨5枚値引きを……お嬢さん? お待ち下さい、じゃあ銀貨8枚サービス……ええい金貨11枚におまけだ! 待ってお嬢さぁぁん!」
夕食も済んでしまったけれど、寝るのにはまだ早い。すなわち私には今やる事が無い。
私は港の桟橋近くの通りまで散歩に来ていた。日は暮れていたけれど、この辺りにはまだ開いている酒場もあるし、所々オイルランプも点いている。
私や母が住んでいた村から、わずか5kmの港町。だけど、私の町とは何もかも違う町。
結局父は海の人間で、母は陸の人間だったんだろう。家族が同じ家に住むのが当たり前と思っていた母に、数か月に一度しか帰って来ない父は軽過ぎた。
私は何故こんな時間にこんな所を散歩しているのか。
多分、昼間、父の日記を見たせいだと思う。
港の中は夜でも様々な明かりに彩られている。
これが父の世界だったんだろう。
哀れなリトルマリー号でさえ、一つ二つは明かりを点けているようだ……どうせあの明かりの下で、酒でも飲んでいるか博打でもしているのだろう。
博打と言えば、湾内中央に一際派手に明かりを灯した船が一隻漂っている。あれが悪のカジノ船か。国王陛下、早くやっつけて下さい。
あの不精ひげ、何で私を足止めしてるんだろう。何を企んでいるのか?
そんな事を考えた時だった。
「いずれにせよ……マリー嬢の事を最優先に考えるべきなんじゃないのかね?」
そんな声を聞き私は咄嗟に、近くのベンチに座りオレンジの皮を剥いていた知らない太っちょのおじさんの影に隠れた!
私は慎重に、おじさんの影越しに顔を出し、声のした方を覗く……20mくらい離れた酒場の入り口から出て来た数人の男。今喋ったのは、あのオーガンと名乗った男ではないだろうか。
あの時私は背中を向けたままだったから、オーガンの姿は見ていないけど……たぶん、男達の真ん中に居る、ちょっとどうかと思うほど真っ赤なジャケットを着た中年男性がオーガンだと思う。
だけど今の私にとってオーガンはどうでも良かった。あの不精ひげ! オーガンと繋がってたのか! 赤ジャケットと一緒に居る4人の男のうちの一人は、間違いなくあの無愛想な不精ひげの水夫だ!
「あ、あのう、お嬢さん?」
ベンチに座ってオレンジを食べようとしていただけのおじさんが、困惑した表情で私に声を掛けて来る。ごめんなさい。今それどころじゃないんです。
私は身を屈めて小さくし、慎重におじさんの影に隠れつつ、20m先の男共に必死で聞き耳を立てる。
「御願いしますよ、どうか、金貨3000枚で」
「親友の忘れ形見を救いたいという私の足元を見るのかね! 見下げ果てた奴め! 私のオファーは十分なはずだ……そんなに、金が欲しいか?」
「ええ、欲しいんです。何卒御願い致します、金貨3000枚! それで全部渡しますから!」
私に対してしたように……両手を併せ、赤ジャケットにペコペコ頭を下げる不精ひげ。
オーガンと不精ひげとその他……男共は、私に気づく事もなく去って行った。
残された私。
何でだろう。涙が止まらない。
何で?
あんな不精ひげ、最初に見た時から印象最悪だったじゃん?
別に驚きはないでしょ?
水夫がクズだったなんて話、どこにでもあるじゃない?
私、別にあいつ、あの不精ひげを信用してたわけじゃないでしょ?
じゃあダメージ無いじゃん。
そう思ってるのに……今、私の涙は止まらない。
あいつらは……あれでも、父が大事にしていた仲間なんだろうと思っていた。
私や母の所にも帰って来れない程に大事にしていた、船と仲間。
母よりも私よりも大事な物なんだから、さぞや立派な物なんだろうと、私は勝手に思っていた。
その結果が金貨3000枚か。父の船を、あの嫌な感じの男に売りつけて、そんな金を得ようとしているのか。
あんな船どうでもいいけど。
どうでもいいけど。
ただ……
ただ……
父の日記らしき物を見てしまっていた私は……途方もなく悔しかった。
私や母の所にほとんど戻って来なかった父。そのせいで母に逃げられた父。
だけど私の事はずっと気にしていると、日記に書き残していた父。
そんな父が、私や母より大事にしていた船の乗組員が、この程度か。
私は泣きじゃくっていた。
ただベンチに座ってオレンジを食べようとしていただけの可哀想な太っちょのおじさんは、困惑しきっていた。
「あの、お嬢さん……」
私はようやく、一つ深呼吸をした。
とりあえず。世の中にどんなにクズが居ようと、私までそうなってはいけないので、今やらなきゃいけない事をしよう。
「突然すみませんでした」
私はおじさんに、深く頭を下げる。
「い、いや……まあ……」
おじさんはホッとしたような表情を見せた。良かった。
この後の私は良くない。いつまでも泣いてなんかいられない。帰って状況を整理するか。あの不精ひげを尾行してみるか。
私はただの小娘だけど、これから一人で生き抜く覚悟を決めている小娘でもある。私にだって出来る事が何かあるはずだ。
涙を拭いて立ち上がろう。
不精ひげの尾行は不毛だった。奴はあのオーガンとかいう男について回った挙句、周りの男達に追い払われた。
その後どうするかと言えば……案の定、手近な酒場に入って行く。
中の様子を覗おうかとも思ったが、あんまりああいう所に近づくものじゃない。
偶然だけど、その判断も正解だった。不精ひげはすぐに出て来た。
何となくがっかりしているように見える。酒を飲ませて貰えなかったんだろうか。
不精ひげは通りをふらふらと歩き、また別の酒場へと入って行く。
この男についてはもう十分だと思えた。