アレク「(小声)キャプテン…ダメです………ダメ………」
初めての取り引きには暗雲が立ち込めていた。オーガン商会に先回りされていたのだ。
村の倉庫にはもう十分な物資があるという。
入り江に停泊している船はリトルマリー号だけではなかった。
リトルマリー号より少し大きいくらいの軽ガレー船も一艘。どこから来たんだろう。見た感じ、木材を運んて来た船かな……
大きなボートに帆をつけただけのような船が何艘か……うちも他所の事は言えないけど。これは島の船かも。
入り江の上には緩やかな斜面に沿って、畑や家が点在する。穏やかな離島の暮らし……
正直、見ているだけでわくわくする。自分が生まれた村を出た事さえほとんど無かった私が、遠く海で隔てられた島に立っているのだ。
ロイ爺はまた露天商と話し始めた。
「私、市場を見てるから」
「アイ、船長! ホッホ」
ロイ爺は少し大きな声でそう言った。周囲の視線が集まる。
うーん、あのお爺ちゃんには何か見透かされているような気がする。
何を? 船長らしく見られたいとか、父のように在りたいとか、そういう私の助平心というか。
やっぱり年の功は侮れない……私がそんな事を考えていた、その時だ。
私は不意に誰かに袖を掴まれた。
「お姉ちゃん……船長さんなの?」
振り向くと、7歳くらいの小さな女の子が……私の上着の袖を両手で掴んでいた。
突然、胸が高鳴った。人は、短い瞬間にでも様々な事を考える事が出来る。
こんな自分、知らなかった。
心の中でも、口に出す言葉でも、私は父について悪態ばかりついていた。
その実、心の奥では尊敬と深い憧れを抱いていた。私の父は船長だったのだ。世界を駆け巡るヒーローだったのだ……まあ……子供の心の中では。
子供が、父のようになりたいと考える事は珍しい事ではない。
しかしそれは実際には険しい道の果てにある事が多い。例えば職人であれば、父親と同じ技術を身につけ、父親と同じように尊敬されるまで何年かかるだろうか。
私にとっても同じだ。ただでさえ女の身である私が、船長と呼ばれるほどの船乗りになるだなど、一体どれ程の時間と困難が必要だろうか。本来であれば。
しかも……数日前、私は確かに父の訃報を受け取ったのだ。そして酷く落胆した。自分と海を繋ぐ縁は、全て無くなったと思っていたのだ。その時は。
そんな私が、今、確かに聞いたのだ。
「汝は船長なりや?」と。
ここまでの短い時間の中でも、自分から船長だと名乗ったり、船長である事の証明書を見せたりした事はあったが、突然知らない人からそう呼ばれた事は無かった。
そして今私は、そうだと答えられるのだ。
今の私は、そうだと、答えられるのだ。
その事に感激している自分に、私は驚いていた。
私は海も船も大嫌いなはずではなかったのか。
こんな自分、どこに居たのか。
私は一瞬の間にそう考えながら、答えた。
「はいッ! 私がリトルマリー号の船長! マリー・パスファインダーです!」
ずるい。ずるいぞ私。
こんな簡単に、軽々しく、そう名乗ってしまえる日が来て良かったのか……?
だけど、この感情は止められない。
ああ、心の器が満たされて行く。
降り注ぐ見えない黄金の雨が、私の心の器を満たして行く……
「おねがい! いっしょに来て! おかあさん! 船長さんだよ! 船長さんを見つけたよ! おかあさん!」
女の子が私の袖を引き、どこかへ連れて行こうとする。
行かない理由があろうか。例え地の果て空の果て、行かない理由があろうか。
しかし行き先はすぐ近くだった。目の前の倉庫の中である。
そこにはアレクも居た。それから仲買人と思われる数人の男達。
その他に……30代くらいの女の人が一人……この子の母親だろうか?
「おかあさん! この人が船長さんだって!」
また言ってくれたけど……私の胸に先程のような高揚感は無かった。
アレクが何か気まずそうにしているのが見えたからだ。何かマズかった? 私がこの小さな女の子に連れられて、船長としてここに現れた事が?
ああ。私はまた何かやらかしたのだろうか。
仲買人達は私を見てきょとんとしている。
彼らにしてみれば、単に7歳くらいの女の子が15歳くらいの女の子を連れて来たという話なんだろう。
「あ、あの……船長です、うちの……」
アレクが、私を見ながらそう言ってくれた。嬉しい。自分で熱弁するより他の人にそう一言言ってもらった方が、説得力がある場合もある。
「御願いします」
母親らしき人が私に向き直って言った。日に焼けた、逞しそうな女性だ。
「私達の村のオレンジを買い取ってはいただけませんか、値段も量もいくらでも結構なんです」
オレンジ……最近どこかで見たような。ああ……レッドポーチの港のベンチで、私が隠れさせて貰った大きなおじさんが食べてたっけ。
「オレンジの産地はレッドポーチの近くにもあるんです、今年はそちらも豊作なんで……正直商売になりません」
アレクは私から目を逸らしながら、気まずそうにささやき続ける。
「それに、船長、その、船倉、空きそうにないです。やっぱりこの島、小麦などの基幹物資は仕入れたばかりだそうです」
「おねがい! となりの島で、みんなでつくったの!」
女の子が私にオレンジを一個差し出して来る。しかしそのオレンジはまだ少し青みががっている。
「おいしいの……食べてみてほしいの」
「違うでしょ……」
母親が私と女の子の間に割って入る。
「すみません、まだあまり甘くないんです、追熟するまであと一週間はかかります……でもそれで黄色くなって、美味しくなるんです、本当です……」
仲買人達は肩を落とす。
「悪いけどねぇ……うちだってそんなに大量のオレンジは要らないしなあ……船長さんとこも無理だろう」
「奥さん、あと一週間で完熟じゃ海運会社も持って行けないよ」
「オーガンの所も、1個も買わなかったんだろ? あいつらが買わないって事は、売れないって事なんだよ」
オーガンの所が回避した商品なのね。
「少しでもいいんです、御願いします、どうか……」
女の子が母親にすがりつき、見上げる……
ああいうの解るわ。自分が心細いんじゃなく、母親の事が心配なのよね……大好きなお母さんが困ってる……何とかしてあげたい……そういう気持ち。
……
私にもこんな時があったような……
「あの」
私は口を開いた。
「オレンジ、どのくらいあるんですか? 全部で」
ふと、視界の影で、アレクが、ごくごく小さく首を横に振っているのが見えた。
私はすぐアレクの方を向いた。アレクは……やっぱり顔を逸らしてしまった。
「アレク?」
私はアレクに近づき、顔を逸らした方へ回り込む。すると今度は目を逸らす。
「全部といえば……40トンくらいはあります……今年は特に豊作なんです」
母親はそう言って俯く。豊作なのに……可哀想だ。
「おねがい! 船長さん!」
そして……女の子はそう言って、私に両手を合わせた。
船長さん。
船長さん。船長さん。船長さん……その言葉が耳の中で木霊する……
私にも解る。これ絶対だめなやつだ。「長」のつく名で呼ばれたからって、気分をよくして判断を狂わせてはいけない。いけない。いけない……
私の頭の中で、村にドラゴンが降って来た。
逃げ惑う村人。火を吹くドラゴン。踏み潰されるオレンジの木。
助けを呼ぶ子供達。
船長さん! 船長さん! 助けて、船長さん!!
雲間を掻き分け現れる飛行帆船!
名前知らないけど帆船の先端に必ずついてる槍みたいなやつ! その上に立ちドラゴンを見据える、キャプテン・マリー!
狼藉をやめ船をにらみつけるドラゴン!
絶対だめなやつ! この妄想は絶対だめなやつ!
私は仲買人達の方に向き直った。
「あの、普段でしたら、取り引きは勿論皆さんを通して御願いしたいと思っているんですが」
隣でアレクがもじもじし出した。
私は一旦喋るのをやめ、もう一度アレクの方に向き直る。
「アレク、何かあったらはっきり言って?」
「……いえ……何も……」
まだだめか。うーん。
私、そこまで信用されてないんだろうな……人間として。
アレクはちょっと、人より警戒心が強いのだ。多分。
仕方ない。ごめんね、アレク。
私は再び仲買人の方を向く。
「今回は皆さん、私の物資も村のオレンジも買い取れないんですよね? じゃあ私達が……それを少しだけ直接交換しても、目をつぶってくれますね?」





