ウラド「初めて見たが、一目で解ったな」アレク「そうだね……」
田舎町の少女マリー。
めったに帰って来ない父は、しがない小さな帆船の船長。そんな父からの仕送りが途絶えた。
母は遠い昔に出て行き、頼りの祖母も亡くなった。針仕事の手伝いでどうにか暮らす日々。
それから半年。ついに役場から、父の訃報が届いたのである……
父の訃報が届いたのは三日前。
私はレッドポーチの港を見下ろせる高台の上に居た。
港には様々な船が停泊している。大きな船、小さな船、豪華な船、みすぼらしい船……
たぶん、あの小さくてみすぼらしい船がリトルマリー号だろう。港の奥の、出入りが面倒そうな所の、古くて壊れそうな桟橋に追いやられている。
気が滅入る……
空が真っ青なのが救いだ。突き抜けて青い空、水平線には真っ白な雲、眩しい太陽、心地よい風……たぶん今、私の味方は天気だけだと思う。
港に降り、波止場を歩いて行く……正直、女一人でこんな所を歩くのは心細い。
港の中央の綺麗な波止場には立派な船が停泊していて、その周りでは船乗りや人足が忙しそうに働いている。そういう所では私が通っても誰も見向きもしない。
波止場を進み、古い桟橋が並ぶ区域に入って来ると、足元が悪くなって来る。
崩れかけた石組み、穴だらけの板切れ……周りの様子も変わる。暇そうな水夫たち。眠そうな人足。私をじろじろ見ながら口笛を吹く男も居る。
ふと。桟橋の奥の羽目板に腰掛けた、体格のいい、とびきり暇そうな水夫と目が合う。うわ、こっち見てる……
だけど私もそっちに歩いて行かないといけない。船名が見えたから。やっぱりあのみすぼらしい船がリトルマリーらしい。
「マリーちゃん?」
その不精ひげの水夫が、いきなり私にそう言った。
私は……この人とは初対面だと思う。
「船長に聞いてた通りだからすぐ解ったわ。今みんなを呼ぶから」
その水夫は、愛想笑いをするでもなく、父を亡くした娘を哀れむでもなく、無表情にそれだけ言った。
くそ親父の事とはいえ、ちょっと腹が立つ。
「いえあの……マリーは私です。ここには遺品の引き取りに来ました。そんなのがあればですけど、一応」
私も出来るだけ無愛想に応えた。
「遺品って言うもんじゃないけど……あれ」
水夫は後ろ指で、桟橋から15mくらい離れた所に停泊している、その船を指差す。
「まるごと船長……あんたの親父さんのだけど」
人間の親がこんなボロ船に実の娘の名前なんかつけるか普通。
赤い塗料で描かれたリトルマリーという字の下には、父が買い取る前の船名と思われるハーミットクラブという字がうっすら残っている。
「持って行くのか?」
「……結構です」
あんな男でも私の父親だった。
年に二、三度、私が暮らすあばら屋に立ち寄っては、バカみたいな猫撫で声でゴロゴロ甘えて来るくせに翌朝には居なくなっている男を父親と呼んでいいのなら、そういう事になる。半年前までは仕送りも届いていた。
「じゃあ、船長室を見て行くか?」
水夫は今度は足元の小さなボートを指差す。
小さなマリー号。最初は小さな私を抱いた母が、ちゃんと父の出航の度に見送りに来ていたらしい。物心つく前の事なので、私は何も覚えていない。
物心ついてからの私は、船というものは私の両親を離婚に追い込んだ憎い敵だと思っていた。勿論見送りになんて来た事も無い。
そして今度は父の命をも奪った船……一応、見ておきたいと思った。父が自分を一国一城の主にしてくれたと自慢していた船を。
ボートは無表情な水夫のオールでゆっくりと進んで行く。
「なんじゃ、まだ交代には早かろうが」
船上からしわがれ声がする。長い髭を蓄えた、小柄な老人がこちらを見ている。
「おお……マリーちゃんか」
この人もか。私はこの人を見た事が無いのに、何で一目で解るのか。
私は船縁からぶら下がっている梯子を登る。
目についた水夫は不精ひげと髭長おじいさんを含めて四人……残りはどこかに遊びにでも行ってるのだろうか。
甲板の長さは15mくらい? 小さな船だけど船尾には船長室があるらしい。
「ここ。まあ好きなだけ眺めて、欲しい物があったら持ってってくれ」
私を案内して来た無愛想な不精ひげはそう言った。中まで案内する気は無いらしい。
船長室の中は……私でさえ頭がつくほど天井が低く、幅は2m、奥行きも1mほどしかない。暗い。
板張りの小さな窓を開けると、どうにか中が見えるようになった。作りつけの小さな寝台と机。その上にはぼろぼろの海図。壁一面には何かのメモやら書類やら……どれも私にとって意味のある物には見えない。
私は扉を閉め、寝台に座る。ふーん。これが父の城ですか。
机の下の鍵付きの箱には鍵がかかっていなかった。中身は……着替えと……日記?
私はその革表紙の本を開いてみる。
やっぱり日記だけど……くだらない事しか書いてない。
本当にくだらない事しか。
なにこの日記。うそでしょ。どのページも。どのページも。
私の事しか書いてないじゃん。他にもっと書く事あるでしょ船長なら!
そんなに気になるなら、何で船乗り辞めなかったのよ。どうして一緒に暮らしてくれなかったの。
だから嘘だよこんな日記。
本当は全然気にしてなかったに決まってる。
……
苦しい。
気持ち悪い。
この……臭いのせい? ここ、臭い……まあ……こんな狭い所に大人の男が一人居たらどうしても臭くなるか……
私、お腹減ってたっけ? いやいや二時間前に遅い朝食を摂ったはず……
……
うっ……
は……吐き気が……
私は扉をはね開け、船縁へ駆け込む。
「うげ☆×●○、ぐえっ□▲! おえええ○◎××★△●×~」
やってしまった……豪快に。
気持ちわるい。
ていうか船って何なの!?
何でこんな揺れてるの!? 気持ち悪い気持ち悪い!
「まさか……船酔いか? ピクリとも揺れてねーぞ」
例の不精ひげが言った! こんなに揺れてんじゃん! これのせいでしょ! 何なの船って!
「もっ……もう十分ですっ! 降ろして下さい!」
「船長室はもういいのか?」
「もういいですっ!!」
私は今日人生で初めて船の上に立った。同時に、そこが断じて私の居場所たり得ない事を認識した。
船って気持ち悪い! 聞いた事はあったけど、船酔いって酷過ぎる!
水夫って何でこんな気持ち悪い物に乗ってて平気なの?
違うんだ、きっと人種が違うんだ、何もかも違うんだ。
幸い不精ひげはすぐに私をボートで桟橋に戻してくれた。
「一つ、頼みがあるんだけれど……あの建物。水運組合に一緒に行ってくれないか? この船、出港出来なくなってるんだ。オーナーも船長も不在だから。今の国王になる前は、それでも出航出来たんだが……」
そういうことですか。よくわかんないけど、そこへ行って私がこんな船いらないって一言言えばいい感じ?
結構ですよ。船なんかみんな沈んでしまえ。