★第零話★ ノーファ(1435年・夏)
ある夏の日のこと。
朝、起きるとノーファは最初に山小屋を出て崖から零れ落ちる湧き水へ木桶を持って行く。夏とはいえ湧き水はとても冷たい。
触れる指が痛むほどに。
爪の間に土が詰まっている事に気が付いて、掻きだそうとするものの奥にどんどん詰まってしまい果たせない。
爪が長く伸びすぎた。
生まれてこの方一度も自分で切った事がない。
昨年までは世話を焼いてくれた優しい巫女長がいたが、もう亡くなってしまった。
それ以来一度も切っていない。
切る道具も無い。
困った困った。
ノーファは指が冷えるのを我慢してまた湧き水に突き出してしばらく待った。
骨の芯まで凍え我慢できないくらいになった頃にようやく爪が水を吸ってふやけた。ノーファは爪を自分の歯で噛み千切り始めた。
がちがち、ぎりぎり。
山小屋の下にある寺院には世間と隔絶された巫女達が生活しているが、誰も彼女の世話を焼かない。
彼女は誰にも愛されない。
まだ五つか六つだろうか、痩せ細って泥まみれの子供。
ここでそんな子供を愛するものはいない。
親はいない。
奥宮に幽閉された女性がノーファの母親だとうっすら先代巫女長から聞いた覚えがあったが、確認することは許されない。
ぎりりっ。
「っあああっ」
ノーファは爪を勢いよく噛み千切り過ぎて深爪になってしまった。
小さな爪が根元の方まで剥がれて激痛が走る。
涙目どころではない、悶絶して痛みに耐え急いで湧き水で洗おうとして沁みて再び激痛が走る。
小一時間うずくまって痛みが引いていくのを待つ。
どうにか耐えられる程度になってから片手で水を入れた木桶を持とうとするが重くて持ち上げられない。仕方なく少し水を減らしてから傷を庇いつつ両手で持ち上げる。
山小屋に戻ると冷めた食事が置いてあった。
実の所一人だけ世話を焼くように言いつけられた女性がいた。
男子禁制のお山で巫女達は夫や婚約者達から逃げて来た女性ばかりだったが、その女性だけは違う。
ノーファの母の侍女だったという娘、マリーナだ。
お山での奉公期間が終われば巫女達は職場を斡旋され社会に戻る事が出来る。
だが、マリーナはもう社会に戻れない。
そこで彼女がノーファの世話を焼くよう言いつけられている。
だが、マリーナは先代巫女長が他界するとノーファを虐めるようになった。
いまもノーファの為に持ってこられた食事は1対10くらいに薄められた粥だけ。
本当は漬物もついていたが、それはマリーナが食べてしまった。
貧しい地方の貧しい寺院では食に余裕はなかった。
少なくとも秋が来て収穫祭の行事で巫女達が寄付を貰って帰ってくるまでは。
途中で転んで泥まみれになってしまったノーファは山小屋に置かれた質素な粥を見てまた涙した。先についた汚れではなく、もうすっかり肌の奥まで汚れが浸透し黒ずんだ腕で涙を拭い顔まで真っ黒になってしまった。
箸も無い。お椀を呷るようにして粥を胃へ流し込んで食事は終わった。
今日の食事はこれで終わり。
「マリーナなんかに負けないもん。森にはたくさん果物生ってるもん・・・」
ノーファはへこたれない。
ふもとの村の人間はこの神聖なお山では何も取ってはならない事になっていた。
この山の管理者は寺院の巫女長だった。ノーファの世話を焼くことはマリーナ以外には許されない。誰もノーファに関わる事は出来ない。もし何かあればノーファの母の問題もあって親切に接した人間も危険にさらされるかもしれない。
誰もノーファを愛さない。
関わらない。
世話を焼かない。
誰もノーファを愛せない。
関われない。
世話を焼けない。
マリーナだけが唯一関われる。
だが、彼女は養育を放棄した。
神聖なお山では狩猟も採集も禁じられている。
だが、管理者である巫女長は幼児のノーファに出来る事はたかが知れているとノーファに自由を許した。
ノーファはへこたれない。
森にはなんでもあった。森はあらゆる命を育む。
彼女には森で全ての自由が許される。
生きていくのに必要なものは何でもあった。
ノーファはへこたれる必要がない。
◇◆◇
ノーファに衛生という概念は無い。
だが舐めて癒すという行為は本能が教えてくれた。
沁みて痛んでも裂け過ぎた指先を舐め続けた。
指先の痛みは何をするにしても邪魔だった。
物を掴むのも藪をかき分けるにも服を脱ぐにも布団をかけるにも常に付きまとう。
そのうち適当な布切れを固く巻き付けておけばあまり気にならなくなるのを経験から学んだ。
そして背の低い木から果実を捥ぎ取って食べて飢えを満たした。
ノーファを森の獣として無視するよう言いつけられている巫女達はそんな彼女を嘲笑った。
時折、山の猿達とノーファは果物を取り合いしていた。
猿たちは糞を投げつけてノーファを追い払い、ノーファは木から滑り落ちて怪我をした。食べ終わった硬い種まで投げ付けられてたまらずノーファが逃げ出した先では巫女達がそれを見ていた。
「こっちに来ないで!」
「あっちへお行き」
巫女達は石を投げてノーファを追い払った。
ノーファは四つん這いで巫女達からも必死で逃げた。
「まさに獣ね。あの子」
巫女達はけらけらと笑っていた。
ノーファの体のあちこちは擦り傷だらけ、枝でかぎ裂きになり、鋭い葉はノーファの肌を切ってしまい血が滲んだ。
そしてとうとうばい菌が傷口から体内に侵入して熱が出てしまった。
ノーファに衛生という概念は無かった。
誰も教えてくれなかったから。
明確な《《傷》》であれば洗ったかもしれなかったが、擦り傷やかぎ裂きは森の中をうろついていればいつもの事で傷とは思っていなかった。
餓えたノーファは春に生のまま葉っぱや根っこを食べた事があった。
毒性があってお腹を壊してしまったが、死にはしなかった。
ノーファは経験から生のまま食べていいものといけないものを学んだ。
常に栄養失調気味だったノーファだが、今までこれほど具合が悪くなったことは無かった。
いつものように薄い粥を持ってきたマリーナが前日分の食事も食べていない事に気が付いた。ノーファは山小屋で寝込んでいた。
ノーファが仲の悪いマリーナに背を向けて寝たふりをしているだけだと思っていたがどうやら病気らしいと気が付いた。
マリーナはノーファに声をかけた。
「・・・あんた死ぬの?」
「しなない」
ノーファは答えた。まだ彼女には意識があった。
朦朧とはしていたものの。
「・・・このまま死んでくれない?」
「・・・・・・」
いくらマリーナでもあんまりだ。
ノーファは背を向けたまま悔し涙を流した。
「・・・あんたが生きてるとね、《《奥様》》の身にも危険が及ぶの。先代は何を考えて受け入れたのかしら。死人は死んだままにしておけば良かったのに」
ノーファには難しい事はわからない。
まだ幼児だったから。
奥宮にいるという彼女の母はキゾクで幽閉されている。政治がどうのこうのと言われても幼い彼女にはよくわからない。社会で目立ってはならない、子孫を残してはならない、そんなことはノーファにはよくわからなかった。
「あーあ、《《奥様》》がいないことまでばれちゃったら寄付金が貰えなくなっちゃうわ。困るのよね、この寺院の運営さえできなくなっちゃう」
ノーファには難しい事はわからない。
だが、ノーファが生きているとマリーナは困るらしい。
ノーファは是が非でも生き抜いてやると固く誓った。
ノーファはこの夏をなんとか乗り切った。
秋になれば収穫祭での寄付や夏場に雨乞いに出かけていた巫女達が食料を持って戻る。ノーファにも少しは恩恵があるかもしれない。
だが、冬は厳しい。
巫女長は今のうちに何か干して蓄えを作れと言ったが、塩も無い。
干すという事の意味も分かってなかった。
ノーファにとって辛く、厳しい冬が近づく。
2018/10/13 補完として追加されたエピソードになります。




