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美しいヴァイオリンの音色のような・・・

 ロマンティックなデートを何度か重ねる、つき合って何ヵ月かのボーイフレンドが出来た頃。


 二年後の春に地元の大学に進んだ弟から電話がかかってきた。

 彼とは数年間、殆ど口をきいてなかったから驚いた。


 大学の履修要項がわからず単位の取り方が理解できない。フランス語の授業で発音を二度言い直しをされ、皆の前で恥をかかされた。ギターを買いたいからお金を貸して欲しい。

 貸したが半分しか返ってこなかった。

 

 母からも電話がある。

 せっかく弟のアパートに行ったのに迷惑そうな顔をされた。連絡もなく突然行ったら誰でも迷惑にきまってるが、彼女には弟は特別だったから迷惑がられる意味がわからないようだった。

 あの子はアルバイトを始めたけれどトイレ掃除をさせられるなんて。そんな所だから私から苦情を言おうかしら、と。


 頻繁ではない電話だったから聞き流したり、宿題があるからと電話を中断していた。そんなことが出来るのも私の中では母や弟の振る舞いや存在が薄れていて、充実した自分の時間を過ごしていたからだと思ってた。


 弟は不満だけじゃなくて気になることを言うようになってきていた。

 何度手を洗っても洗い足らなくて何十回も洗う。学校に行ってから、ガスの火を消してきたか気になり授業を受けていても心配で帰宅してしまう。良かった、ガスは大丈夫だ。学校に戻ると今度はアパートの鍵をしたか確かめずにいられなくなり帰宅する。

 ガチャ。よし、いや、ガチャ。よし、いや、鍵してるのか・・・その繰り返しを何十回もするようになっていたらしい。



 私は大学の友人に話すと、精神科を勧めてみたらどうかと教えてくれた。

 彼女の父親は内科医師だった。総合病院勤務だったからか色々な医学の情報を持っていた。きっと食事する中でそんな話が出るんだろう。


 彼女は大学に入学したばかりの頃、語学の授業で私の前に座った子だ。

「はじめまして。茉莉といいます。」

「私は菜々子です。地方から出てきました。」

「そうなの。私はずっと東京だから、二つ家があるのって羨ましいです。」

「ゴールデンウィークか夏には帰省しなきゃいけないかもしれないけど。」

「帰らなきゃって、ホームシックになったりしないの? 私は甘えん坊なのかな、一人暮らしって憧れるけど淋しいかも。」

「私は一人暮らしは気楽で。」

「しっかりしてるのね。それに料理作って洗濯して自分のこと全部するんでしょ。尊敬しちゃう。」

 彼女は甘えん坊じゃなくて、幸せな家庭生活をおくってきてるんだ。愛されて笑いに満ちた家庭に。やっぱりそんな家庭もあるんだと比べてしまった。


 茉莉ちゃんって・・・本当に、その字の「茉莉」ちゃんなのかしら。


 先生が来て話は中断し、終わってから茉莉ちゃんはお昼を一緒に食べようって学食に行った。ここは狭くて時間をずらさないと座ることが出来ないことがある。

「サンドウィッチやパンを買って芝生の方に行かない? それとも、お店にしようか?」

「あっ、お店だと私には高いかな。買って外で食べていいかな。」

「そっか、ごめんなさい。一人暮らしだと大変だもんね。」

「アルバイトしたり奨学金が入ったら、お店に行けるわよ。色んな店を教えてね。」

 茉莉ちゃんの話し方は全然嫌味がなかった。彼女が羨ましいと言えば、それは本当に羨ましいと思ってるし、家庭環境の違いがわからなくて失言したと思うと素直に謝ってるのが伝わっていた。



 母は弟には奨学金は借りさせたくないからと、私には「女の子なのに進学させてやるんだから奨学金を借りなさい」「学生はテレビなんか見ないでしょ、勉強があるから買わなくていいわね」

 必要最低限のものしか部屋に用意してもらえなかった。


 大学合格後の一ヶ月くらい、私は地元の喫茶店でアルバイトをした。一日八時間、お昼はそこのお店のランチが食べられるし、確か十万円前後は働いたと思う。

 上京した後、どうしても欲しい物がある時のために使うのは控えていた。

 最初に買ったものはスカーフだ。花の柄が綺麗で惹かれて、肩にかけて鏡を見ると顔のまわりが花で囲まれウキウキする。

 デパートは本当に沢山の商品がある。見てまわるとずっと時間を忘れて過ごせる気がした。地方にいた時はそんな経験はなくて新鮮な気持ちだった。

 スカーフ売り場では店員さんが「一枚あると結び方で印象が変わりますよ」と、いくつかの巻き方を実演してくれたし、花の柄が気になると言うと何枚か選んで相談した。似合う似合わない、これは顔が暗くなる明るくなる、原色は私には強い、そんな風に人と普通に話せることって嬉しかった。


 奨学金の審査がおりて定期的にお金が入るのが夏頃。

 バイトは学校に慣れるまではやめておいた。昼休みや駅までの帰り道に皆からバイト情報を得るのも面白かった。

 茉莉ちゃんや友達とつき合って、お茶したり映画観るのは費用はかかるけど何か宝物を探した気持ちになっていた。無駄遣いしないで、でも、形にはないけれど気持ちの良いことを優先しようと考えながら。

 バイトも、しなきゃいけないと思うと辛いから少しでも興味あってその年齢でしか出来ない仕事を選んだ。家庭教師はおいしい仕事だけじゃなくて、その子の家庭がわかるから興味深かった。色々な家庭があるから。



 茉莉ちゃんと外のベンチで食べるのは気持ち良かった。柔らかい陽射しと心地よい風に緑、まだ汗はかかなくて。

 サークルの勧誘やちょっと声の大きな応援団のデモンストレーション、サンドウィッチとパンを分け合ったり、だから、とても美味しく感じられた。

 学校で過ごすだけじゃなくて、時々休日や夜に連絡し合うようになった。映画、本の話、人工的だけど季節の植物や花のある大きくて素敵な公園を教えてくれて出掛けたり。裏表がない信頼できる友人。


 ******


 弟の話しをした時に茉莉ちゃんは言いにくそうだったけれど、

「菜々子ちゃんは、えっと、体調は大丈夫?」

「私?」

「弟さんのこと心配してるし、疲れてるんじゃないかなって。」

「私は別に。」

「気に障ったらごめんね。最近、学校に遅れてくることあるし眠そうな顔の時もあって。

 弟さん思いの優しいお姉さんだから・・・」

「ちがうっ! 弟なんか嫌いよ」

 私は彼女の話しが終わるのを待てなくて叫ぶように大きな声で否定してしまった。

 泣くつもりなんてなかったのに嗚咽おえつがとまらない。彼女は驚いてたはずなのに私の背中をさすり「大丈夫、大丈夫だから」と何度も言って落ち着くのを待ってくれた。


 そして、私は昔からのことをポツリポツリと話し始めていた。

 昔、私はメアリーが友達で私にしか見えないし聞こえなかったこと。母の弟と私に対する育て方が全然違う。クラスの子にいじめにあった時でさえ助けてくれようとしなくて嫌々学校に行っていたこと。祖父母への陰湿な嫌がらせを助けられなかった罪悪感。母のようにはならないと誓って東京に出ようとしたこと。

 それから、時々、昔の嫌なことや不可解で奇妙な夢をみて「いや!」と叫びたくても声が出ない。出そうで出ないのが苦しい。喉がガラガラになって目が覚めてしまうって。


 茉莉ちゃんは私の手をとり、

「今まで、すごく辛かったんだね。それなのに菜々子ちゃんは耐えてきて・・・。

 ちょっと楽になろうよ。走りすぎると疲れて倒れちゃうよね。だから少し休もうよ。」

 彼女の優しさはメアリーとは違う優しさだったけれど、二人とも私を助けてくれる存在。私の目の前にいる人、彼女は本当にいてほかの人達にも見える茉莉ちゃん。

 ああ、人からの無償の愛というか温もりって、こんなんだと初めて知った。四つ葉のクローバーじゃなくて人から与えられる安堵感って、これなんだって。

 彼女の慰めの言葉が低音でゆっくりと滑らかなメロディー、優しく包み込まれるような音色に聞こえた。前に聴いて好きになったチャイコフスキーの「懐かしい土地の思い出」のような。


「ありがとう、茉莉ちゃん。乱れちゃってごめん。」

「私こそ。聞かせてくれて、ありがとうね。

 前から気になってたの。明るくてバイトも上手くいってるようだし。でも、前からね、ふっと暗い表情することもあったから。言いたくないのに言わせてしまったらいけないし心配してた。」

「・・・ありがとね。」

「あのね、もしも、もしもよ。嫌じゃなければ、父に話したいの。精神科の先生と話してみない? 行きにくいなら私がついてくわ。」



 彼女は精神科の予約をとってくれ、約一週間後に行くことになった。私は自分だけで行こうって思った。茉莉ちゃんに迷惑かけちゃいけないし、彼女が「信頼できる先生達」って言ったら本当にそうなんだと信頼したからだ。

 今まで自分で決めて自分でやってきた。精神科に偏見はないし。私に母や田舎より怖いものなんてないんだから。治療することで自分を取り戻せるんだったらって。


 精神科医で臨床心理士の資格を持つ先生と話すと、「最初から薬は飲まないで診察とカウンセリングをしてみましょう」と言われた。聞かれたことで思い出せないことも多かった気がする。

 茉莉ちゃんに話したように簡単に過去のことを話すると翌週に検査様式で書き込みや聞き取りをすることになった。

 

 先生と話してると段々と記憶が鮮明に浮かんだり言葉に詰まってしまうこともあったし、気がついたら涙があふれていた。

「検査」と聞いて余計に意識してしまったのかもしれない。再び開けてはいけないパンドラの箱が開けられ、私は迷宮に迷い込んだ小さな動物のような気持ちにもなった。不思議なことに昔のことが「本当に自分が体験したことだろうか?」とも感じた。すべて夢の中の出来事だったような感覚だ。


 先生はメアリーのことは信じてくれたし、それは、イマジナリーコンパニオンといって架空の友達。解離性障害だろうと言われた。親子関係がよくないことでおこること、自分のことを守るために友達をつくったんだと。

 そして、PTSD、心的外傷後ストレス症候群とも。もう危険な場所にはいないけれど、だからこそ出てくるトラウマのようなものだ。

「メアリーに話しかけたように、昔のことでも今のことでもカウンセリングでは話したいと思ったことを話してね。」

 治療が進められることになった。

 嫌な夢を見て起きてしまった時には「今は安全な場所にいる」「私は大丈夫」って声に出して自分に言ってあげて、という指示があって試すと段々と悪夢の回数も減ったし目覚めた時の疲れ方が変わっていった。


 彼氏には精神科や過去の話しをどうしようか迷った。偏見もって嫌われるならそれで構わない。私は症状や人との距離感も前より良くはなったけれど、時々はぼんやりすることがあったから。

 誤魔化したり嘘をついたら、その嘘を隠すために別の新しい嘘をつくことになる。それは彼に失礼だし私にとっても苦しく病も悪化するだろう。嫌われて別れたり精神か通いのことを誰かに言っても私は大丈夫って勇気を出した。

 打ち明けたら、彼は抱きしめて自分に出来ることはないかと言ってくれた。私は「疲れた時や困った時には教えるから助けてね」と言って心から笑顔を見せることが出来たと思う。そして、二人の関係は悪くなるどころか親しくなり、旅行した時に肌を重ねた。

 雲ひとつない青い空が晴れわたったよう。ここにも支えてくれる人がいるんだって。


 月に一、二回、学生時代に通院してた。

 いじめは本当は加害者からの心からの誠実な謝罪が助けになるんだと言われたけど、私の場合はそれは無理だったから先生と話していくことが癒し。

 母親には昔からの気持ちを思い切りぶつけ彼女が反省して関係を修復していくのがいいけれど、母が理解出来ないと危険なことだからやめておこうと判断された。彼女のような人に限って自分がしたことは覚えてないから、わからないだろうから、と。

 先生と話していくことで、ほんの少し母親を憎む気持ちから彼女にも幼い頃からの呪縛があって可哀そうな人なんだと思えた。

 ただ、彼女を許してるかというとそうでもないけれど。



 昔のメアリーの本名は、茉莉ちゃん。大学で友人になって、私のことを救ってくれる子も茉莉ちゃん。珍しい名前ではないけれど、よくある名前でもない。偶々なんだろうか、それとも心理学的に何かあるのだろうか?


 茉莉ちゃんや先生に会えて、それまで閉じていた心の扉を少しずつ開くことが出来た。過去のことは消えないけれど前に進んでいける。

 不利益な思い出は消しゴムでも消すことが出来ないし、パソコンで操作するような削除してごみ箱に入れる作業とは違う。機械じゃなくて心だからそう簡単には出来ない。それでも私は大丈夫だ。寄り添ってくれる人達がいるんだもの。


 花をコップに入れて美しいと思うのも自然なこと。

 夕焼けのオレンジ色が少し暗い蒼色やグレーと融合していくのも空を飛ぶ鳥も、昔は寂しくてせつないと感じてたけれど、侘びのように美しいものだとも感じられる気がした。

 幼子がハイハイから歩き始め、やがて走る。私は風をきって走ることも出来るし、手を伸ばして高い所の青々とした葉っぱを触ろうとジャンプすることも出来るのだ。

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