1997
ちゃぶ台の前に座って、半泣きになりながら鉛筆を走らせる、小さな背中。
緑色のTシャツの動きは必死だ。
重たそうな扇風機。
網戸にされた縁側の建具。
毎日コツコツやんなさいって言ったでしょ?
呆れたように台所から声がかけられる。
その声色は怒っているというより苦笑いの様子。
レモン色のエプロンで手を拭きながら。
こちらに近づいてくる足音は穏やかだ。
表情はそこだけかき消されてるようでよく見えない。
でも僕はこの場所に覚えがあった。
忘れるわけもない、懐かしかった。
音と色彩に霞みがかって、匂いは全然分からないのに。
さすがに、あんたの文字は真似できないからね。
そう言いながら、昭和を感じさせるパーマ頭の女性は、部屋の隅に積んである新聞をめくりはじめた。
日記の天気くらい調べてあげるから。
大丈夫、後3日あるじゃない。
夏休みの宿題は、後3日でどうにかなる量ではない。
あの子がどれくらいやっているのかわからないけど、今頃漢字の書き取りをやっているということは、推して知るべし。
茶の間の向こうの縁は薄暗くなっている。
蝉の代わりに秋の虫たちが密かに鳴き始めている。
あの子はそれに気づいているのだろうか。
そういえば自由研究はどうしたの。
それは終わったよ。
そのやり取りに僕はホッとした。
自由研究は時間がかかるし、模造紙やら、研究の材料やら、準備も多い。
その女性は驚いたように、その子を見た。
すごいじゃない、どんな自由研究にしたの?
ヘールボップ彗星。観察したり色々調べたんだよ。ほら、観測所にも行ったじゃないか。
ちょっと得意げにノートから顔を上げたのを見て、僕はあっと思った。
目が覚めれば、なんてことはない。
自分の部屋だった。
見たのは悪夢でもないのに、心臓の鼓動が速くなっている。
喉のつっかえが取れたかのように、止まっていた息が一気に出てきた。
熱い。
体を起こすと、隣で寝ていた彼女が身じろぎする。
僕は彼女を起こさないようにベッドから抜け出して、キッチンに行った。
小さなシンクはひっそりとしていて、水滴でもポタリと落ちてくれたら良いのに、と思う。
洗い物カゴからグラスを取り出して、蛇口をひねる。
薄明かりの中、ジャーッと音がして左手の重みが増した。
ようやく現実に戻れた気がして、グラスの水を一気にあおった。
鼓動は元に戻っていた。
1997年、夜空に現れた大きな彗星。
当時小学校五年生だった僕は、一学期が始まる前からそれに夢中になった。
田舎だったのが幸いして、自分の家の畑からよく見えたのだ。
天文台が主催する観測会には必ず出かけ、図書館でたくさん本も借りて、一生懸命ノートに写したっけ。
カメラが趣味だった父も喜んで手伝ってくれた。
その年の夏休みの自由研究に、それ以外に選ぶ題材なんて思いつかないくらい。
それまで夏休みの宿題なんて憂鬱でしかなかったのに、その年はお小遣いを貰って自由研究の準備だけは休み前から進めた。
絶対すごいのができる。
なぜだか根拠のない自信があった。
「楽しかった」
思いがけず、ポツリと口から零れる。
それが過去形であることに、少しの違和感が残る。
夏休みが終わって、宿題の中で自由研究だけは褒められた。
学校代表にもなって物凄く嬉しかった、その味だけは鮮明に覚えている。
それがきっかけで僕は天体に興味を持って勉強し始めた。
大学進学時は天文分野に強い物理系。
学芸員の資格も取ったけれど、就職は難関。
そこで弾かれてから、僕は全く違う方向へ進路を変えた。
今では趣味で観察しているくらいで、本気でやってる人たちとは比べ物にならない。
それは分かってる。
でも、楽しかったことは本当なんだ。
僕はウォールポケットに挿した薄黄色のチラシに目をやった。
夏休み、小学生の子どもたちの活動を補助するボランティア募集。
その項目の中に天体観測も混ざっていた。特に星の観察は夜間になるため、人手は多い方が良いようだ。
自治会から回ってきたそれを見た時、無意識に昔のことが頭をよぎったのだろう。
今までこの趣味が人生の中で無駄なのではないかと、何回も疑ったが。
僕はやっぱりこれでいい。
明日、仕事の昼休みの間にボランティアの件で電話しよう。
スマホにチラシの連絡先を登録して、僕はベッドに戻った。
次にヘールボップ彗星が戻ってくるのは4530年頃。
星空もだいぶ変化したそれを、僕たちの随分後に出てくる人たちは同じようにピカピカした気持ちで見られるのだろうか。
そして、同じように夏休みの自由研究に彗星を選ぶんだろうか。
そんな先のことを考えると、自分がやってることの是非を考えるのがバカらしくなって。
明けの明星が白んだ空に美しく居る。
僕は頬が緩むのを感じながら、布団に潜り込んだ。