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落下していく彼女

作者: 木下学

彼女は15階建てにビルの屋上から広がる下界を眺めた。無数に並ぶ不揃いな無機質的コンクリートの塊。それらを彩る多彩な色彩の小さな球体状の光。

その光景をぼんやり眺めながら彼女は涙を流しなら思った。

(私の体を包む煙のような苦しみはちっぽけなものかもしれない。この街には無数の苦しみの凝固体のような人々が生きている。

彼らの苦しみに比べたらちっぽけなものかもしれない。でも私はもう耐えられない。)

彼女は網目状の鉄の壁、フェンスを掴んだ。右手でフェンスの上の方を掴むと左手は下になる。左手でフェンスを掴むと右手は下になる。

そのような動作を4回繰り返しフェンスの頂上にまたがった。そうして、そのような動作と逆の動作をして、フェンスの向こう側の小さな空間。ビルと闇のはざま。

夜空とビルを隔てるコンクリートの上に立った。ここにこのような空間を配置する意味はあるのだろうかと彼女は思ったが神様の慈悲みたいなものだと思うことにした。

彼女は地面を眺めながら思った。屋上から地面まで落下し、体が粉々になる。それはどれくらいの時間だろうと。

時間というものは曖昧で、同じ長さの時間でも、楽しい時はあっという間に過ぎ、苦しい時はずっと長く感じる。

迷う必要はなかった。結論は出ていた。彼女の涙は枯れた。そして夜空へと身を任すようにして落下した。

落下していく中で彼女の脳裏に浮かんだ4つの思い出。


ひとつめ

彼女と彼のいさかい。些細なことから重要なことまで。彼の机は複数のマグカップと複数の空っぽのゼロカロリーのコーラのペットボトルが散乱していた。

コーヒーのシミが底にこびりついたコップ。

役目を終え、意味をなさなくなった透明な存在のペットボトル。

彼女が片付けるよういくら指摘しても彼は片付けようとはしなかった。

彼女は彼と結婚したかった。けれども彼はいつもはぐらかすように逃げる。遂に耐え切れず彼女は結婚してくれないなら別れると言った。そういえば彼は結婚してくれると思った。

彼はなんてこともなそうに、それならもう別れようかと呟いた。

5年間いさかいを続けていた。平行線をたどるだけで折り合うことは無かった。

それでも一緒にいた。彼女は愛で繋がれているのだと信じていた


ふたつめ

高校二年生の時の虐め。彼女は女生徒Aが友達だった。女生徒Aは同じクラスの男子生徒Aに恋をし告白しフラれた。男子生徒Aは彼女に愛の告白をした。

彼女は男子生徒Aが好きだったが女生徒Aの気持ちを考え男子生徒Aの思いを断った。

彼女は女生徒Aが中心となった4人のグループと一緒にいた。男子生徒Aの思いを断った後、3人は冷たくなった。冷たくなったあと、無視されるようになった。

彼女は別のグループに移動した。女生徒Aはクラスの中心人物だったので、別のグループの女生徒は彼女と空間を開けるように接した。次第に彼女から逃げるようになった。

彼女は一人になった。

男子生徒Aもクラスの中心人物だった。男子生徒Aは自分の思いを断った彼女を快く思わなかった。

男子生徒たちは彼女に声をかけなかった。彼女が声をかけると空間を開けるように接した。次第に彼女から逃げるようになった。

彼女は一人になった。

一人で登校し授業を受け一人で昼休みを過ごし授業を受け一人で帰宅した。

5月から3月までの10か月間、一人で過ごした。


みっつめ

小学二年生の演劇発表会。教師が役割分担を箇条書きする。

彼女は人前で大きい声を出すことが苦手だった。朗読の順番が来るたびに苦痛を感じていた。役者は無理だった。

彼女は不器用だった。簡単な手作業でもすぐ失敗する。教えられたとおりに作れない。裏方は無理だった。

児童がわれよわれよと箇条書きされた役割に自分の名前を書く。その中でぽっかり空いた役割があった。

「木」だった。

教師に尋ねると茶色のマントをまとい緑のボンボンを持つだけだと言われた。これなら自分でもできると思った。

繰り返される練習。彼女は木であり続けた。教師が疲れたら体制を変えても良いと言ったがそれを断った。

みんなの足手まといになりたくなかったからだ。

本番。

彼女は木であることを徹した。誰も彼女を見ていない

役者となった児童が懸命にセリフを叫ぶ。舞台を右から左へ動き回る。保護者はワライ声をあげハクシュをした。誰も彼女を見ていない。

からだが悲鳴を上げても彼女は微動だにしなかった。みんなの足手まといになりたくなかった。誰も彼女を見ていない。

セリフを叫び動き回る児童、保護者たちのワライ声とハクシュ。誰も自分を見てないことに気付いた。

その時の彼女の心にわいた煙のようなもの。生か負でいえば負だった。


よっつめ

お爺ちゃんと煙草と絵本。小さな青い箱の煙草。ショートピース。

あぐらをかき煙草を吸うおじいちゃんの上に座るのが好きだった。

煙草の煙が二人を包む。

彼女は煙を手でつかもうとした。つかめない。ふっと息を吹きかけると煙が綺麗に揺れる。

お爺ちゃんは煙草を吸い終わると絵本を読んでくれる。若い頃、舞台役者だったので上手に読んでくれる。

少女なら少女らしく。悪役なら悪役らしく。老人なら老人らしく。

彼女は絵本のストーリーよりもお爺ちゃんの声を聞くことが好きだった。

絵本を読み終えると彼女の頭を優しくなでる。

お爺ちゃんは青い箱から煙草を取り出し火をつける。

煙草の煙が二人を包む

彼女は口癖のように言っていた。大人になったらお爺ちゃんと結婚する。


落下していく。体が闇と溶け込むよう。自由を手に入れたよう。苦しみからの解放。

地面が目前まで迫ると彼女は心の中で叫んだ。


(やっと結婚できる。天国で大好きなお爺ちゃんと結婚できる。)


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