第60話 イチャつくならヨソでやれ
一郎に殴られた可哀想な僕は今、なぜだか知りませんが萌と歩いています。でも今はそんなことを考えているヒマはありません、鼻血が止まらないんです。しかも両鼻です、サイアクです。
「止まった?」
だから止まらないっての!あっティッシュ全部使い果たしちゃったよ。ここは妥協してあげるから萌の柔らかティッシュちょうだい!
おっ無言で差し出してくれた。ありがとう、この恩はいつか知らんけど返したい!
「新しいの買って返せ」
「ひでぇ!」
なぜ俺が萌とこうして歩いているかと言いますと、説明をさせてください。
一郎に本気で殴られカッコ悪くも地べたに座り込んでいる俺は思わず鼻を押さえている。うわ、鼻血出た。両鼻から鼻血が出るなんて初めてのことでうまく息ができない。
「お前、俺が騙されてるって知ってたんだろ?」
「知らねぇよ!俺だって今萌から聞いたんだから」
怒りが収まらない一郎は「黙れ!」と俺の胸ぐらを掴もうと突進してくる。くっそ、なんで一郎とケンカなんてしなきゃいけねぇんだ。
殴られるのがイヤだからといって一郎のことを吹っ飛ばすことなんて考えられず、やられるがまま胸ぐらを掴まれた。
「お前、ふざけんじゃねぇぞ。俺はマジで怒ってんだよ!」
「ちょ、ちょっと野代!太郎は何も知らないんだって!」
「秋月は黙ってろ!」
「…!」
普段、一郎は萌に対してそんな言葉は使わない。いつものコイツならはいぃ!とか言ってさっさと俺から離れてる、けど事が事だ。今の一郎を止める術なんてない。
止めようとした萌を一瞬睨んだ一郎はすぐさま俺に視線を戻した。目が血走りすぎて血管が切れそうになってる。
俺は何も言わずに一郎と数秒間、ジッと睨み合った。
「…くそっ!なんで放せとか言わねぇんだよ!」
放せなんて言えるかよ、お前は何も悪くないんだから。
鼻血を垂れ流したままの俺はふと一郎の隣りにいる円さんと目が合った。見るとその顔はオドオドしている。
彼女は俺にジッと見られていることに耐えられなくなってか、目を泳がせると一郎へ近付く。
「あの、私が勘違いをしたせいでこんなことになって…」
なんとか一郎をなだめようと彼女は少し声を張ってそう言った。けど一郎の耳には届いていない。
でもここでちょっと考えた。こんなしおらしそうな女性が「あなたの恋人は頂いた!」なんてこと言うか?つーか、罪悪感でイッパイになりすぎて自我を失ってるだけか?
なんて聞くに聞けない俺は一郎と円さんを交互に見る。
「い、一郎君?」
「円、円ちゃんは…」
そう言った一郎の胸ぐらを掴む力が徐々に弱まっていくのがわかった。怒りに満ち溢れているけど、これ以上殴れないって顔もしてる。
俺は何て言っていいかわからず、胸ぐらを掴まれたまま萌の方へ視線を移した。けど萌は萌でジッと円さんを睨みつけている。なんでお前が?って言おうとしたその時、一郎が有り得ない一言を叫んでくれた。
「円ちゃんはお前が好きなんだってよぉ!ボケェ!」
「ぐぉっ!」
本日二度目の本気殴りが俺の左頬を捉えた。ってかそれこそ勘違いだよ!円さんは萌に恨みを晴らす(何で恨んでるのか知らないけど)為に嘘ついてるだけ!はっきり言って俺は円さんと話したことすらないから!
「ぐぇ!」
無惨にも地面に倒れた俺は素早く鼻を確認。やっぱり鼻血が止まらない。ちっくしょ、いくら温厚な俺でも2回も本気で殴られたらいい加減怒るぞ。
この坊主野郎!と立ち上がろうとしたとき、萌が必死の形相で俺の腕を掴んできた。ここで一本背負いぃ!とかカンベンして!
「大丈夫?!」
「え?えぇぇぇ?!」
ちょいちょいぃ萌ぇ!あんた俺に触れたら腐るんでしょ?腕を、腕を掴まないで!そして起こしてくれなくていいから!自分で立てるから!
あわわしている俺の腕を引っ張り立たせた萌はそのまま一郎を睨む。円さんの次は一郎か、怒りの矛先が変わったね。
「野代。太郎は何も悪くないって言っただろうが」
「お、お前には関係ねぇんだよ!黙ってろ!」
強気過ぎるよ一郎さん!いくらなんでもそれはヤバイよ、どうなっても俺は知らないからね。
萌は予想通り鼻血を出し続けている俺から離れ、スタスタと一郎に近付いていく。にげ、逃げて一郎さん!俺は助けることができない!
パァン!
心地よい音が一帯に響いた。その音に続いて一郎がよろめく。それは萌の本気のビンタが彼を捉えた証拠でもあった。さっきまで強気の姿勢だった一郎が突然オドオドし始める。お前、頭に血が昇って下がったら正気に戻ったのか?それでこそいつもお前だ。
「あんた、太郎のことが信じられないわけ?!」
そう言った萌の声は後ろ向きだからわからないけど、少し涙声っぽかった。そして驚きのあまり目を見開く一郎の左頬には真っ赤なモミジができている。でも痛がる素振りは見せず、ジッと萌と見つめ合っている…と思われる。
あのモミジ、絶対に痛いよねなんて思っていると萌が突然叫んだ。
「伊藤 円!」
萌の大声に一郎が殴られたスキに逃げようとしていた円さんの動きが止まる。ってか一番の責任者が逃げようとしてるよ。
「は、はい」
恐る恐る振り返った円さんの目には涙がうっすら……いや、溢れ出てる。萌の怒った顔がそんなに恐いのか?俺、見えてないから助かった。きっと俺も見たら泣いてる。
そんなことを考えていると、萌がゆっくりと円さんに近付いていく。やることはきっと決まってる。止めて誰か!
「…!」
パァンと心地よい音が聞こえ、うわっ!と俺は目を閉じた。女の子が殴られるところなんて見たくない。ましてや誰かを殴る萌なんて見たくないと思った。
音が止んで何秒か経った後、微妙に目を開けてみた。うっすらと見えてきたのはビンタを張ったと思える萌の後ろ姿と、目をギュッと閉じている円さん。そして、モミジがより一層ひどくなった一郎。
「の、野代…」
一郎は円さんをかばって本気ビンタを喰らっていた。俺と同じく、女性が殴られるところなんて見たくなかったからか、それともマジで円さんが好きだからかはわからないけど。
「おほぉぉ…いでぇ、マジでいてぇ」
やっと神経がほっぺたに伝わったのか、一郎が涙目で頬を押さえながらうずくまった。女に殴られて涙目って…いや、痛いよね。時間を空けてならともかく、数分の間に萌の怒りのビンタを2回も喰らったんだから。
「い、一郎君…大丈夫?」
本気で心配しているように思える円さんがうずくまった一郎の肩に手を置く。それでもヤツは「いてぇいてぇ」と何度も呟いているだけ。俺は鼻血が止まっていないのも忘れて萌の隣りに並ぶとヤツと円さんを見下ろした。
「一郎…」
「う、うるせっ!お前なんて秋月とさっさとどっか行け!」
「このっ!」
「萌ストップ!…わかったよ、行くよ」
一郎の悪態にもう一度手を上げようとした萌を止めた俺はチラリと彼を見た。もうその瞳には憎しみはない、ただ申し訳ないって顔をしてる。謝りづらいんでしょ、いいよ別に。お前は何も悪くないんだから謝る必要すらないし。でももっと悪くない俺は殴られたけど、一郎に殴られたんだから別にいい。
「ちょっ、行くよ萌!」
このぉ!いくら引っ張っても動かない!どんだけ力を入れてんだお前は!まだ殴り足りないって顔してないで行くよ!
強引に萌の腕を引っ張った俺はそのままズルズルと彼女の腕を掴みながら校門を出た。
萌のティッシュをもらって数分、それもすぐに真っ赤に染まってしまった。こうなりゃヤケクソで指を入れるしかないのか?
もう家まであと少しの距離だったけど仕方ない。辺りには人もいないみたいだし…ヤケじゃあ!と両手の人差し指を鼻に突っ込んだ俺は、ふと気づいたことがある。
なんでこんな当たり前に萌と一緒に帰ってんだ?別々に帰るって言ったのが昨日、そして今日はこうして一緒に帰ってる。一郎に殴られた後、萌の腕を掴んだままで校門を出た。そして何も言わずに今、彼女は俺と並んで(正確には少しずれて)歩いている。好奇心を発揮してちょっと聞いてみるか?
「ぼべぇ」
「は?」
鼻が詰まってうまく話せないんだよ!「萌ぇ」って言ったんだよ?どれだけ聞き取れないような発言しても萌はわかってくれると勝手に信じた俺は、指を鼻に突っ込んだまま前を歩く彼女に向かって聞いてみた。
「ばんべぼべばび、びっびょびばえっべんぼ?」
「何言ってんだかわかんない」
これでもがんばった方なんですけど!くっそぉ、鼻が詰まってうまくしゃべれないぃ。指を外せばいいけど、学生服に血を付けられない。
なんとかうまくしゃべろうと口を開くけど、「ぼべぇ」としか言えない。すると何を思ったか、萌が突然蹴りを入れてきた。萌って言ったのはわかったみたいですね。
「腹が立つからしゃべるな」
「びべぇ!」
もうひでぇしか言えない。いいよこのまま、アホ面のままで一緒に帰ってやるよ!
無言で歩き続けた俺は数分でヒマになった。いつもなら何やかんやと萌に話しかけながら帰路に着いてるけど、今日は鼻血も出てるし。そんなことを考えながらチラリと前を歩く彼女を見た。
髪、伸びたね。切らないのかな、切った方が俺としては…べべべ別に関係ないけどぉ?
ふんだ!と視線を外そうとしたとき、突然萌が振り返った。
「なに?」
「ぶあっ!びっぶぎぎがぁ。ばんばぼ?」
「それはこっちのセリフだバカ太郎!」
「ぶぇ!」
やっぱり何て言ったかわかってんだねあなた!それなのにさっきの態度、ひどいじゃないよ!
鼻に指を入れているから萌の攻撃を避けられなかった俺はみぞおちを殴られた。マジでひでぇよこの仕打ち。
「びべぇ…」
「マジでうるさい…あっ」
俺に憎しみのこもった悪態をついたと思ったら、前を向き直した萌がなぜかうわずった声を出して立ち止まった。なんだ?と彼女の視線の先を見てみると…。
「ノブ君…?」
はいはいノブ君が秋月邸の門の前にいましたとさぁ!ってかこの状況ヤバくないですか?やべぇよ、このまま一緒にいたら萌達のお邪魔虫になっちまう!ここは全力疾走で自分の家に飛び込むのが得策か!?
さよなら萌ぇ!と心の中で呟いた俺はダッシュを試みた。俺の素早い動き、誰にも止めることはできない!
「あっちょっと太郎!待て!」
「ぶぉ!」
やはり捕まってしまったか。
萌の横を目にも留まらぬ速さで駆け抜けようとした俺の服をがっしりと掴んだ彼女はそれを思い切り引っ張った、そして息が詰まった。
引っ張られた衝撃で思わず手を放しちゃったよ!鼻血が溢れ出…あっ止まってる。ってそりゃそうか、いくら本気で殴られたといっても所詮は一郎の攻撃。鼻血も数分で止まるわ。
「ちょっ何すんだよ!」
「なんで逃げる」
「な、何言ってんの?」
動揺してるのがバレバレだね。自分でもわかるほどに目が泳いでるし、口もパクパクさせちゃってるし。サイアクだよ僕、これはもう挙動不審人物確定だね。
「逃げるな」
「だ、だから逃げようとしたわけじゃ…」
「あっ萌!」
萌に引っ張られて尻もちをつきながらも何とかその場をやり過ごそうと必死になっていると、ノブ君が俺達の所へ走り寄って来る。そりゃああんだけ大声出してたら(俺だけだけど)イヤでも気づくって。ってかヤバイとか思わないのか萌は。
「の、ノブ君。ど、どうしたの?」
だからトーンがいつもよりも高いよ萌!恋人なら自分の全てを見せないと!それでもいいよって、どんなに低い声でも俺は気にしないって言ってくれるよノブ君なら。
そんなアホなことを考えていると、ノブ君は地べたに座り込んでいる俺をジッと見つめてきた。そういや俺、萌とは知り合いでもなんでもないって宣言してたんだった。どうしよ、どうやってこの状況を説明しようか…そうだ!
「もう、お止しになってくれませんか知らない人ぉ!私はあなたなんて知りません!殴られても思い出せないのぉ!だから放してぇ!」
俺の作戦って、自分で言うのも何だけど最高だね。これで何で俺が萌に掴まれて、おまけに鼻血まで出しているのか全て説明できた!ってかもう鼻血は止まってたんだった。
「え?な、殴ったって、ほ、ホント?」
有り得ない話を頭から信じてくれたノブ君が俺の首根っこを掴んでいる萌に視線をずらす。ウッシャッシャ、作戦成功だね。
「ち、違うよ!太郎ウソつくな!」
「ワタシは太郎なんて名前じゃないですぅ!……ワタシは直秀ですぅ!」
悪い直秀!お前の名前を借りてしまった!しかも微妙にキモイ奴に成り下がってる。でも本人がいないから別に気にしないでいいよね。
「このっ…!」
「ちょっ萌!」
俺の言葉に心底腹が立った萌が手を振り上げるもノブ君に制止させられた。あっぶね、もう少しで地面とこんにちはをするところだったよ。なんて俺はちょいと顔を上げる。
「お、落ち着いて」
「…おぉ!」
ノブ君は俺がいるというのに恥ずかしがることもなく堂々と萌の手をギュッと握っている。うわ、なんだこれ。なんのドラマだ?カメラはどこにある?俺も写ってんの?
萌はされるがままでノブ君のことをジッと見つめている。…五流ドラマの始まり始まりぃ!見たら損するよ!
「落ち着いた?」
「あっうん…」
落ち着けるわけないじゃんか!萌の顔見てよ、真っ赤になってるでしょうよ。落ち着くどころか心拍数上がってるよそれ。
ノブ君に手を握られたままやっと俺を解放してくれた萌は真っ赤な顔でチラリと見てきた。(何見てんだよ。消えろ)って目だよねそれ。お前が俺を掴まえるからこんなことになったんだよ!こうなったらキモイ奴になりきってやるわ!
「いたたぁ。あなたって乱暴な子なのねぇ」
俺は立ち上がると同時にそう小さく呟いてみた。でも萌は手を握られているから俺をチラ睨みするだけにとどまっている。オホホ、真っ赤な顔で睨まれても何も怖くありませんことよ!ノブ君の前では言いたい放題ですな。
「あれ、キミあの時の?」
「え?」
気持ちの悪い仕草でお尻のホコリをほろっている俺の顔をノブ君はマジマジと見てきた。おわっ。あなたって人の顔を覚えるの得意な方なんですね?ってやべぇ、ここで肯定なんて出来やしねぇ。知らぬ存ぜぬを通せ!
「えぇ?どちら様でしたか?すいませんが、急いでいるのでワタシはこれで…」
俺は不気味に「ウォホホ」と笑って誤魔化すと一条家に向かって歩こうとした。で、止まってみた。
萌の隣りに住んでるなんてバレたらそれこそマズくないか?ここは一度素通りした方が賢明なのか?
なんて家の前でう〜んと唸っていると、背後からもうそれはカップルになる寸前の2人の会話でしょ?というやり取りが聞こえてくる。
「あのっノブ君。手、放してくれない?」
「え?あっ、ゴメンつい…」
俺が家に入れなくて困ってるってのにコイツら、売れないドラマの仕上げに取りかかりやがった。そんでもって俺は通行人Aか?いい加減に腹立ってきたな。
できるだけ萌とノブ君を見ないように俺は一条家とは別の方向に歩き出す。できるなら早く家に帰って血のついた手を洗いたいんだけど。この際だ、仕方ない。近くの公園にでも行って洗うとしますか。俺に感謝しろよ萌ぇ。
「あっちょっと太郎!ノブ君ごめん!」
「え?あっ萌…」
俺が公園を目指して歩き出したのを見た萌がそう叫ぶとなぜか怒濤の勢いでこっちに向かってくる。うわっ!にげ、逃げて!
「待て太郎!」
「だからワタシは直秀ぇ!」
「バカ太郎!」
「直秀ぇ!」
それから俺は全力で公園まで走らされた。しかも途中、チャリンコに乗った警察官のお兄さんに「ご苦労様」と挨拶された。でも走っていた俺はそれどころじゃなく、「ごくろっ」で挨拶を終了した。
ってか追いかけられてる人に向かって「ご苦労様」はないでしょうよ!