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水蛭子の恋患い

水蛭子(ひるこ)の恋患い 【急性骨髄性白血病】

作者: 紅羊

08月10日【急性骨髄性白血病】


01

 久しぶりの帰郷だった。未だオレオレ詐欺と呼称してしまう振り込め詐欺に危うく引っ掛かりそうになった母親の苦言を受け、大学に進学してから二年振りに帰ってきた町。元より陸の孤島などと和樹が自ら卑下する事もある千葉県の田舎は、個人商店が潰れ、似たような品揃えしかない没個性的な大型の商業施設やチェーン店が目立つような街並みへと何時の間にか変わっていた。

 便利にこそなったものの、適当な足を持たない老人には些か不自由な地方都市になった故郷は、しかしながら相変わらず交通の便は大きく改善されていなかった。夕方には帰宅出来る予定を立てていた和樹は、特急を乗り過ごした所為で三時間も遅れる形で帰宅する事となった。

 「遅くなるなら連絡を入れなさい」とお帰りの挨拶よりも先に皮肉で以って迎えてくれた母と父の監視の下、冷めた夕食に手を付けると、大して美味くもなく、不味くもない、ただ懐かしいばかりの味が和樹の舌の上に広がった。

 食事中の話題は大学での生活が六割を占めたが、残りは振り込め詐欺の未遂についてだった。

 「アンタは困っても電話しないからね」

 母は和樹が大学に進学した当初の事を思い出した。諸々の手続きや不慣れな生活、アルバイトも決まらず資金が尽きた事があった。その時は不要な、若しかしたら必要だったかも知れない家財や私物を売る事で一時的に日銭を確保したのだ。

 「プレミアの付いていたゲームとか本があってさ。あれはちゃんとした所で売れば良かったと思うよ。今じゃ五倍くらいの値段になっててさ」

 今では入手さえも不可能な代物もある。絶版や発禁、初回限定が好きなのは日本人の特徴であり、和樹も例に漏れず同じだった。

 「知ってる?」

 一通り身近な話題の尽きたテーブルには、同じように空っぽとなった皿が並んでいた。母はシンクへと食器を片付けながら、ふと思い出したように新たな話題を切り出した。

 「いや、知らないけど、何が?」

 「ほら、覚えてる?江端さん所の夏美ちゃん」

 名前に聞き覚えはあったものの、和樹の脳裏では誰の顔も思い浮かんでは来なかった。

 「誰だっけ?」

 「何よ、小中って一緒だったでしょ」

 続けた母は、当時から既に把握していなかった地元の地区の名前や小中学校のイベントを断片的に示すと、最後にもう一度「覚えてないの?」と確認した。

 「あぁ」と呟いたものの、和樹が思い出せたのは、あまり可愛い子じゃなかったな、髪が長い奴だった、くらいの仕様もない情報だけだった。

 「あの子、入院したのよ」

 「へぇ~」

 「白血病ですって」

 「ふ~ん」

 「何よ、クラスメイトだったでしょうに」

 「え、クラスメイトだっけ?」

 滅多な事では昔も思い出さず、人相を覚える事も苦手な和樹は、また同時に他人に対してあまり感傷的になれる人種でもなかった。勿論、人並みに同情を抱く事はあるが、元より興味のない昔の知人の事は、所詮、他人事である。とは言え誰かの不幸を話のネタにするのも好きではない和樹は、気のない返事をしながら「大変なの?」と社交辞令程度の質問で聞き返した。

 「今年に入って発病だって。今は手術を待ってるんだって」

 「薬理?」

 「やくり?」

 母は和樹の質問の意図が分からず、聞き返した。

 「薬での治療らしい」

 黙っていた父がぼそりと呟いた。

 「化学療法か…大変だ」

 漫然と返した和樹が話題を切り上げようとすると、息子との会話を楽しみたいのか、母はまだ会話を続けようとする。

 「それで同級生の友達がボランティアでビラとか配ってるのよ」

 「あぁ」

 和樹は頷いた。

 「骨髄移植とかの」

 「そうよ、それ。同級生だった宇山君とか藤波君とか、あと戸倉さんとかが駅前とかでビラを配ってるのよ。あんたも暇なら手伝いに行ったら?」

 「まぁ、暇だったら」

 お茶を啜った和樹はやんわりと母の進言を断った。



02

 危急的に帰って来た訳ではなかったものの、何も予定のなかった和樹は二日目を殆ど寝て過ごしてしまった。三日目、ふと手持ち無沙汰から雑誌か文庫本でも買いに行こうかと思い立ち、父親の車を拝借した和樹に、母はボランティアでビラを配っている昔馴染みに会ったら挨拶くらいしなさいよと苦言した。

 十五分ほど車を走らせた。何時の間にか敷地面積を倍以上に広げていた複合商業施設へ到着した和樹は、ぶらりと本屋に寄ると暫く立ち読みで時間を過ごしてから、適当に文庫本を見繕い、レジで清算を済ました。

 時刻は未だ十四時を過ぎてから間もなかった。甘いものを夜食かおやつにでも買おうと食品売り場へと向かう。母の話もあった為、出来れば知り合いには会いたくないなと思いつつ、和樹はショーケースに並ぶケーキを選んでいった。

 「あれ、かず君?」

 ケーキを注文しようと店員の背中に声を掛けた和樹の視界へ女性の顔が不意に割って入った。思わず首を仰け反らせ、小さく驚いた身体が半歩ほど警戒心を距離に代えた和樹は女性の顔を覗き返した。

 ぼやけた対物に焦点を絞るように眉間へ皺を寄せ、険しくも見える表情を衝き返した和樹は目の前の女性が誰だったかと思い出そうとする。

 「覚えてないの?戸倉、戸倉彩香!」

 かつてのクラスメイトの顔を覚えていないとは心外だと言いたげな顔で、そう名乗った戸倉を暫し眺めた和樹は、然も思い出したように呟くと「久しぶりですね」と他人行儀に挨拶した。

 「久しぶり。大学に行ったんだっけ?あんま見た目も変わってないね」

 「そりゃどーも」

 繁々と品定めするような視線を向けながら和樹の周りを回った彩香は言った。

 「あ、知ってる?」

 如何にも他意のある前置きで尋ねた彩香。和樹も自ずと質問の内容に察しが付いたものの、敢えて惚けて見せた。

 「何が?」

 「えばっちゃんが白血病で入院してるの」

 「へー」

 「でね、私達、ボランティアで骨髄移植をお願いするビラ配りをやってるの」

 「ふーん」

 「明日、ここでイベントがあって。あ、ビラのとは関係ないんだけど、それに便乗して配らせてもらう事になってるの。人が集まるからさ。で、今日はその挨拶を改めてしに着たんだけど―――ほら、ここ最近は物騒でしょ?」

 そう言った彩香はやや遠くを見るように和樹の肩越しに視線を送ると徐に手を上げた。

 「おーい、こっちこっち!」

 小走りで二人の男性が近付いて来た。二人は懐かしいなと口を揃えると、名前を思い出せないでいるらしい和樹に気付いてか、初対面のように改めて自己紹介した。

 藤波賢治と宇山太一。名前を聞いた和樹は二人が小学校の時によく遊んだ友達だった事を思い出した。よく見れば確かに昔の面影がある。彩香を含め、中学時代まで一緒だったにも関わらず、四年ほど会わないだけで三人は随分と印象を変えていた。

 彩香は丸顔で小柄だった為、幼い印象があったように記憶していたが、可愛さを残したまま綺麗に成長していた。残念な事に和樹が好むような豊満な肉付きではなかったものの、きっともてるのではないだろうかと思わせる。

 賢治は随分と老け込んだように見える。彫りが深い端正な顔立ちの影が濃い所為か、頬がやつれているようだった。和樹よりは頭ひとつ分くらい大きく、全体的に痩せている。

 対して太一は太っていた。中学校の時分の頃も多少だが膨よかだった印象だったが、今は明らかに肥満である。だらしなくないまでも出っ張った腹部や丸い顔にやや濃い髭面はと同級生である一行と比べても上に見えた。

 「夏休みだから帰って来たの?」と訊いてくる彩香らに、和樹は冗談半分に多少の誇張を混ぜながら、帰って来た理由を説明した。

 「大丈夫だったのかよ?」

 「みたいよ。基本、俺は連絡しないから、逆に不信に思ったらしい」

 他愛ない会話も途切れ、頃合かと思い席を離れようとした和樹に彩香が提案した。

 「ねぇ、暇なら明日のボランティアを手伝って…――そんな露骨にいやそうな顔をしなくても」

 言い掛けた彩香は、眉根を寄せる和樹に苦言した。

 「いや、そんな事はない」

 口先で否定した和樹だったが、手伝いを了承する事は明言しなかった。

 「じゃぁ、手伝ってよ。それに夏美も昔のクラスメイトに会いたいだろうから、これから行かない?」

 「マジで?」

 「暇なんでしょ。明日のビラ配りでの話も改めてしたいし。この後、会う約束もしてるからさ」

 強引なセールスか勧誘のように和樹の腕を取った彩香は残る二人に、代わって店長やマネージャーに挨拶して置いてとまるで言い放つと、了解の有無も確認せずに歩き出した。

 「ちょ、ちょい…いいのかよ。何か二人ともキョトンとしてるぞ」

 振り返った和樹に向かい肩を窄めて見せた太一は、隣の賢治の背中を軽く叩くと、店内の奥へと踵を返した。

 「好いのよ。二人も気まずいだろうし」

 「気まずい?」

 「う~ん、まぁ、藤波とえばっちゃんって付き合ってたのよ、最近まで」

 「…お、おぅ」

 何れも暫くと疎遠だった為、意外だなとは思わなかったものの、今まで聞いた話の中でも一番に返答に窮する話題だった。

 「でね、今は別れちゃって気まずいんだって」

 「お、おう―――まぁ、そうなんか」

 「でぇ?」

 意味深に和樹を見上げた彩香が訊いた。

 「かず君は彼女がいるのかな?」

 「何でそんな事を訊くんだよ?」

 「お、その返しだといないな?」

 目敏く確認の言葉を重ねてきた彩香に和樹は「だから?」と聞き返した。

 「だから、何だよ。学生ですよ、学生。勉学に勤しんでるんだよ」

 「ちょ、ただの世間話じゃん。ここは私にも訊く所でしょうに」

 「じゃぁ、お前はいるのかよ?」

 「絶賛、フリーです!」

 何がそんなに楽しいのか、彩香は嬉々とした様子で言った。



03

 江端夏美の入院する病院へは車で更に二十分ほどを要した。受付で手続きを済ませ、勝手知ったる様子で階段を上がる彩香の後に続いた和樹も夏美の病室を目指した。

 当然と言えば当然だが、入院患者ばかりの病室が並ぶ一画は随分と静かだった。定期的な検診の為か、看護婦が何人か歩いている。独特な臭いと空気感の漂う廊下を進み、程なくして四階の病室に二人は到着した。

 「お元気ですか?」

 扉の横を軽くノックしながら彩香は、病人対して不適切と思われる挨拶を夏美に掛けると、向こうの返事も待たずに入室した。

 「戸倉ちゃん…隣の――人、は?」

 「織部和樹君。むかーしクラスメイトだったでしょ。確か…中学の1・2年?」

 尋ねるように振り返った彩香に和樹は「多分」と曖昧に返事する。

 「あ…覚えてるよ」

 病室に入ると、やや逆光を背負っていた夏目の佇まいがはっきり見えてきた。夏だと言うのにニット帽を深く被っている。薬での治療中と言う事だ。若しかしたら副作用で頭髪が抜けているのかも知れなかった。或いはストレスだろうか。遮光性の低いカーテンから射し込み、白い壁や床に跳ね返った光を映す夏美の肌は白く見えた。

 「色々としてたよね」

 そう言った夏美は、決して忘れていた訳ではなかったものの、若気の至りと言う他ない思い出を語り始めた。恥ずかしいと言うよりもバツの悪さが先に立つ和樹の行いを改めるように話した夏美は、まるで咳き込むように小さく微笑んだ。

 気付けば聞いてばかりの和樹は昔話にくすぐったさを感じ始めていた。耳にこそばゆく、下腹部が何故か心許なくなる不思議な心持の中、一区切り付いた思い出話の間を突いて彩香が言った。

 「でね、明日のビラ配りを手伝って貰おうと思ってるんだ」

 「手伝ってくれるの?」

 未だ返答していない筈だった筈なのに、何時の間にか手伝う事になっていた和樹は不服そうな表情を彩香にだけ向けると、やや戸惑いつつも「暇だしね」と言って苦笑した。

 「ありがとう。折角、帰って来たのに」

 「困ったときはお互い様だし」

 申し訳なさそうに礼を述べた夏美の恭しい態度に和樹も恐縮する。

 「じゃぁ、明日はお願いね」

 当人を目の前に断れないであろうと見越した上だったのだろうか、和樹の言質を取れた事に何処か満足げな彩香は何の衒いもなくお願いした。

 「あ、メール」

 一昔前の流行歌をアレンジした着信音が彩香の胸元から鳴り響いた。病院に似つかわしいとは言えそうもない随分とピッチが早いメロディである。取り出したスマートフォンの画面を確認すると、彩香は「めんどくさいなー」と呟いた。

 「ちょっと電話してくる」

 席を立った彩香は入ってきたときと同じように言った相手の返事を聞かずに病室を後にした。

 すると夏美から大きな溜息が溢れ出した。それこそ堰を切ったように、肺に溜まった全てを吐き出した。息苦しささえも感じられる無理な深呼吸に和樹は思わず気を揉んだ。

 「だ、大丈夫か?」

 「え、大丈夫…だよ?」

 気まずさを誤魔化すような咳で一息吐いた夏美は事も無げに、然も和樹のリアクションが大き過ぎると言いたげに首を傾げた。

 「そりゃぁ副作用で全身が炎症を起こしてるみたいなピリピリはあるけど、今日は割りと調子が良い方だよ」

 クスっと小さく笑った夏美が言った。

 「そんなにびっくりされるのもちょっと恐縮しちゃうな」

 「だって俺には分かんないからさ。訊くしかないだろ。そっちが感じてる痛みも不安も分かんねーからよ」

 特に何もなかった事にホッと胸を撫で下ろした和樹は、何時の間にか上げてた腰を椅子へと落とすと、居住まいを正した。

 「言ってくれないと、分かんないよね。確かに」

 ぎこちなく頷いた夏美は改めてビラ配りの件について頭を下げた。

 「ごめんね。明日のビラ配り。見る限りだと無理矢理って感じだったけど」

 「まぁ、――本人を目の前にしてあれだけど、了承はしてなかったかな。いや、嫌って訳でもないんだけどさ」

 「正直だな」

 苦笑した夏美に和樹は弁解の言葉を挙げる。

 「ホントに構わないって。大した事なんて何も出来ないんだから」

 「そんな。協力して貰えるだけでも嬉しいよ」

 見るからに空元気な笑顔で応じた夏美は何か言いたそうに、薄っすらと唇を開いたまま、先ほどと同じような長い溜息を吐いた。

 「でも、ビラ配りって誰がやろうって言い出したんだ?」

 「賢治君」

 「へぇ」

 そう言ってまるで聞き流すように頷いた和樹だったが、内心は地雷を踏んだような心持だった。

 「おっまたせ~!」

 タイミング良く彩香が病室に戻って来た。やはり病院には似つかわしくない明るさに今度は助かった和樹は、「何だった?」と電話の用件を訊いた。

 「明日の事」

 電話の相手が藤波賢治と宇山太一の二人からから明日の詳細を確認したいだけだったと彩香は告げた。

 その後、再確認の序に明日のタイムスケジュールを伝えた彩香は「じゃぁ、また来るから」と夏美に挨拶すると、和樹を連れ立ちさっさと病室を後にした。

 和樹は帰り際、病院のホールに並べてあるパンフレットから骨髄バンクの冊子を無意識に手に取り、持って帰った。



04

 迎えた翌日、和樹は重い足取りで彩香達と再会した複合商業施設に向かった。ボランティア活動のひとつも経験のない和樹にとっては些か場違いな所へ赴くような心持だった。決して嫌ではないものの、自分が当事者となると偽善臭くなるような気がするのは、相変わらず性根の悪い性格から来るものだろうか。或いはただの言い訳を探しているのか定かではなかった。

 携帯電話で連絡を取りつつ、広い商業施設の一画で先ずは彩香と合流した。既に用意は出来ており、イベントが終わるのと同時に配布を始めるのだと改めて説明する。施設側が企画していたイベントは地元中学校の吹奏楽部による演奏と、ローカルヒーローのショーと握手会などだった。

 午前の十一時から始まったイベントは十四時に第一部が終わり、休憩となった。如何にもヒーロー然としたデザインのプロテクターを被る全身タイツのローカルヒーローの握手会や撮影会に子供達が群がっている。

 「さ、やるわよ」

 賢治と太一の他、同じように活動を手伝ってくれる知り合いが四人ほど増えていた。同い年くらいが三人、ひとりは明らかに年上である。年長者は夏美の父親だった為、和樹は先に挨拶したが、その間にビラ配りは始まった。

 「ご協力、登録をお願いしますッ!骨髄バンクへのご登録をお願いしますッ!」

 賢治が真っ先に大声を上げた。続いて仲間達が「お願いします」と叫びながらビラを配布していった。周りで片付けの作業を進める吹奏楽部員やローカルヒーロー、騒ぎ回る子供達は不釣合いな風景の中、淡々とビラは配られていった。

 興味を持ち、率先してビラを貰う者もいれば、侮蔑するように視線だけを呉れる者、まるで興味を持たない者まで様々だった。少しずつだがビラは捌けていた。興味の有無は別として当事者の家族が参加している事や、閉じたように狭い田舎での話題である。良くも悪くも同情しているようだった。

 お願いします。お願いします。移植が出来ずに困っている人がいます。骨髄バンクに登録をお願いします。貴方の小さな勇気が死の淵にある人を救うのです。お願いします、お願いします。

 と繰り返すばかりの演説に和樹は何となく腹が立ってきた。定型句を台詞のように繰り返す仲間達は本当に心の底から夏美をはじめとする白血病患者の為になると思っているのだろうか。きっと、本心から相手を想っているであろう事は和樹にも分かった。

 だが、使い古されたような台詞を演説に使い、本心をまるで伝え切れない上っ面の言葉が何処まで効果的だと思っているのかは疑わしかった。まるで諂い、相手の善意に頼るばかりの謙った演説―――正しい事をしている筈なのにどうしてただ助けてと声高に言うしかないのだろうか、と和樹の胸中が言い得ぬ苛立ちに燻り始めた。

 きっと見知らぬ他人ならボランティア活動に従事する人には少なからずの敬意を払いつつも、他人事と達観していただろう。例えば募金をお願いする人に対して抱いたように、まず、自分達が身を切っているのかといぶかしむように、無量の善意を疑っていたに違いなかった。

 「おいッ!好い加減にしろって!」

 気付けば和樹はビラ配りの先頭に立っていた。他の仲間達と違い、何を叫び、何を訴え、何を言いたかったのかも分からないまま、賢治に止められるまで適当な事をどうやら言い続けていたらしい和樹に人々の注目が集まっていた。

 「もっと他に言い方があるだろ?!」

 一枚も減った様子のないビラを握り締めた和樹に向けられる視線は白いものだった。冷めており、また鋭くもあるねっとりとした嫌悪感や侮蔑の混じった視線に和樹は漸く自分のした事の馬鹿さか加減に気付かれる。

 「悪い」

 と、小さく呟いた和樹は押し付けるように残ったビラを賢治へと返すと、その場から逃げ出した。人垣を押し分け、駆け出した。周囲の野次馬とは違う夏美の父親の視線が痛かった。



 彩香からのメッセージには夏美が会いたいと書き綴るだけのシンプルな内容が付されていた。ビラ配りの手伝いは、足手まとい所か迷惑を掛けるだけとなった為、早々に謝罪すべきだとも思っていた和樹にとっては気まずい中で届けられた、渡りに船の伝言だった。

 翌日、病院の面会が許された時間を迎えると直ぐに夏美の病室へ向かった和樹は、開口一番に謝罪の言葉を挙げると共に頭を下げた。申し訳ない、迷惑を掛けたかも知れないと、相手の顔も見ずに一方的にまくし立てる和樹に夏見は言った。

 「そんなに謝らなくても大丈夫だよ。無理に付き合せちゃった手前、こっちも悪いしさ」

 「でも、白い目で見られたよ。来てた人に。お前のお父さんも」

 逃げるように帰った後、どのような事態になったのかを尋ねる事に和樹は若干の抵抗があった。残った仲間達が関係者に頭を下げたかも知れない事が容易に想像出来たからである。

 しかしながら一方で和樹は何を叫んだのか、うろ覚えだった。月並みだが、頭に血が上っていたらしい状況で感情をただ訴えるだけに止まらず、理路整然と胸の中の蟠りを言えていたのか、それは甚だ疑問だった。

 「言い訳みたいにも聞こえるかも知れないけどさ」

 そう言った時点で自らも言い訳がましいと感じてる事の証明であったものの、和樹は正直に何も覚えていないのだと告白した。

 「あの時、頭に血が上ってたのか、出任せに適当な事を言っちゃっただけで本心じゃないんだよ。と言うか、何に文句を言ってたのかよく覚えてないんだよ」

 「本心じゃないの?」

 言質を改める訳でもなく、事実の是非を見定めるように、だが、本心でなかった事に何処か落胆するように聞き返した夏美は、くすりと微笑んだのか、小さく咳き込んだのか、少しだけ肩を震わせると思わせぶりに伝え聞いた事を代弁した。

 「こう言ったって話」

 恐らく彩香から聞いた話を要約しているのだろうと思われる内容は聞くに堪えないものだった。まるで思い通りにならない現実へ駄々をこねる子供のようだっで、和樹はバツの悪さよりも気恥ずかしさが気持ちの中で先立った。

 何故か真剣な面持ちで淡々と伝える夏美も含め、事情を報告した彩香自身も和樹の訴えに多少のアレンジを加えているだろうと思われた。それは脚色と呼べるものではないにしろ、本人である和樹がそんな気持ちよく主張していたと云う実感がないのである。ただ当時、自分の中で燻っていた苛立ちと内容を同じくしている以上、二人が話す事実に大きな間違いはなさそうである。

 「申し訳ない。お恥ずかしい限りですよ」

 一通り語り終えた夏美の言葉後に重ねるように和樹は再び謝罪した。

 「色んな所に迷惑を掛けたかも。またビラ配りとかするときに遺恨を残さないといいんだけど…。でさ、お前のお父さん―――怒ってた?」

 気まずそうに歪めた表情を上げた和樹が訊いた。

 「ううん」

 夏美は首を横に振った。

 「それは…良かった――って俺が言うのもおかしな話だけど」

 「違うよ」

 「違う?」

 「嬉しかったって」

 「嬉しい?」

 和樹には意味が分からなかった。

 「みんなね。善意でああいう事をしてくれてるんだから、こっちとしてはありがたいし、嬉しいんだけど、基本さ、変な事は言わないでしょ。勿論、場所を提供している人とか、周りの人とかに迷惑を掛けられない所為もあるけどさ。あんな杓子定規な事しか言えないから―――本心じゃどう思ってるか、分からないって…ちょっと前に話してた事があるんだ」

 そう、と静かに返事した和樹は意味を理解したく質問を掛けようかと思い立つも、夏美の告白にただ耳を傾けるだけに集中した。

 「だから、この人は本当に心配してくれてるんだろうって思えたって」

 「とは言っても、自分で偽善とか、何も出来ないとか言っちゃってたんでしょ?」

 和樹はボランティアは偽善だと言っていた。他人の善意を頼るばかりの勝手な要求に過ぎないと。勿論、正しくないと否定する訳ではないものの、やはり自身が身を切っていない以上、否、切る事が出来ない、自分ではどうしようもない事だとしても、何処か偽善ではないかと感じずにはいられなかった。

 「嘘を建前で隠されるよりは全然マシ」

 言った夏美は「愚痴…なんだけどね」と、やや口調を改めると和樹にとってはあまり聞きたくないプライベートな事についても何故か言及し始めた。

 「別れた賢治君。私の病気が発覚した事が理由で別れたんだだけど、その話を切り出したのは私なんだ。だって治せる病気ではあるけど、確実に治る訳でもないしさ。だから、迷惑を掛けるだろうから別れようって」

 でもね、夏美は少しだけ涙に濡れたらしい瞳を拭うと言った。

 「浮気してた。病気とかそんなの関係なくてさ。別れたかったんだって…後から聞いた」

 「―――あ、そう…」

 だからと言って夏美に掛けるべき言葉も思い浮かばない和樹はただ頷くしかなかった。

 「こう云うのってさ、付き合ってるんだから一緒に頑張ろうとか言って励ましてくれるんじゃないかなぁって―――少し、期待していた。だって付き合ってる時はすっごく優しかったんだもん」

 「そんなもんだよ」

 突き放すように言ってしまったものの、和樹の表情はひどく同情するような憂いを湛えていた。

 「分かるけどね。男ってみんなそーなんだろうって。でもさ、浮気はないよ」

 既に大部分は割り切っているのか、夏見は悲しそうな目元ながら笑っていた。

 「そりゃぁね、浮気はないわ」

 同情か、同調か。何れにせよ明らかに非がある浮気は悪い事だと断言した和樹は、「じゃぁ、何でビラ配りなんて提案したのかね」と素直に疑問を口にする。

 「さぁ―――バツが悪かったんじゃないかな」

 「身も蓋もない」

 苦笑した和樹はあまり得意ではない色恋沙汰の話題もこれ以上は捌けそうになかった。

 「でさ、病気は大丈夫?治りそう?」

 「分かんない。でも、ありがとう」

 「ありがとう?」

 「心配してくれて」

 「治るんでしょ。そんなに心配してないよ」

 「それもあるけどね。昨日の事も」

 「何もしてないよ。いや、何も出来なかったでしょ?」

 皮肉を返し、自嘲した和樹に夏美はもう一度「ありがとう」と告げた。



05 エピローグ

 一週間ほどの帰郷に区切りを付けた和樹は駅の構内で電車の到着を待っていた。午後の早い時間に戻るには十時の特急に先ず乗らなければならなかった。後、十分。残り時間はアプリのゲームで暇を潰そうかと思った矢先、和樹のスマートフォンが鳴った。

 「はい、もしもし」

 「あ、かず君?彩香だけど、今、どこにいるの?」

 「駅、今日、帰るんだけど」

 「帰るの?何も言わずに?」

 「いや、別にいーでしょ」

 電話越しにも甲高い彩香の声が響き渡った。

 「一昨日、えばっちゃんに会ったんでしょ?」

 「会ったよ。謝ったよ」

 「それだけ?」

 「それだけ」

 賢治と別れるまでの経緯なども多少聞いていた事を和樹は黙っておいた。

 「違うよ。告白されなかった?」

 「あぁ~~――――うん、まぁ」

 当てずっぽうか、事情に精通しているのか何もかも知っている様子で彩香が訊いてきた。

 「返事は?」

 「返事?」

 「そう、返事。告白されたんでしょ?」

 何だろうか。質問が噛み合っていないような気がした。

 「何か勘違いしてるのか?」

 「勘違い?してない、してない!だって、私がかず君を夏美の所に連れてったのもそれを知ってたからだし」

 やはり彩香は違う事を尋ねているようだった。

 「何を言ってるのか、訊いていいか?」

 「そっちこそ何を聞いてたの?」

 勝手に夏美の事情を話す事は憚られたものの、和樹は賢治との別れるまでの経緯を聞かされたのだと彩香に告げた。

 「そう―――れだけ?」

 「それだけ。だから、お前が何を言ってるのか、分からん」

 「そっか。そうだよね」

 急に冷めた様子でひとり納得した彩香は言った。

 「何だよ、結局、何だったんだよ?」

 もう直ぐ電車が到着しそうだった。構内に聞こえるアナウンスが少しだけ耳に遠く響いている。

 「えばっちゃんのさ、中学の時の初恋の相手って―――かず君だから」

 線路を揺さぶる電車の重々しい轟音が伝わってきた。遠目に近付いて来る電車の姿も視界の横に写り、ゆっくりと構内に長い車体を滑らせてきたかと思えば、大きな質量の所為で吹き込んできた突風が和樹の前を過ぎていった。

 「あ―――そう」

 「リアクションが薄いね」

 「昔の事だろ?」

 圧力を逃がすような、溜息にも聞こえる音と共に電車の扉が開いた。

 「まぁね。でも、今はフリーだし、病気だし…昔の淡い恋でも気持ちが盛り上がるんじゃないかなって」

 「漫画やドラマじゃあるまいし、そんなもんだろ。と云うか反応に困る」

 「でもね、別に盛り上がる事だけをいたずらに期待してた訳じゃないの。ただ少しでも気持ちが晴れればなと。元気にならないかと」

 「お節介だな、お前」

 何か言い訳しようとする彩香の言葉後に重ね、和樹はぴしゃりと言い放った。

 「でもでも夏美の事が心配でしょ?」

 「何だそりゃ。同情した上で付き合えって言ってるようにしか聞こえんよ」

 和樹は言いながら電車の中へ入った。

 「そーいう言い方もないんじゃない?あれ、若しかして実はそんな皮肉も本心の裏返しだったりして」

 「ねーよ」

 「じゃぁ、逆に私が好きだったりして」

 「逆でもねーよ」

 電車の発車するアナウンスが鳴った。

 「電車が出るから切るよ。後はメールか何かで」

 ちょっと、と叫ぶような声が聞こえたものの、和樹は何の躊躇もなく通話を切ると座席に腰掛けた。

 電車が走り出してから次の駅へ到着する前に彩香からのメールが届けられた。見ると、ほんの二・三分の間しか開けていなかったにも関わらずびっしりと長い文面が綴られている。

 しかしながら内容は殆どなく、先の電話の繰り返しているだけだった。最後に夏美の個人的なアドレスの他、闘病日記と称されたブログとツイッターのリンクも張られていた。

 「闘病日記か」

 ブログのアドレスをクリックしようとして止めた和樹は、代わりにメールの方のリンクからアプリを立ち上げた。

 宛て先は江端夏美。件名は織部和樹と書き、一目で分かるようにしておいた。本文には何を書こうかと悩みつつ、取り敢えず、繰り返しになってしまうものの、先日の件を再び簡単に謝罪し、帰る事、彩香からアドレスを教えてもらった事を最初に明記した。

 次いで他愛ない話題でお茶を濁し、無味な挨拶で締め括るような普段と同じ素っ気無いメールを書こうとした和樹は上手く指が動かせなかった。脳裏には先ほど知ってしまった夏美の初恋の事がモヤモヤと燻っている。

 「はぁ~…何か気まずいな」

 メールの操作が続けられず数十秒も経過したスマートフォンの画面は勝手にブラックアウトしていた。

 和樹は悩んだ。勿論、正解は知らない顔でメールを書くべきだと和樹も十分に分かっているつもりだった。夏美が何の素振りを見せなかったのも所詮は昔の事に過ぎないからである。

 とは言え、何も知らなかった先ほどと同じ気持ちではいられそうになかった。素直に書けばいいだけの文面も中々に思い浮かばず、和樹は暫く思い悩んだ末、書き掛けたメールを放棄し、夏美にはメールを送らない事にした。

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