民の一 帰省(1)
今回は、民の側の視点です。
虫達の澄んだ鳴き声が、草むらの中で響いている。
城から離れた山間の集落、そこにある納屋の中で、旅人達は干草に寝転がっていた。
黒髪黒目の少年シャンと、赤髪黒目の少女マイニー。
姉弟のように育ったこの二人は、故郷へと帰る途中だった。
ふっくらと乾いた干草の香りは甘く、優しく、歩き疲れた体を癒してくれる。
そこに労働に慣れた手足を伸ばし、二人はめいめいにくつろいでいた。
「シャン、本当に良かったの?」
そばかすだらけの顔をシャンに向け、勝気な声でマイニーが問う。
「いいよ。そりゃあ、ぜいたくはしたいけどさ。命捨ててまでやるもんじゃないだろ」
寝そべるマイニーを横目で見て、のんびりとした口調でシャンが応じた。
元は二人ともレブリックと言う貴族の下で働いていた。だが、発表された「新しい法」を知った時、シャンが今までの働き場所だった荘園を離れたのだ。
そしてなぜか、幼馴染のマイニーも一緒に付いて来た。
五年前、シャンが荘園に行くと言って村を出た時、彼について来たのと同じように。
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帰省を決意した夜の事。
「……おいら、故郷に戻ろうと思う」
乾いた薪を紐でくくりながら、シャンはマイニーにそう打ち明けた。
もう、起きているのはシャンとマイニーの二人だけしかいない。
銀色を散りばめた星空の下、夏にさしかかった風が、ゆるりと木々を湿らせていた。
「どうして?」
農具を片付けていたマイニーが問う。シャンらしくないと思ったのだ。
シャンが言い出したら聞かない頑固者だと言う事を、マイニーは誰よりも良く知っている。
故郷を出ると言った時、どうしても欲しい物があるからと、いきなり村を飛び出したシャン。
村人が止め、マイニーも止めた。だけどシャンは聞く耳を持たなかった。
「あたしがどんなにダメって言っても、全然聞いてくれなかったじゃない」
だから、しかたなく付いてきた。いつか諦めてくれるだろうと、そう思って過ごしてきた。
なのに、その日を待っていたはずなのに、いざそれを聞くと思ったほど嬉しくもない。
自分の意見が新しい法に負けたような、そんな奇妙な悔しさがあった。
「あーあ。あたしの意見より法律かー」
わざとらしく言うマイニーの前かけで、ピィと小さく鳥が鳴く。
そのポケットからひょこりと顔を出したヒナを見て、ふ、と静かにシャンが笑った。
「おいら、ここの生活は大好きだよ。故郷に戻ったら焼き菓子なんて二度と食えないと思うし、ヴィーヴィリッカのリズムに乗って踊る事も、サングサングの晴れ着も着なくなると思う」
「ええ、そうね」
「だから、本当は戻りたくねえんだ。だけどおいら国で一番になれるほど稼げる自信なくてよ。毎日毎日悩んだけど……やっぱり、戻る事に決めたんよ」
つっかえながらそこまで言って、にぱ、と土に汚れた顔でシャンが笑う。
それにつられ、マイニーもため息混じりに苦笑した。
ピィピィと空腹を訴えるヒナに、干草からつまんだ虫をあげ――もっともらしく間を空けて。
「しょうがないなあ、また付き合ってあげる。あんたの無茶に付き合えるのって、昔からあたしぐらいだもんね」
そして次の日、二人は荘園を離れて故郷へと歩き出した。
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「おうおう、納屋っきゃ貸せなくてすまねえなあ」
「ううん、貸してもらえるだけありがたいです。干し肉もありがとうございます」
そう言って頭を下げたマイニーを見て、あわててシャンも頭を下げる。
日が沈む前、二人で相談して訪れた村。
宿場町でも何でもないそこで、二人が求めたのは安全な寝床だった。
「この辺、野宿は危険ですよね?」
「そりゃあ、野宿はやんべえよ。森じゃ獣も出るしな」
そう言ってくれたのは髭もじゃの大工で、二人に対してベンと名乗った。
でっかい熊。ベンは何となく、そうしたものを連想させるような男だった。
彼の出してくれた干し肉は岩のように固くて、こんな物を食べているから、あんな立派な髭面になるんじゃないかとシャンが思わず唸ったほどだ。
そんな彼は、二人に奇妙な道具を見せてくれた。
「糸つむぎ機だ」
ハンドルと足踏みペダルのついた変な道具。
聞くところによれば、村人達で小さな組合を作り、これで糸を売って稼ぐのだという。
その計画を楽しそうに話すベンそっちのけで、無言で道具を見つめるシャン。
マイニーが、そんなシャンの態度を叱ろうとした瞬間、ベンが、ばふっと分厚い手でシャンの肩を叩いた。
「興味津々ってえ顔だな。やってみっが?」
「あ、はい」
反射的にうなずいたシャンが、ベンに促されて道具の前に立つ。それからベンの言う通り、ペダルを踏んでハンドルを回すと、カラカラと道具が動き始めた。
いくつもの歯車が次々とかみ合い、針がヒョイヒョイと糸を引き出して行く。その糸はと言えば次々に溝へと通されて、芯棒に軽やかに巻き取られて行く仕組みになっていた。
その、魔法のような動きで糸を紡ぐ道具にマイニーが見入り、それに気付いたシャンが手を止めて複雑な顔をする――
そんな二人を見たベンが、不意に満面の笑顔を見せ、どん、と拳で自分の胸を叩いた。
「すげえだろ? 坊主」
ベンの声が愉快そうに跳ねる。
「見ての通り、俺っちにゃあ技術がある、俺っちの仲間もだ。頑張って糸を売って国で一番になれば、もう貴族様にへこへこしねえで生きられるって奴よう! どうだい!」
「……なれなかったら?」
「なれるように頑張らあ。俺っちと仲間を甘く見るなってんだ! あれこれ言うばっかの連中にゃ負けん技術がこっちにゃある。どうよ坊主、いっちょ仲間さ入ってみねえか?」
その態度は自信に満ちていて、豪快に笑うベンの誘いは魅力的だったけれど。
そこまで何かできる自信もなかった二人は、丁重にそれをお断りして夜を迎えた。