民の五 詐欺師の置き土産
木々の向こうから、戦の音が届く響いて来る――
それを聞きながら、男は追跡者から逃げ続けていた。
ざわざわと揺れる枝の音、呼び合う獣の唸り声。
それら全てに追い立てられるようにして、ひたすら、脇目もふらず走り続けていた。
[*]
この男が、ハイラの供を務めて十年が経つ。
そこそこ平穏な人生だった――過去を振り返るならそうなるのだろう。
黒髪黒目、さらに細身と言うあまり目立たない彼が、生活して来れたのは学力による。
だから、争いとは無縁に育ち、無縁なまま終わるはずだった。
それなのに、
「陛下っ、女王、陛下っ。助け、助けてっ……」
何でこんな事に、と自問自答しても答えは出ない。
ただいつものように女王の供をし、見送り、いつものように馬車の番を預かった。
それだけだった。
なのに、その後、
「敵襲だ!」
そう叫んだ御者の声が、くぐもった悲鳴に呑まれて失せた。
男が顔を向けた先で見たのは、御者を組み伏せる大きな影。
それを助けようと駆け寄った護衛が素早く剣を抜き、
「に、逃げろ! 陛下に連絡を! 早くっ……」
その警告を終えないうちに、ぐちゃりと何かで叩き潰された。
直後に激しい音がして馬車が砕かれ、馬が大きく跳ね飛ばされる。
慌てて逃げ出した自分の後ろで、御者の絶叫が響き渡る――
「ひいいっ……」
殺される――そう思った。
焦げた匂いのする夜の中、戦線より流れて来る不穏な気配。
それは昼までの日常とは全く違う状況になってしまった事を、男に告げるものだった。
「た、助けっ、え……」
普段から走ったりしないせいか、喉が痛くて言葉が出ない。
がくがくと震え出す膝が、今にも力を失いそうだった。
左右には木々がそびえ、明かりになるものすら何もない――
けれども疲れに抗えず、男はついに立ち止まった。
「ここ、まで来れば……」
「逃げられる、なんて思ったのかしら?」
「……っ!」
男の背にザクリと突き刺さった何か。
その凶器、鎌のようなシルエットが、血の糸を引いて弧を描く――
「……う、うあああっ!」
裂かれた傷の痛みに、叫んだ男がもんどりうって倒れる。
そこに、すっと女の足が踏み出された。
「素敵な晩ね」
さらりと金髪を揺らして笑うその女の影から、のそりと無骨な男も姿を見せる。
殺人夫婦――バルとネリア。
彼らは脱獄して来ていた。彼らが起きた時、牢の鍵が空いていたからだ。
娑婆に出て更正、なんて気持ちは二人にない。
当然のように、二人の望みは殺人だった。
ネリアが持つ鎌は、ツルハシを研いで棒をつけたもの。
それを持ち、残酷な妖艶さを滲ませるネリアに、男が息を引きつらせる、
「ひっ……ああ……」
「あら素敵な顔ねえ……ゾクゾクするわ」
血まみれの鎌に舌を這わせ、ネリアが楽しげに身震いする。
そして、肩と水平にした鎌を横渡しの形で背に担ぎ、ねっとりとした声を夫に向けた。
「ねえ、バル。この子はあなたに譲るわ?」
物を渡すような調子で言い、道を譲るべく足を引く。
それと入れ替わりに歩み出たバルが、獰猛に笑って片腕を振り上げた。
その手に握られたトロッコ――それが命乞いの暇すら与えず、男の頭を叩き潰す。
その血が飛び散るのを眺めて、うっとりとネリアが目を細めた。
「……素敵。やっぱり外の空気は美味しいわねえ」
すがすがしい顔でそう笑い、しなやかに夫へとしなだれかかる。
そんな妻の様子を眺めたバルが、彼女の細い腰を抱き寄せた。
「……いい夜だな」
「……ええ」
一対の悪魔のよう、互いの唇を重ね合わせて、
「さあ……久しぶりに遊びましょう?」
甘く優しくささやく声を、とろりと喜びの色に濡らして行く。
そして――夫婦の「狩り」が始まった。