王の十 逃亡(1)
夕暮れの陽が差し込む城内。
琥珀色の光に染められた、立派な作りの廊下にて、
「なあ、何だってんだ一体……」
「さっさと歩け! 主がお呼びだ!」
セライヴァに剣で追い立てられ、ウォルゼーはとぼとぼと廊下を歩いていた。
眠った所を叩き起こされ、問答無用で面会を命じられたのがつい先刻。
その理由も教えてもらえずに困惑したまま、ベルザの私室に通じる扉を開く――
「どしたよー、姫さん」
眠たげな声と共に足を踏み入れ、顔色をうかがうように首を傾げる。
と、ウォルゼーを見たベルザが不意に目を潤ませた。
その反応に呆気に取られたウォルゼーの前で、ベルザがきゅっと両の手を握りしめる。
「ウォルゼー……」
水晶であつらえた水琴の、どこまでも透き通った音色響く一室。
その椅子の上、真っ白なナイトガウンに身を包んだ天使さながらの様相で。
「……母上が」
母上が攻めてくるわ、と。
傲慢な王女が、その時ばかりは怯える小鳥のように身を震わせた。
[*]
「兵の手配を!」
その一言で、国全体が騒然となった。
ベルザとて、無から私兵をひねり出していたわけではない。
ここから相当離れてはいたが、その名を轟かせる軍強大国の母から、兵をあてがわれて自由にされていたのだ。
「どうする気だ、道化」
着々と城下に集まる志願兵を見ながら、セライヴァが険しい声で問う。
「負け戦は確実だぞ」
武器や防具だけなら足りている。
民への訓練、意思統一も教育の中で行き届いている。
けれども、圧倒的に数が足りない。
ハイラの兵は、軽く見積もってもこちらの十数倍はいるのだ。
「貴様は最悪の札を引いた。わかるか?」
セライヴァが歩み、柄に手をかける。
直後にすらりと抜かれた剣の刃を、物騒な光が走り抜けた。
「貴様の下らぬ虚栄が、かの災厄を呼び寄せた。もう貴様の首を刎ねても良かろうよ!」
そう叫んだセライヴァの剣が、ウォルゼーの喉に突き付けられる。
が、今まさに切り殺されそうなウォルゼーの方はと言えば、まだ眠いのか、ぼんやりした態度のままだった。
「こんな小国に侵略ねえ。おれの国も有名になったもんだなあ、いやはや……」
「……おい」
「どーせなら他の国を狙えばいいのになあ。ほんっと、強い奴の気持ちってのは不思議なもんだよなあ……」
「貴様、現状がわかっているのかっ!」
鋭く詰め寄ったセライヴァが、即座に剣を持たぬ方の手を伸ばす。
直後、その手に勢い良く胸倉を掴み上げられたウォルゼーが、セライヴァを見上げて気だるげに笑った。
「ああ……もちろん。もちろんわかっておりますさ。……まあご立派な忠誠心だこって、感動で泣けてくらあ。お陰で眠気も醒めちまったよ。――さあて」
ぱし、セライヴァの腕を払ったウォルゼーが、へらへらとした笑みを表情から消す。
途端に、すっと冷たい微笑が刃のようにその顔を彩った。
「時は満ちた。――さあ、戦おうじゃないか!」
言ってひらりと、大仰に腕を振り上げて天を指す。
その指がくるりと宙をなぞり、ぴたりと地図の一点を指し示した。
[*]
――完敗。
ハイラとラムーグの戦いの結果は、その一言に尽きるものだった。
正確には、ハイラと戦わずにウォルゼーが逃げ出した。
いわゆるハイラの不戦勝である。
「貴様の悪知恵には頭が下がる……」
セライヴァがそう皮肉を向けた通り、彼が「戦う」相手は、元よりハイラではなかったのだ。
兵力の差を悟ったウォルゼーの決断。
それは、今の国を捨てて他の国を奪うという、当人いわく「力任せの引越し」だった。
貴族達をベルザに脅させて形ばかりの防衛に回し、本隊を隣国王都への攻撃に回したのだ。
狙いは王都、ただ一つ。
その奇襲は素早く、あっと言う間に勝利を奪い取った。
「王族の首だけ取りゃあいい」
余分な犠牲はいらないと、先に命じたウォルゼーの言葉通り。
放たれた矢に等しい侵攻は、数時間でその結果を叩き出した。
調和を望む穏健の隣国、農牧と養蜂の国イーリャン――つまり、本当の王子であるジニーの潜伏先。
そこは、かつてベルザに攻め込まれたラムーグのよう、あっさりと陥落した。
「よっしゃ、後は任せたぜ。ちょいと野暮用を済ませてくらあ」
王都の制圧を確かめてすぐ、ウォルゼーはそう告げて行方をくらませた。
ジニーをラムーグへと向かわせ、貴族達と引き合わせる為。
つまり王子を慕う影武者を装って、彼らを罠にかける為だった。