王の一 遭遇
その夜、王城は惨劇の舞台と化していた。
切り飛ばされた腕が、足が、そして苦悶の顔がぶちまけられ、その死体を踏み荒らして無慈悲な軍勢が剣を振るう。
その中心に在るのは女だった。
むしろ、少女と呼べる年頃だった。
月光の冷たさを帯びた銀の髪、色香を宿すあどけない顔立ち。
彼女は数々の民を殺し、どこか妖艶に笑っていた。
「ふふ、うふふ、あはははは! ほうらギュンタム、あっちに腰抜けが隠れたわ! まあセライヴァ、だめよ腕は両方落とさなきゃ!」
軍勢を率いて攻め込んだ彼女の前に、小国の護衛など役立つはずもない。
逃げ惑う男や震える女。そこに、次々と容赦ない一閃が襲いかかる。
喜々として剣を振るう彼女はまるで、狂った童話の姫のよう。
ベルザ。ベルザ・ヅェンライン。
殺戮姫として名高い彼女は同時に、処刑者の異名を持つ生きた災厄だった。
青目の彼女に続く兵もまた、不運な命を刈り取って行く──
「ど、どうか命だけは……ぎゃああっ!」
「ち、ちょっと来ただけですから助け……ひぎいっ!」
恐怖と苦痛に裏返った声が、断末魔の絶叫となって血の海に沈む。
さなかで無力にも斃れた王の側には、すでに屠られた王妃の屍。
そして、ひざまずいて祈るばかりのウォルゼーの姿もあった。
亜麻色の髪と、優しげな栗色の瞳を持つ王子――
指を組み、悲しみの涙で頬を濡らすその横顔が、世を嘆く天使のような憂いを帯びる。
そこに、冷酷なベルザの剣が向けられた途端、
「おやめ下さいっ!」
強く、鋭く割り込んだ声が一同の注意を引いた。
先に兵達が声の方を振り返り、続けてベルザも振り返る。
そして――誰もが絶句した。ベルザはもちろん、ウォルゼーさえも。
息を切らして立っていたのは、ウォルゼーそっくりの顔をした男。
何事かと凍りつく一同の前、その男が声を張り上げた。
「僕の『影』をどうか……どうか見逃してあげて下さい! 僕の命を差し上げますから、だから!」
その言葉が終わらぬうちに、数人が男を取り囲む。
「みすみす出て来るとは愚かな王子だ」
誰かが笑った。
「殺しますか?」
別の誰かが言った。
それを聞いたベルザが、すっと片手で兵を制す。
「見逃しておやり」
くすくすと冷たく笑うベルザに、慈悲の心など全くない。
「平和に呆けた世継ぎに、素敵な世界を見せてあげるわ」
つまりは、そう言う事であった。
身代わりである影武者を守ろうとする、そんな馬鹿な王子は見た事がない。
それがいかに愚かであるかを、その目に見せつけてやるのも面白いと思ったのだ。
「くくっ、てめえはもう用無しだってよ、ほら行け!」
どん、と兵が乱暴にウォルゼーを突き飛ばす。
その衝撃によろめき、ふらついたウォルゼーが男とすれ違いかけた瞬間、
「遠くより、お慕い申しておりました……」
瓜二つの男が、そっとウォルゼーにささやいた。
「ですから、どうか御無事で。馬屋の裏に馬車を配してありますから……それで」
まるで祈りを紡ぐような、懇願にも似た悲痛な声。
だが、応じようとするウォルゼーに、問いの時間など残されていなかった。
今にも切りかかりそうな兵から感じる、無言の重圧と歪んだ殺気。
それに怯え、逃げ出したウォルゼーの姿が見えなくなってから、男がベルザへと声をかける。
「二人で話そう。気に入らなければ、僕の首を刎ねてくれて構わない……」
思い詰め、死をも覚悟したような真剣な声―――
それを聞き届けたベルザが、高らかな、勝利の笑い声を響かせた。
[*]
武器を持たぬ事を示し、血にも毒を仕込んでいない事を示し、ようやく男は人払いを許され、ベルザと共に私室へと踏み込んだ。
とは言え、その背にはベルザの剣の切っ先が、ひたりと容赦なく突きつけられている。
一歩でも下がればそれが刺さる事は明白で、男はただ前に進むしかできなかった。
否、扉が閉じた辺りから、男の歩みは堂々たるものになった。
ずかずかと床を踏み歩き、途中にある角盃の梨を引っ掴み、ごろりと豪華な寝台に身を投げ出す。
そのあまりの豹変ぶりに、ベルザが思わず目を見張る。
だが、男は全く気にせず悠々と足を組み、手にした梨をむしゃむしゃとむさぼりはじめた。
先程とは正反対の男の態度。
それに戸惑いを隠せないベルザへと、半分まで齧った梨を掲げた男がニタリと笑う。
それは、王子らしい笑みとは違う――
例えるなら品性のカケラもない、悪党にありがちな笑みだった。
「どうだい姫さん。なかなかうまいぜ、これ」
「なっ……!」
絶句したベルザの頬が、たちまち怒りの色に染まる。
次の瞬間、ベルザの剣が、男の喉元に突きつけてられていた。
「私を……馬鹿にする気だったの?」
本物と偽物の区別もつかぬ無知として!
そう怒り狂うベルザを前にしても、男は全く動じない。
それどころか降参の意を示すように両手を広げ、笑い、ゆっくりと目を閉じた。
「憧れていたんだ、王城の生活って奴にね」
しみじみと告げる男に、ベルザが不審のまなざしを向ける。
命乞いなら聞く耳を持たないつもりだったが、相手の意図を量りかねた。
「まあ、最後にうまい梨も食えたしよ。ここまで来ただけあるってもんだ」
「……何なの、貴方」
どう言うつもりなの、と唸るベルザに、男が片目だけを薄く開く。
そして片腕を枕にして、ふっと皮肉気な笑みを深めた。
「おれは田舎のペテン師だよ、姫さん。……本当の名はもう忘れちまった」
[*]
ラムーグの民が、王族の幼少時代を知る事はない。
慣習として、王子も姫も、十五歳になるまで民の前に姿を現さないからだ。
よって国民が世継ぎを目にするのは、それぞれが成人してからとなる。
そうしてウォルゼーが初めて国民の前に姿を現した際、乞食であった男は仰天した。
「あんときゃ、ほんっと天地がひっくり返ったかと思ったぜ」
盗みのため、ずっと布で隠していた自分の素顔。それが、当の王子そっくりだったからだ。
そして、その日を境に彼の生活が一変した。貧困から贅沢へ、不自由のない暮らしへと移り変わった。
「悪いけどお忍びなんだ。寝床貸してもらえるかな?」
「ど、どうぞ。よろこんで!」
「実は城の者には内緒でね。ああ、何か食べる物を」
「それでしたらこちらを!」
そんな具合に寝床をせびり、食べ物をせびり、衣類や道具を手に入れた。
無名の盗人だった頃の自分に対する反応とは、正反対の好待遇――
「すまないね、こっちの礼儀には不慣れなんだ」
「とんでもございません! わたくし共でよろしければ、何なりとお聞き下されば!」
とにかく、一から十までそんな調子だった。
地方の貴族ともなれば、田舎の大将と大差ない者も中にはいる。
その辺りから順に訪れ、男は、王子らしい振る舞いを覚えて行った。
「――で、そんな事してたらあんたが攻め込んで来たってわけ」
混沌とする戦禍の中、王子が本物か偽物かなんて誰も気にしない。
それに乗じて「城に戻らなければいけない」と嘘ぶいて、馬を手に入れて駆けつけた。
そうして現場に居合わせて、一世一代の大芝居を打った結果として今がある――
そんな経緯の説明を終えて、男がちらりとベルザを見上げた。
「ま、せめて死ぬ前に贅沢をと思ったんだがなあ、あんたを見て気が変わった」
にやにやと笑いながらそう告げる男に、ベルザが思わず眉をひそめる。
確かに落ち着いて良く見れば、影武者にしては粗末な服装であり、ひそかに堆肥の匂いまで漂っている。
それに気付いて後ずさったベルザの前で、男がむくりと起き上がった。
「おれは、王子としてあんたと結婚しようと思う」
「……なんですって?」
思わず聞き返したベルザに、男が再び真顔で告げる。
「結婚しよう」
「正気なの? みずぼらしい乞食風情が私に触れて良いとでも思って?」
「いいや、おれはあんたに触れない。首が落ちそうだからな。だから、結婚しよう」
「……どうかしてるわ」
正気の沙汰じゃない、と剣を握りながら青目を細め、男に氷のような冷笑を向ける。
「身の程を知りなさいな愚民、それとも首を落とされたいの? 妻にすれば女は変わるなんて思っているのなら、考えを改めた方がよろしくってよ」
「ああ、そうかもな」
男がうなずく。
「あんたの噂なら聞いているよ。だがなあ、おれはこれから何十人、何百人と言う民を、おれの為に手なづけたり罰したり、欺いたり丸め込んだりするんだ。あんたと言う脅威が近くにあれば、それ以上怖いモノなんてなくなるだろう?」
「ふふ……」
惚れたわけではない、同情したわけでもない。
けれど、目の前の男から感じるしたたかさにベルザは笑った。
強国の男に媚びて、玉座のお飾りになる気はない。
ならばこの風変わりな男と、名だけの契りを交わす方がましだと思えた。
「良いわ、それなら妻になりましょう。ただし、婚姻は私の国の方式で」
「構わねえよ。どんなのだ?」
「呪われた指輪を婚約の証に。それで、貴方は私の命を決して脅かす事ができなくなる」
そう言って髪に指を通したベルザが、華奢な手をゆっくりと握り込む。
その後、再び指を開くと、そこには繊細な茨を思わせる指輪があった。
白銀にしては透けるようにまばゆく、そのまばゆさも、落ち着いた光と言うよりも研ぎ澄まされた刃のような危うい煌き。
それを剣先に乗せ、まるで汚い物にそうするよう、ずいと男の目の前へと突きつける。
「たとえ他人を使ったとしても、私の命を狙った瞬間に貴方は死ぬわ。いかが?」
「なかなか素敵な条件じゃないか」
あっさりと応じた男が指輪を受け取り、はめる。
「おれの持ち物の中で一番豪華だ」
指を飾ったそれを眺め、男が感動したようにつぶやいた。
剣に乗っている時は少し小さく見えたのに、いざ指を通してみると、最初から男の為だけに作られたかのようにぴたりと合う。
さらに手を揺らすたびに光を反射する彫刻が、樹氷をも思わせる輝きを放っていた。
「はは、綺麗なもんだな」
お気に入りの玩具を与えられた子供のような笑顔。
その、あまりの能天気さにベルゼは呆れ、やがて小馬鹿にしたように息をついた。
彼が指輪の呪いを信じていなくても構わない。妙な気を起こしたら死ぬだけだ。
「愚かね、後悔しても知らなくってよ?」
忠告して剣を納める。それを見た男が、また寝台へと寝転がった。
天蓋を振り仰ぎ、再び梨を噛みしめた男が、視線だけでベルザを見る。
直後、男の目元が楽しげな弧を描いた。
「後悔してみるさ。ま、とりあえず発表は姫さんから頼むぜ? おれがやったんじゃいつボロを出すかわかりゃしねえ。なあに、姫さんの隣で黙ってにこにこ笑ってるさ」
そうして、詐欺師はウォルゼーになった。
一方、逃げ出した本当の王子はジニーと名を変えて、隣国に潜む事となった。