王の九 用途
「……あんたの娘が、おれの国の民だったとしよう」
夜半過ぎのリュギの部屋。
寝台に横たわるリュギと、その近くに控えるギュンタムとの間に立って、ウォルゼーは静かに口を開いた。
「人が嫌がる虫取りや、雑草刈りに当てるね。おれだったら」
「……普通には使えぬから、か?」
「馬鹿言うな、逆だ」
疲れた顔のリュギを見下ろし、そう笑ってみせるウォルゼーの声は妙に明るい。
「使えるからだよ。ああ、かわいそうって話はなしな。大人に泥遊びをしろって言ったら苦痛だろうが、泥遊びを楽しめる心の持ち主に対して、泥遊びさせられるなんて酷すぎる、かわいそうにとか勝手に決めんなよ」
かわいそうだなんて、ただの勝手な代弁に過ぎない。
そう語るウォルゼーの手には、一文を書き加えた紙があった。
泥仕事、害虫取り、そうした諸々に知恵遅れを当てると言う一文。
もちろん報酬は働きに応じて出す方式で、それをどうするかは保護者として認められた相手によって決まる。
――制定は明日から。
ウォルゼー直筆のサインと共に、その事がやや雑に書かれていた。
「ま、連中が無能だって言う奴らに聞いてやりてえとこだけどな。あんたらが見下してる連中より前向きに、そこらの虫取れる奴がいるかってよ」
そんなの釘を打てる氷に、野菜を洗う水の役をさせようとして、洗えないなんて使えないと嘆いているのと変わらない。
そこまで阿呆な事があるかと、声を控えたまま悪態をつき、
「ま、そんなわけで明日からな」
そう言ってひらりと紙を振り、それを懐にしまいこんだ。
ウォルゼーの平等主義は、常に、貢献に応じて利を還元する方式でしかない。
それは弱者でも良い生活をなどと言う温情系ではなく、義務の度合いに応じて権利を決める方式であり、例えば知性が子供なら子供としての義務しか課さない代わり、大人並みの権利を一切与えない事で辻褄を合わせて行く。
当然、弱者救済を謳う集団との対立も絶えず、お陰で世話役の動向に逐一、側近達が目を光らせる場面もあったが、その程度で怯むウォルゼーではない。
それどころか、「もしも自分に何かあったら、聖王殺しと言う汚名で世間から抹殺してくれる」と、あえて大衆の前で無防備を晒し、彼らを挑発する事さえ珍しくもなかったのだ。
「ふふ、大将は聖王殿になるわけ、か……」
リュギが笑う。
知恵遅れは悪魔憑きとされ、忌まれるか教会で毎日祈らされるかのどちらかかだったのに。
これが王でなかったら、神への背徳もいい所だ。
悪魔憑きを助ける異端と言う汚名と、悪魔憑きすら人として扱う慈悲の王としての評判。
そんな噂が新しく付く事になるねと笑うリュギに、ウォルゼーがふいと顔を背けた。
「けっ、慈悲だと思いたい奴にゃ勝手に思わせとけ。使える連中を使えないと思いたがる、そんな奴らに付き合ってやる義理なんかねえってだけだ」
民ならそれでも良いだろうが、一国の王がそれを成したら後に招くのは停滞のみだ。
それをなぜか今晩中に言わなければならない気がして、急ぎ、ウォルゼーは追加の法を書き上げて来ていた。
――その、直後だった。
「……っ」
げほ、と不意にリュギが咳き込んだ。
「くっ……かはっ……」
「婆さんっ!」
唐突に苦しみ出したリュギに、ウォルゼーが思わず手を伸ばす。
そして急いでその背に手を当て、いたわるようにさすり始めた。
こうなるのを見た事は何度があるが、いつもとは何かが違う。
そう、確かに感じさせる状態だった。
「婆さん……」
情けないとは思っていても、表情に困惑がにじむ。
おれらしくもない、と心のどこかで自分を笑っているのに、急に恐怖が込み上げたのだ。
そんなわけないだろうと、何度自分を否定しても。
「大丈夫か、婆さん……」
背をさすりながら控えめに尋ね、息を詰めて様子を見守る。
その声が聞こえたのか、ふと、リュギが弱々しくうなずいた。
大丈夫だとでも言いたげな態度。
それが余計に、ウォルゼーの不安を膨れ上がらせた。
「……無茶、するからだ」
骨の形がわかるほど痩せたリュギの、痛ましさが見ていて辛い。
その背をさすり、咳をなだめ、永遠のような数分間を過ごす。
そうしてようやく落ち着いたのか、リュギが弱い息を吐き、
「……大、将」
青ざめた顔を上げ、掠れた声を絞り出した。
「なんて顔をしているんだい大将……一国の主ともあろう者が」
まるで、迷子になった子供みたいじゃないか、と囁くリュギから感じる、濃厚な死の気配。
それを認めまいと下を向くウォルゼーに、リュギがやんわりと笑いかける。
「そんな顔をするでないよ……似合わないねえ」
いつもの調子はどうしたんだい、と。
優しく叱り付けるような調子の声に、ふ、とウォルゼーが不意に笑った。
「……おれは道化だぜ、婆さん」
落ち込んだフリぐらい得意分野だ。
そんな一言で自分をごまかし、無理に笑いながら顔を上げる。
そしてギュンタムを振り返り、静かに佇んでいる鎧騎士を見て苦く笑った。
おそらく、ギュンタムは知っていたのだ。リュギが長くない事も、この日が来る事も。
「くくく、ババアにしちゃ、良くやったよ。褒美に一言ぐらい聞いてやらあ」
ああ、気を抜けば泣きそうだ。
そんな内心を悟られまいと、いつもの悪態でリュギに応じる――
「で、道化に言い残す事は? 寿命まで生かしてやったんだ、一言ぐらいあるよな?」
「……そう、だねえ」
ウォルゼーが明るく振舞おうとするなら、リュギもまた彼と同じ。
「じゃあ、大将の情けに縋って、一つ無理を頼もうかねえ……」
「ああ」
「このまま……ね。ただの民として、終わらせて欲しいんだよ……」
城の関係者は手厚く葬られるのが習わしだが、絶対にそうしないで欲しい。
小さな墓標だけあればいい、時間と共に朽ちてしまうものがいい。
本当の自分を知る人の思い出の中にだけ、そっと残る程度でありたいから――
「……頼めるか、ね」
「頼むも何も。おれを騙した奴を語り継ぐ碑なんて、冗談でも作る気にならねえわ」
そう言ってにやりと笑うウォルゼーに、リュギが安堵の表情を浮かべる。
それすら苦しかったのか、細い息を吸って、吐いて、また吸って――
「……わたしゃ果報者だよ。あんたみたいな大将に会えて、本当、に……」
その先はただの息となり、ほどけてゆっくりと消えて行く。
それが空気に溶け込む前に、リュギは静かに息を引き取った。
……ありがとね。
そんな言葉が、きちんと声になる事はなかったけれど。
確かに、その意思は二人に届いていた。
[*]
ふつりと、蝋燭の灯が消える。
一つ、また一つとギュンタムの手で消されて行く。
全ての灯が落ち、光が消え去った部屋の中――
「……おやすみ、婆さん」
別れを告げる、ウォルゼーの声がわずかに震えた。