王の八 葡萄
国境を目指す荷馬車の列が、いくつも街道を通って行く。
それらが一望できる場所で、ウォルゼーは楽しげに目を細めていた。
「なるほどねえ、こいつはいい手だ」
商隊を数えて口笛を吹く。これだけあれば、結構な金になるに違いない。
冬の前に収入が増えるのはいい。それで資材を買い込む事ができる。
「ふむ」
ペンを取り出し、さらさらと試算など行ってみる。
その後ろで、ふと、掠れた声が微かに笑った。
「ね? 上手く行ったろ?」
「ああ、全くだ」
後ろを振り返り、ウォルゼーがうなずいた。
そこには、痩せ細ったリュギがいた。
もう長くないと言った通り、日々弱って行くリュギは、もう、自力で歩く事も叶わない。
そのため常にギュンタムに抱えられながら、ウォルゼーの供をするようになっていた。
[*]
最初に倒れた夜の事――
「死んだような、そんな長生きなんぞしとうないわ!」
呼ばれたお抱えの薬師を、リュギはその一言で突っぱねた。
その小さな体のどこから出るのか、想像もつかないほど毅然とした声。
立つ事もできない程に足は震え、顔は氷に触れたように真っ白だったが、
「治療など要らんと言うておる、勝手に寿命を変えるでない!」
途方に暮れる薬師を前にして、断固として治療を拒んだ。
それに気圧されてウォルゼーが黙り、とうとう薬師までもが黙り込む。
リュギの意思は変わらなかった。
這い寄るような冷たさと、ぐっと詰まる喉の苦しさ。
それらに苦しめられながらも小さな体を丸め、何が何でも拒否の意思を示すリュギに、ウォルゼーが途方にくれた声を出す。
「全く……頑固な婆さんだ」
「はん、この年になると融通も利かんでね……」
痩せ我慢の笑みを見せて、リュギがゆっくりと体を起こす。
「わたしゃ大将に命を預けたが、この体はふるさとの物だ。異国の薬なぞ飲めるかい」
そう言って片手を振り、しっしと薬師を追い払うような仕草さえ見せた。
娘と過ごした国に残っていたら、どのみち治療なんて受けられなかっただろう。
だから、そのままでいい。
「大将が何と言おうと、わたしゃ御免だよ」
そう言い切って、寝台を降りて一歩を踏み出し、
「く……う」
苦痛に顔をしかめ、ふらりとよろめいた。
直後にすっと手を差し出したのはウォルゼーでもなく、薬師でもなく、
「ギュンタム……」
硬い、金属でできた鋼の側近。
思わず目を見開いたウォルゼーの前で、ギュンタムが無言でリュギを支える。
それは巨躯に似合わない優しさで、同時に壁のような頼もしさだった。
「……すまないね」
そう、小さくつぶやいたリュギにギュンタムが首を横に振る。
それを見たリュギが、安心した顔で大きな手にくたりと体を預けた。
[*]
その日から、ギュンタムがリュギの足代わりになった。
赤子を胸に抱くようにリュギを抱え、リュギの望む場所まで常に連れて行った。
リュギがあれこれ言わずとも、望みを読んでいるかのように付き添い、ベルザに呼ばれた時以外はいつでもリュギの近くにいるようになった。
かの鎧騎士が言葉を発した事はない。寝ているのを見た事もない。
戦斧を振るう姿こそ鬼人じみた迫力があるが、それを除けばいっそ穏やかな雰囲気さえもたらす沈黙の従者。
例えるならひっそりと存在する、洞窟の中の大きな岩。
時折、リュギがギュンタムから感じる気配は、そうした自然のものに良く似ていた。
[*]
荷物を積んだ馬車が行き、視認できないほどに遠ざかる。
その後に残った甘い空気を嗅いで、ウォルゼーはリュギに笑いかけた。
殺人夫婦に、祖国に手紙を書かせる事を提案したのはリュギ。
その手紙が葡萄を売る噂の元になるからそうしろと、ウォルゼーを促したのだ。
『重労働に課せられているはずの囚人が、たいそう元気に生きているらしい』
きっかけはそんな調子で始まり、やがて尾ひれがついた。
手紙から酒場へ、酒場から客へ。
客から家族へ、そこから口伝えに次々と広がり続けて国全体へ──
『ラムーグの干し葡萄には秘密がある。それは炭鉱の害を取り除くものだ』
大きく広まり終わる頃には、そんな拡大解釈までもがついていた。
そして、それを信じた他国からの注文が相次ぎ、特需が生まれ、それによる国営の葡萄園も 次々に増える事となった。
「……ほんと、上手く行ったな」
「大将は国賊だけどね」
ギュンタムに抱えられたリュギが笑う。
他国の犯罪者を優遇する売国奴――その評価に偽りはない。
「構わねえさ、どのみち偽の王様だ」
国に義理もねえよと言い返し、ウォルゼーが空を仰ぐ。
こうした目的があったにしろ、他国の犯罪者を助けた事に変わりはない。
重税を課せられている民からの恨みが半端無い事も、それこそ充分に理解している。
とは言え国民を炭鉱に放り込んだ日には、頑健な殺人夫婦のようには行かないだろう。
炭鉱に放り込んでも問題ない犯罪者である事、そして体が並外れて丈夫である事。
さらに向こうにそれなりの人脈があり、噂の引き金になる事。
適材適所――それらの条件を満たせる者を選んだだけの話だった。
「まあ、文句言ってられんのも部外者のうちだ」
日々、増えて行く葡萄園の数は限りない。
痩せた土地でも育つ葡萄は、特別な栽培技術も必要ない。
やがて不平不満を並べる民をも雇い上げる事になるのが、すでに目に見えている──
「清廉潔白を望むなら自分で頑張りゃいい。他国を踏み台にする葡萄園でも構わねえって言うなら、いつでも雇ってやるけどな」
雇用は強制ではないのだから、好きな場所で働けば良いだけの話。
国民は、それを知った上で判断すれば済むのだ。
「毒虫を使って大魚を釣る、あんたの言った通りだよ婆さん。こいつはなかなかの儲けになりそうだ、鋼よりもずっと元が取れる」
そう認めるウォルゼーに、リュギが嬉しそうに目を細める。
老婆と孫、傍目にそうも見えそうな二人の間で、どちらからともなく笑い声がこぼれた。
「戻るぜー、婆さん」
くるりと国境に背を向けて、ウォルゼーが片手でリュギを招く。
そのまま歩き出したウォルゼーを追って、リュギを抱えたギュンタムも歩き出した。