民の二 離反(2)
思わず後ずさったレブリックに、リッヒが片目をつむって見せる。
そして、ひらひらと片手を上下させ、リッヒはにんまりと口の端をつり上げた。
「残念ながら、手引きしたのは手前なものでして」
「な……に?」
扉の向こう。
ずらりと見える顔ぶれは、荘園を捨てる事を覚悟した農民達そのもの──
牛飼いの男に羊飼いの女、葡萄摘みの少女そして麦畑の少年。
それらを後ろに控えたリッヒが、片手を腰に当ててレブリックと向き合う。
「呼ばれて来たんじゃない、手前が出向いたんです」
その言葉の通り、リッヒは彼らを代表して、レブリックへと別れを切り出しに来たのだ。
「こ、こ、この恩知らず!」
怒りに震えるレブリックが、鼻息荒くまくし立てる。
けれどもリッヒは、ひょろりとした細身を立てて、堂々とそこから動かない。
「ただ威張り散らして下を怯えさせて、確かに作物を売った金は稼げたでしょうがねえ。それを目に見える形で返せなかった結果がこれっすよ、旦那」
そう切り返すリッヒへと、レブリックの怒りの声が飛ぶ。
「柵を買った分だ! それで儲けが削れている事ぐらい、お前だって知っているだろう!」
リッヒは決して愚かではない。
むしろ頭が良く、数字に強く、人の手配から備品管理までもをこなしていた。
だからリッヒを叱るだけで良かった。困った時は、リッヒを叱り飛ばせば彼が必ず何とかしてきた。
――今までは。
「リッヒ!」
レブリックが叫ぶ。
「儲けを全て渡せぬ理由を、いまさら知らんとは言わせんぞ!」
何を作るにしても無償ではない、果物を作れば虫も鳥も来る。
馬や牛を飼えば獣が寄りつき、それらからも家畜を守らなければならない。
そうした目的の柵や弓や罠、それらを買うのもリッヒの役目であり、分配まで理解していたはずなのに。
「何を血迷った! それとも呆けたか!」
「いえいえ、仰る事はよおく理解しておりますとも。ですがね旦那、それを下に伝えましたか? 儲けがこれぐらいで、農地の維持費にこれぐらい。んで、これは次のための貯金であると伝えましたか? 自分がどう働いているかを見せる事もできないようじゃ、納得のしようもありませんぜ」
ちちち、と立てた指を左右に振ってリッヒが笑う。
その後ろから、いくつもの不審の目がレブリックに向いていた。
農民達とて、レブリックの恩恵を受けて来なかったわけではない。
けれどもそれ以上に、大変な苦労をさせられて来たのだ。
「わ、わしは苦労してここまで来たんだぞ!」
後ずさりながらレブリックが叫ぶ。後ろには窓しかない。農民の間をすり抜けて逃げるわけにもいかない。
だから、だらだらと冷や汗を流しながら、ちぢれた声でわめくしかできない――
「本当に苦労したんだ! もう楽をする権利があるはずだ!」
「そんなこたあ自慢になりませんぜ旦那。後で楽をしたけりゃ、若えころに貯金もできたでしょうに。感謝される人間である事もできたはずだ」
ね? と両腕を広げ、背を軽くそらしてリッヒが笑う。
とたんにレブリックの顔が、熟れたリンゴのように真っ赤になった。
「わ、わしから離れて生きていけると思うのか! 考えなおせ! 黙ってわしに従っていればそれなりに暮らしていけるんだぞ! 望むなら支払いを吊り上げてもいい!」
その言葉を受けて、リッヒが不意に黙り込む。
少ししてから、真面目な顔に戻ったリッヒが、輝かしい頭をぺこりと下げた。
「お気遣い痛み入りますぜ、旦那」
「そ、そうか。それなら……」
「けど、断らせてもらいまさあ」
「貴様っ!」
「どうぞどうぞご心配なく、行き先も見つけましたんで。手前はちゃあんとみんなに伝えますよ、何がどうして払えないのかをね。おわかりですか旦那? 人は誰だって、実力が見えん相手を信頼したりはしないんです。ああ……例外があった」
ぱん、と両手を顔の前で合わせ、にっこりと浮かべる満面の笑み。
「神を崇め、その神のためと言われれば、何でも喜んでやるような狂信者は別です」
言い終えてリッヒが背を向ける。
その手から、ここの労働者である事を示す布がひらりと落ちた。
リッヒを先頭に、ぞろぞろと農民達が後に続く。
一様に無表情で、リッヒと言う笛吹きに誘われる灰色鼠のように――
「リッヒ! ふざけるなこの裏切り者! 天罰が下るぞ貴様ら! いつか……いつか!」
そう叫ぶレブリックを、農民達は振り返らない。
ただ一人、リッヒだけが最後に振り返った。
肩越しに、にこやかに──
わなわなと怒りに震えるレブリックに、心からの笑顔を向けて。
「それでは御機嫌よう旦那。いや、レブリック様?」
「リッヒ!」
「このご恩は忘れませんや。どうか、神の御加護で旦那の人望が回復しますように!」
ばたん、と扉が閉じられる。
それを呆然と見つめ、レブリックはがっくりと床に膝をついた。