SCHOOL
気がつけば、朝はあっという間にやってきた。
緩慢な動きで制服に着替えて、叔母や従姉妹に心配をかけてはならないと平静を装いながら家を出て、いつもの通学路を歩いて学校に着く。
教室にはまだほとんどの生徒がそろっていなかった。悠希は窓際で一番後ろの自分の席に腰を下ろした。
窓の外を眺めながら思うのは、やはり昨日のこと。
あの黒い機体……ディズィ。
まさか自分が敗北するなんて、悠希は微塵も考えていなかった。
だからこそ、ショックは大きい。
まさか、そんな、という信じられない思いと、嘘だ、間違いだ、という信じたくない思いが入り混じって、悠希は唇を噛んだ。
負けるわけにはいかないのに、と。
勝利しなくてはいけないのに、と。
アニルの最後の一匹を狩り尽くすまで、彼女はそうして生きていく筈だった。
例え相手がソアレイ――人間であったとしても、負けるわけにはいかなかったのだ。
なのに、ああもあっさりと悠希は敗北した。
胸に熱せられた杭を打ちつけられたかのような苦しさ。
それを振り払う方法を、悠希は知らなかった。
ただ、悔しさに心を焦がす。
そうしている間に、クラスメイトが集まり、朝のホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
同時に、教室の前のドアが開く。
入って来たのは、一人の女性。
空気が凍った。
その姿に、悠希は一瞬呆然とし、そして愕然とした。
マリーナ=ワークマンが、平然と教壇の上に立っていたからだ。
悠希だけでなく、他のクラスメイトもざわつく。
このクラスの担任教師は当然彼女ではなく、冴えない中年の男性教諭の筈だった。
マリーナが脇に抱えていたクラス名簿を教卓の上に置く。
「さて、諸君。いきなりではあるが、君らの担任と副担任が体調不良で数日の休暇をとることになった。そこで代理として、このアタシ、マリーナ=ワークマンが諸君らの面倒を見させてもらうことになった。よろしく頼むよ」
早口でマリーナが言うと、一つの手が挙がった。
「質問いいですかー?」
手を挙げたのは一人の男子生徒。
「答えるかどうかは保証しないが、なにかな?」
「先生って、もしかしてあのマリーナ=ワークマンさんですか?」
「あの、という曖昧な表現ではよく分からないが、もしそれがソアレイ開発者の一人としてのマリーナ=ワークマンならば、確かにそれはアタシのことだろう」
すると、教室中が沸いた。
なにせマリーナは、超をいくつつけても足りないような有名人なのだ。長年表舞台に姿を見せなかったとしても、それは変わらない。
今の歴史の教科書には、平然とマリーナの顔写真が載っている。
「あれ、でも失踪してたんじゃ……」
ふと、生徒の一人がそんな情報を口にする。
「プライベートな問題で軍を辞めることにしてね。引き止められるのも面倒だったから、誰にも言わないで出奔しただけのことだよ」
あっさりと答えて、マリーナは時間を気にするように時計を見た。
「まあ、質問は後で聞くとして、今日はもう一つ、ちょっと急なことがあってね。ホームルームの時間に余裕がない。というわけで……入っていいぞ」
マリーナが呼ぶと、廊下から一人の男子が入って来た。前髪が伸びていて表情は大分隠れてしまっているが、少しだけ覗くその目は、あからさまに不機嫌なもの。
「彼は今日から君らの学友となることになった。まあ、転校生、というやつだな」
治まりかけていたざわめきが再燃した。
この時期の天都の教育機関は新学年が始まったばかり。何故今更、こんな時期に転校生はやってくるのか。いくつもの疑惑の視線が転校生の少年に投げかけられる。
疑惑の視線を鬱陶しそうに身体中に感じながら、彼は口を開いた。
「直衛裕真です。よろしく」
意外と透き通った声。
「なんだ、短いな。面白い小話の一つでもしたらどうだ」
簡潔な自己紹介に、マリーナがつまらなそうにぼやいて、教室の中を見回し……そして、誰も座っていない席を見つけた。
「ああ、あそこが空席だな。あそこに座れ」
「分かりました」
そう言ってマリーナが指示したのは、悠希の隣の席。
途端に悠希が嫌そうに表情をしかめる。
彼女の隣の席は、新学期の最初にあった席決めで誰も座らなかったのだ。その理由は、前年度――つまり悠希が一年の頃に周囲と隔絶した態度をとっていたせいだ。
人付き合いを得意としない悠希としては、隣に人がいなかったというのは気楽なものだったので、それを害されたことは不快極まりないことだった。
言われた席に着いた裕真の視線が、不意に悠希の視線とぶつかる。
「まあ……よろしく頼む」
「……」
挨拶をした裕真に対して、悠希は視線を逸らしただけだった。
「……なんだ?」
その態度に首をかしげつつも、裕真はそれ以上話しかけたりはせずに、頬杖をついて教壇に立つマリーナを眺めた。
「ったく……マリーナさんも何考えてるんだか」
その呟きは、隣の悠希にさえも聞こえないくらいに小さなもの。
「それじゃあ、どたばたしているが、早速今日の学業を始めるとしようか。一限はさっそくアタシの授業だな……覚悟しておけよ、諸君」
歴史上稀に見る天才の授業を前に、それがどんな内容なのかと、誰もが息を呑んだ。
†
一限目の、マリーナの授業。
科目は数学だった。
驚いたことに……マリーナの授業は極めて平凡なものだった。強いて普通と違うところをあげるのであれば、それは生徒達に理解させるのが早かった、と。そのくらいのものだろう。
要点を纏めて分かりやすく進められた授業は、生徒にとってありがたいものだったろう。
自然と授業風景は、至って静かで真面目なものになった。
もしかしたらマリーナには教師の才能があるのかもしれない。
マリーナの授業は比較的平和に過ぎ去った。
裕真もそのことには安堵した。
だが、それとは別の問題が起きることなど裕真は予想だにしていなかったろう。
授業の間にある休み時間が来る度に、裕真は頭を悩ませた。
どうして転校生だからといって、ああも質問責めにされなくてはならないのか。
前はどこの学校に通っていたのか、に始まり、マリーナ先生とはどういう関係なのか、など。様々な問いを投げかけられた。前者は適当に誤魔化し、後者は偶然今日転入してきただけで無関係の人だと答えていたのだが。
いろいろと溜まった疲れのせいで、裕真は四限目には机に突っ伏してしまっていた。
どうにか円滑な関係――というよりも問題の起きない程度の無難な関係をクラス内で築いていこうと愛想を振りまいたこともあって、そろそろ限界だったのだ。
そして……待ちに待った授業終了のチャイム。これで、ようやく昼休み。
裕真は即座に教室を飛び出す。これ以上質問を受け付けるつもりはなかった。
しかし、どこに向かうか。
「裕真、こっちにこい」
廊下を歩きながら悩む裕真に声をかけたのは、他でもないマリーナだった。
その手には、一本の鍵。
「応接室にいくぞ」
どうやら応接室の鍵らしかった。
「勝手に持ってきたんですか?」
「そんなわけないだろう。少しお願いして借りたのさ」
マリーナのお願いが少しで済むものか。呆れながらも、裕真はそのままマリーナと応接室に向かう。
応接室に到着して、すぐに彼はソファ―に座り込み、肩の力を抜く。
「なんだ、随分疲れてるようじゃないか」
「当然でしょうが」
ネクタイを緩めて、裕真はマリーナに恨みがましい目を向けた。
「何考えてるんですか、マリーナさん。いきなり教師がやりたいなんて……しかも俺まで巻き込んで」
「そう文句を言うな。教育の現場、というものに前から興味があったんだよ。果たして今の少年少女がどれほど可能性を秘めているものか、ね。どうせ一週間は暇なんだ。構わないだろう」
「そんなの柄じゃないでしょうが。どうせ、ドラマか何かに影響されたんじゃないんですか?」
「……」
指摘に、マリーナの視線は完全に明後日の方向を見ていた。
「図星ですか」
「事の始まりに貴賎はないよ。意味を求めるのは、その過程にだけでいいのさ」
「それらしいことで誤魔化しても駄目ですから」
眉間を指先で揉みながら、裕真は溜息を吐いた。
「まったく、今朝になっていきなりやってきて何事とかと思えば、私はこれから教師になるからお前も付き合え、だなんて……しかも理由がドラマの影響とか、いい加減にして下さいよ。マリーナさんの我が儘でどれだけ迷惑を被る人がいると思ってるんですか」
「ふん、お前が人の迷惑を考える性格をしていたとは驚いた」
「そうですか」
全く反省の色が見えないマリーナを窘めるのを早々に諦めて、裕真はソファーに横なった。
「なんだ、寝るのか?」
「昨日の疲れが抜けてないんですよ。まったく、俺が疲れてるのはわかってるでしょう」
「昼食はどうした?」
「ありませんって。寝込みを攫われて学校に連れてこられたのに、昼飯を用意する余裕なんてありませんでしたよ。学食や購買に行くのも面倒ですし、昼飯はとりません」
早くも重くなってきた瞼を閉じて、欠伸を一つ零す。
「ふむ。ならこれを食べるか?」
マリーナが取り出したのは、紺色の布で包まれたもの。
テーブルの上で包みを開くと、小さな弁当箱が現れた。
「なんですか、それ」
万が一のことを考えて、一応確認をとるために裕真は尋ねた。
「これが弁当以外のなにかに見えるなら、視力の矯正手術をオススメするね」
「はあ……マリーナさんの弁当、ですか」
裕真の表情に、極めて色濃い怪訝が浮かぶ。
「なにか言いたそうだな?」
「いや、そんなことありませんよ。ただ、美味いか不味いかの両極端な可能性しか見えないんです……」
「失礼だな」
マリーナがおもむろに弁当の蓋を取る。
意外にも、中身は弁当らしい弁当だった。多少質素だが、それでも十分美味しそうに見える。
「……それじゃあ、ちょっと摘まませてもらいます」
興味に抗えず、裕真は身体を起こすと、弁当の中からウィンナーを一つ摘み、口に放り込んだ。
もしかしたら中にネジの一本や二本入っているのでは、などという心配を真面目にしていた裕真だが、その味覚には予想の斜め上をいく味が広がった。
「……美味い」
「なんで悔しそうなんだ、オマエ。そんな顔で美味いとか言われても、少しも嬉しくないな」
「妹の弁当より美味い……」
そう言う裕真の表情は痛切だった。
なにか、そう。認めたくない現実を無理やり突きつけられたかのような。
「オマエの妹と比べたら、多分殆どの女が美味い弁当を作れるぞ。というか、比較対象になるのか、あれは」
気の毒そうに俯く裕真の肩を叩いて、マリーナも自分の弁当を摘んだ。
どうやら納得のいく出来だったらしく、彼女は一つ頷いた。
「……まあ、あれを笑顔で食えるオマエのシスコン根性は大したものだと思うがね。今まで何回、腹痛で倒れたのだったか」
「シスコン言わんでください……これ、いいですか?」
「本当の事だろうに。あと、好きに持っていけ」
裕真は二つあった握り飯の片方を手にとり一口咀嚼してから、憮然と首を振った。
「人よりもちょっと妹のことを大切にしてるだけじゃないですか」
「どこがちょっとなものか。その大切にする度合いがオマエの場合は凄いことになってるんだよ。休日には絶対一緒にウィンドウショッピングとか、オマエもうそれは恋人じゃないのか」
マリーナも握り飯を口に運ぶ。
「冗談。あんなちんちくりんじゃ、妹としてならともかく、女としては好きになりませんよ。そもそも、家族ですし」
「家族、ね」
「なんですか、その含みのある言い方」
「いや。気にしないでいいよ」
マリーナは握り飯をさっさと咀嚼して、指さきについた米粒を舐めとる。
「ああ、そういえば、そろそろかな」
「はい?」
裕真が握り飯の最後の一口を口に放り込みながら、マリーナの呟きに反応した。
「ちょっと人を呼んであるんだ。もうやって来る頃だろう」
丁度、その時だった。
応接室のドアがノックされた。