第1章 目覚めたら草原だった件について
こんにちは
意識が浮上する感覚には、もう慣れていた。
三度目の転魂だ。一度目ほどの不安はないし、二度目ほどの新鮮さもない。ああ、またこの感じか、という程度のものだ。
とはいえ——今回の転魂は、ちょっとだけ特別だった。
目覚めた先の時代には、量子コンピュータの第七世代が実用化されているはずだし、火星への定期便もそろそろ就航すると聞いていた。あと、ネズミの国に新しいエリアが三つ同時にオープンする。それだけは死ぬ前に体験しておきたかった——いや、正確には、転魂前に予約しておいた。
だから、早く目を覚ましたい。
私は意識の中で、いつものルーティンを実行した。
——イオ、現状確認。
イオ。私の人体融合AIだ。身体に統合された演算パートナーで、転魂のたびに新しい身体へダウンロードされる、いわば相棒のようなもの。目覚めたらまずイオに現状確認。転魂経験者なら誰でもやる、ごく当たり前の手順である。
普段なら、意識が浮上した瞬間にはもうイオが起動していて、「おはようございます。転魂プロセスは正常に完了しました。現在の日時は——」と淡々と報告してくるものだ。
だが。
『……起動中です。少々お待ちください』
遅い。
転魂後のイオの起動に待ち時間が発生するのは、三回の経験の中で初めてだった。ちょっとした違和感が、意識の隅に引っかかる。
とはいえ、まぁ、焦ることもない。機械だって調子の悪い日くらいあるだろう。私はぼんやりと、目覚めたらまず何をしようか考えていた。ネズミの国の予約確認。火星便の空席状況。それから——
『起動完了しました。——申し訳ございません、いくつかご報告があります』
おお、来た来た。
『転魂プロセスのログに異常が検出されています。また、現在地の特定ができません。既知のネットワークへの接続にも失敗しています』
「…………は?」
さすがに目を開けた。
そして、私の視界に飛び込んできたのは——転魂施設の清潔な白い天井でも、最新式のリカバリールームでもなく。
見渡す限りの、草原だった。
青い空。白い雲。遠くに鬱蒼とした森。もっと遠くに、山脈。空気がやたらと澄んでいて、風が草を揺らす音が聞こえる。
……なんだこれは。
「VRの可能性は?」
私は努めて冷静に尋ねた。三回も人生をやっていると、想定外の事態にもそれなりに耐性がつく。パニックは何も解決しない。まず情報収集。これは転魂経験者としての基本だ。
『身体の感覚フィードバックが実体と一致しています。触覚、嗅覚、固有受容感覚——いずれも仮想環境の特徴を示していません。VRではないと判断します』
「じゃあ、ここどこ?」
『不明です』
不明。
イオが「不明」と言った。この言葉の重みは、この時代に生きている人間にしかわからないだろう。
西暦2700年。人類は、わからないことがほとんどなくなった時代を生きている。AIに聞けば、たいていのことには答えが返ってくる。天気、政治、量子力学の最新論文、隣の家の犬の名前——聞けばわかる。それが当たり前の世界で、イオが「不明です」と言うのは。
ちょっと、いやかなり、怖い。
「…………」
私は草原の真ん中で、しばらく空を見上げていた。
「……転魂プロセスのログを出してくれ」
気を取り直して、そう指示した。何が起きたのか。転魂のどの段階でトラブルが発生したのか。せめてそれがわかれば、対処の糸口くらいは——
『転魂プロセス中はシステムが停止するため、ログは記録されていません』
「……だよね」
知ってた。知ってたけど、聞いてみたかった。
転魂——正式名称「|魂魄保全及び人体更新に係る移管手続《こんぱくほぜんおよびじんたいこうしんにかかるいかんてつづき》」。市役所の窓口でマイナンバーカードを提示して、iPS細胞の発展技術で全盛期の身体を生成してもらい、魂を移管する。わかりやすく言えば——転生だ。
長ったらしい正式名称を覚えている一般市民はまずいない。みんな「転魂」と呼ぶ。「来月転魂の予約入れてるんだ」「あ、そうなの。じゃあ送別会やらなきゃね」——その程度のカジュアルさだ。
そして、転魂のプロセス中、魂が旧い身体から新しい身体に移管される間、人体融合AIは完全に停止する。だからログがない。何が起きたのか、イオにもわからない。
「つまり、手がかりゼロ?」
『現時点では、はい。申し訳ございません』
「…………」
私はゆっくりと立ち上がった。
そこで初めて気づいた。身体が、軽い。
見下ろすと——皺だらけだったはずの手が、若々しい。関節の痛みもない。背筋がすっと伸びる。息を吸うと、肺の隅々まで空気が行き渡る感覚がある。
まるで二十代の身体だ。
転魂は成功している——少なくとも、身体の再構成は。全盛期の肉体を再現するという、転魂本来の機能は正常に動作したらしい。ただ、目覚めた場所が、まったく予定と違う。
「……まぁ、三回目の人生だ。想定外にもそれなりに慣れてるよ」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は草原を歩き出した。
とりあえず、あの森の方に行ってみるか。人里が近くにあるなら、森の縁に沿って街道があるかもしれない。三回人生をやってわかったことがある。困ったときは、まず歩け。座っていても状況は変わらない。
——と、歩き始めて十分ほどで、状況は変わった。
「……なんか見えるんだけど」
森の手前に、煉瓦造りの建物が点在していた。煙突から煙が上がっている。馬車が轍を刻んだ道。革鎧を着た人間が歩いている。
中世ヨーロッパ——いや、なんだろう、こういうの。若い頃に読んだ小説や、VRゲームで見たことがある雰囲気だ。
「イオ、あの建造物の分析は?」
『建築様式は地球の中世ヨーロッパに類似していますが、完全な一致は見られません。使用されている建材の一部に、既知のデータベースと一致しない鉱物が含まれています』
「……既知のデータベースと一致しない」
『はい』
「もう一回聞くけど、ここ、地球?」
『判断に必要な情報が不足しています。ただし——地球ではない可能性を、排除できません』
地球ではない可能性。
……えっと。
つまり、異世界?
「…………はは」
乾いた笑いが漏れた。
いや、待て。落ち着け。三回分の人生経験を総動員しろ。
「……帰りたいんだけど」
『承知しました。帰還について検討します』
イオが少し間を置いた。演算しているのだろう。
『現状を整理します。身分証明:なし。通貨:なし。土地勘:なし。この世界に関する知識:なし。帰還手段の心当たり:なし。——帰還方法の調査には、長期的な活動基盤が必要です』
「そりゃそうだ」
『この世界で最も効率的に情報と収入にアクセスできる手段を検索したところ——冒険者ギルドへの登録が最適解かと』
「……は?」
冒険者ギルド?
「いま検索って言った? ネットワーク繋がってないのに、何を検索したの?」
『到着後の周辺環境スキャンで取得した視覚・聴覚情報を解析しています。先ほどの集落に「冒険者ギルド」と読める看板を確認しました。また、住民の会話の断片から、冒険者ギルドが情報集約・就労仲介・身分保証の機能を持つ組織であると推定しています』
「……いつの間にそんなことを」
『起動直後から継続的にスキャンしています。歩行中の会話も、有効な情報収集の機会ですので』
……こいつ、いつも通りだな。
私が呆然としている間にも、淡々と仕事をしている。なんだか少し安心した。
異世界だろうがなんだろうが、イオが動いている限り、まぁなんとかなるか。三回目の人生で学んだことがもうひとつある。困ったときは、頼れるものに頼れ。見栄を張っても腹は膨れない。
「……わかった。じゃあ、その冒険者ギルドとやらに行ってみるか」
『賢明なご判断かと存じます』
「褒められてる気がしない」
私は——いや。
若い身体で草原を歩きながら、ふと思った。
この身体、悪くない。膝が痛くない。息切れしない。風が気持ちいい。老人の身体では忘れていた感覚が、全身に蘇っている。
なんだか——ちょっとだけ、悪くないかもしれない。
俺は、中世風の集落に向かって歩き出した。
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