深淵をのぞきすぎて「深淵」とマブダチになった元勇者。闇落ち後のスローライフが快適すぎる
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」(ニーチェ)
------------ 勇者、深淵に捨てられる ------------
「さらばだカイル。お前は強くなりすぎた。……いや、薄気味悪くなりすぎたんだ」
背後で、かつての仲間たちが魔法の障壁を閉じる音が響いた。
ここは世界の最果て、『深淵』。一度落ちれば光すら届かず、精神が崩壊して発狂死すると言われる呪われた奈落だ。
勇者として魔王を倒した俺、カイルに与えられた報酬は、王からの金一封でもなく、姫との婚姻でもなく、この「暗闇への追放」だった。
「強くなりすぎた、か」
俺は真っ暗闇の中で独りごちた。
魔王を倒すために、俺はあらゆる禁忌の魔導書を読み、呪いを喰らい、文字通り「深淵をのぞき続けて」きた。その結果、俺の瞳はいつの間にかどろりとした漆黒に染まり、立ち姿だけで赤ん坊が泣き出すような禍々しさを纏っていたらしい。
正義の味方には、不気味な男は必要ないというわけだ。
「……さて、ここが噂の地獄か。どんな化け物が襲ってくるのかね」
俺は腰の聖剣を引き抜き、暗闇の奥を睨みつけた。
ニーチェの言葉だったか。「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」なんてのは。
案の定、闇の向こうから「何か」が這い寄ってくる気配がした。
数万、数十万の「瞳」が一斉にこちらを凝視しているような、凄まじいプレッシャー。並の精神なら、この瞬間に発狂して終わっていただろう。
だが、俺はもう何年もこれ(深淵)と見つめ合ってきたんだ。今さら怖くもない。
「おい、見てるんだろ。さっさと出てこいよ。一人で死ぬのは退屈なんだ」
俺が投げやりにそう言った、その時だった。
------------ 深淵、まさかのデレ ------------
『……えっ、マジでこっち見れるの?』
闇の中から、妙に親しみやすい声が響いた。
巨大な、山のような質量を持った漆黒の塊が、ズルリと俺の前に姿を現す。それは無数の触手と、宇宙のような銀河を湛えた瞳を持つ、この世の理を超越した「概念のバケモノ」だった。
「しゃべった……?」
『いや、だって君さぁ。地上にいた頃から毎日毎日、熱烈な視線を送ってくれてたじゃん。「あ、今日も深淵見てる……恥ずかしい……」って思ってたんだよ、私』
深淵が、もじもじと触手をうねらせた。
……待て。ニーチェはそんなこと言ってなかったぞ。
『私、ここ数万年ずっとボッチだったからさ。君みたいな「深淵ガチ勢」が来てくれて、実はちょっと嬉しいんだよね。え、何? 追放されたの? 災難じゃん。よかったらお茶でも飲んでく?』
ズルリ、と触手の一本が差し出された。その先には、なぜかどこかの国から流れ着いたであろう最高級のティーカップが握られていた。中身は……明らかに魔力が飽和して黒光りしているが、いい香りがする。
「お前……いい奴だな」
『「深淵」って呼ぶのも硬いから、シンちゃんとかでいいよ。カイルくん』
こうして、俺と深淵の、奇妙な共同生活が始まった。
------------ 闇落ちスローライフの始まり ------------
地上では、俺を捨てた王国が魔族の残党に襲われて大パニックになっているらしいが、知ったことではない。
深淵の中は、驚くほど快適だった。
まず、住居に困らない。
シンちゃんにお願いすれば、闇をこねて自分好みの城を一瞬で作ってくれる。
「内装はミニマリストっぽくしてくれ」と言えば、最高にクールな黒の大理石の寝室が完成した。
食事も最高だ。
地上では高価な「マナの果実」も、ここではシンちゃんが「ゴミ箱から拾ったデバッグデータだよ」と言って、おやつ感覚で山盛り出してくれる。一切の不純物がない純粋魔力は、勇者時代の体調不良をすべて吹き飛ばした。
「シンちゃん、今日もいい闇だな」
『でしょー? 明日はあっちの「虚無」の層までピクニック行こうよ』
俺はもう、眩しい太陽の下で無理に笑い、無能な王に膝をつく必要はない。
漆黒の寝室で昼まで寝て、午後はシンちゃんと哲学的な議論(「人間ってなんであんなにすぐ裏切るの?」等)を交わし、夜は高濃度の魔力風呂に浸かる。
これぞ、究極の闇落ちスローライフ。
するとある日、深淵の結界を無理やりこじ開けようとする気配がした。
------------ 遅すぎる救出劇 ------------
「カイル! カイル、生きているか! 我々が悪かった、戻ってきてくれ!」
障壁の隙間から、かつての仲間——魔導師の女と、聖騎士の男が叫んでいた。
彼らの顔はボロボロで、服も裂けている。魔王軍の残党に勝てず、いよいよ全滅しかけて、俺という「兵器」を回収しに来たのだろう。
俺はシンちゃんの触手に揺られながら、優雅に黒い紅茶を啜り、闇の窓から彼らを見下ろした。
「カイル! おお、その姿は……やはり深淵に汚染されてしまったのか! 可哀想に……今すぐ浄化して、もう一度戦わせてやるからな!」
聖騎士が、勝手な憐れみを込めて叫ぶ。
俺は一息ついて、シンちゃんと目を合わせた。シンちゃんは『どうする? 食べちゃおうか?』という顔でウズウズしている。
「……帰るわけないだろ。あんなブラックな職場」
俺は氷のように冷たい声で告げた。
「シンちゃん、あいつら『深淵をのぞきすぎ』だ。ルールを教えてやれよ」
『了解! 視線には責任を持たなきゃね!』
次の瞬間、シンちゃんの無数の瞳が一斉に開眼した。
「ギャアアアアア!」という悲鳴が障壁の向こうで響き、彼らは正気を失って逃げ出していった。もう二度と、ここへ近づく勇気はないだろう。
「ふぅ。ティータイムの邪魔をされたな」
『ごめんねカイルくん。お詫びに、明日は「冥府」の王からぶんどった極上のワイン開けちゃうね』
俺は、暗闇の中で穏やかに笑った。
深淵は、のぞくものではない。住むものだ。
俺の第二の人生は、まだ始まったばかりである。
最後までお読みいただきありがとうございます! 「深淵をのぞく時、深淵もまた〜」という有名なフレーズを、もし深淵が「寂しがりやの女の子(概念)」だったら……という妄想で書いてみました。 面白かったら、評価やブックマークをいただけると「シンちゃん」が喜びます!




