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異世界恋愛短編集

王太子なら浮気をしてもよいと?

作者: 百鬼清風

 エマ・リンドグレーンという名は、王城の夜会において紹介を要しない部類に入る。西部伯爵家の長女であり、王太子アレクサンダーの婚約者という立場にある以上、誰がどこで視線を向け、どの瞬間に囁きが生まれるか、そのすべては慣れ親しんだ光景の延長にすぎなかった。


 婚約が発表されてから今日まで、私は常にその肩書きと共に扱われてきたし、それを重荷だと感じたことはない。曖昧な位置に置かれるより、名指しで役割を与えられる方が、はるかに理解しやすい世界だと知っていたからだ。


 だからこそ、王城の大広間に足を踏み入れた瞬間、視線の集まり方に生じた微妙なずれを、無視することはできなかった。


 中央へ向かう視線の先に立っていたのは、王太子アレクサンダー殿下。そこまではいつも通りだったが、その隣に立つ人物が私ではないことを確認した瞬間、胸の奥で判断が形を取った。


 殿下の腕に寄り添っていたのは、マルグリット・フェルナー。侯爵家の令嬢で、ここ半年ほどで急に社交の場へ顔を出すようになった人物だ。淡い色のドレスは彼女の年若さを引き立てる一方で、誰かの隣に立つことを前提に仕立てられており、その距離感が偶然の結果ではないことは、誰の目にも分かった。


 周囲の反応も、隠しようがない。

 一瞬だけ私を見て、すぐに殿下とマルグリットへ視線を戻す。その往復に含まれる興味と探りは、夜会という場においてはごく正直なものだった。



 形式的な挨拶は滞りなく進んだ。

 私は伯爵家の令嬢として、殿下は王太子として、マルグリットは侯爵家の令嬢として、それぞれに求められる振る舞いを選び、言葉を交わす。その一つ一つに破綻はなかったが、殿下の視線が私ではなくマルグリットへ向かう頻度が、あまりにも多すぎた。


 音楽が切り替わる合間、殿下は私の前に立ち、親しげな距離を保ったまま声をかけてきた。


「エマ、少し話せるかな」


 その調子は、重大な決断を告げるものではなく、後で理解してもらえると信じている者の軽さを含んでいた。


「ええ、構いませんわ」


 返答は短く、余分な感情を乗せない。

 ここで崩れる理由は、まだない。



 殿下は周囲を意識するように言葉を選び、それでも深刻さを装うことなく口を開いた。


「少し距離を置こうと思うんだ。今は、色々と考えたい時期だから」


 距離を置く。

 その言葉が持つ曖昧さと無責任さを理解しないほど、世間知らずではない。


「婚約は保留にしておきたい。でも、立場が変わるわけじゃない」


 その条件が意味するところは明白だった。

 手放さず、縛り続ける。選ぶ側であり続けるための都合のいい提案だ。


 問いを選ぶ前に、横から声が差し込まれた。


「殿下は、とてもお優しい方ですわ」


 マルグリットだった。

 柔らかな笑みを浮かべながら、私に向けて一歩踏み出し、その距離を当然のものとして詰めてくる。


「きちんと話し合う時間を作ってくださるのですもの。選ばれる側としては、ありがたい限りですわ」


 その言葉が落ちた瞬間、周囲の理解が一斉に進んだのを感じた。

 彼女自身が、自分を「選ばれた側」だと位置づけていること、そしてそれを疑っていないことが、隠しようもなく示されたからだ。


 アレクサンダー殿下は止めるでもなく、苦笑を浮かべるだけで、その発言を否定しなかった。


 その態度で、十分だった。


「それ、本気で言っているのですか」


 私が口にしたのは、それだけだった。

 説明も非難も添えない。ただ、確認に必要な問いを置く。


 殿下は一瞬目を瞬かせ、それからいつもの調子で笑った。


「そんなに構えなくていいよ。大げさにする話じゃない」


 その軽さに、周囲が何を理解したかを、私が言葉にする必要はなかった。

 選択は、すでに一つに定まっている。



 あの一言が投げられてから、夜会の流れそのものが変わったと断言するほど大げさな変化は起きていない。音楽は続き、杯は満たされ、笑顔も行き交っている。ただ、そのすべてが、ほんの少しだけ別の意味を帯び始めていることを、私は確かに感じ取っていた。


 問いは短く、ただの確認だったはずだが、受け取る側にとっては、予想外の重さを持っていたらしい。アレクサンダー殿下は、笑みを崩さぬまま話題を変えようとし、その隣に立つマルグリットは、先ほどよりも一層、殿下の側に寄り添う姿勢を強めていた。


 その距離感が、周囲にどう映っているかを考えないほど、彼女は鈍くない。むしろ逆で、自分がこの場でどう見られているかを理解したうえで、その位置を選んでいる。だからこそ、そこに含まれる意図は分かりやすかった。


 選ばれた側であるという主張。

 それを、誰に対して示しているのかも含めて。



 殿下は私に向けて、場を取り繕うような言葉を重ねた。


「今夜は楽しもう。詳しい話は、また改めて」


 その提案が、こちらの意向を確かめるものではなく、決定事項を後回しにするための方便であることは明白だった。距離を置くと言いながら、何をどう変えるつもりなのかを示さず、ただ受け入れられる前提で話を進めようとする姿勢に、迷いは感じられない。


 その確信が、胸の奥で判断を一段進めた。


「改めて、とは」


 私の問いは短く、語尾を上げる必要もなかった。

 説明を求めているのではなく、続きを促しているだけだ。


 殿下は少しだけ眉を寄せ、それから困ったように笑った。


「だから、婚約はそのままで、今は少し距離を、という話だよ」


 言い直したところで、内容が変わるわけではない。

 むしろ、その繰り返しが、彼自身の理解の浅さを際立たせていた。



 マルグリットは、私たちのやり取りを黙って見ているつもりでいながら、視線も表情も、まったく隠せていなかった。期待と高揚が混じった色が、そのまま顔に浮かんでいる。


「殿下は、誰にでも誠実であろうとなさる方ですわ」


 再び、彼女が口を挟んだ。

 今度は、私に向けた言葉であることを、隠そうともしていない。


「ですから、こうして時間を置くという判断も、軽い気持ちではありませんの。理解して差し上げるのが、相応しい立場というものではなくて?」


 その言葉選びに含まれているのは、善意の装いをした優越感だった。理解する側に立てる自分、受け入れる側でいられる自分、その位置を確保できているという自信が、遠慮なく滲み出ている。


 殿下は否定しなかった。

 それどころか、助け舟を期待するような視線を、私に向けてきた。


 この場で、私が納得を示せば、すべては丸く収まると信じている視線だ。



 胸の奥で、判断が完全に定まった。

 曖昧な関係を最も嫌うという自覚は、こういう瞬間のためにある。


「距離を置く、というのは」


 私は言葉を選び、必要な分だけを口にした。


「婚約者として背負ってきたものも、同時に手放す、という理解でよろしいのですね」


 説明はしない。

 何を背負ってきたか、どんな制限を受け入れてきたかを、列挙するつもりもない。それらはすでに、この場にいる全員が知っている前提だからだ。


 殿下は一瞬、言葉を失ったような顔をした。

 その反応が、想定外であったことを、何よりも雄弁に物語っている。


「いや、そういう意味じゃなくてだね」


 慌てて言葉を重ねる様子は、選ぶ側であるという自負が、ここで揺らいだ証だった。


「立場はそのままだし、制限も、急に変える必要はないだろう?」


 その一言で、周囲の理解がさらに進んだ。

 距離を置くと言いながら、何も変えるつもりがない。その矛盾を、殿下自身の口で示してしまったからだ。



 マルグリットは、そのやり取りを聞きながら、わずかに表情を変えた。

 期待の色に、焦りが混じり始めている。


「でも、それでは殿下がお困りになるのではありませんか」


 彼女は、殿下の腕に指先を添えながら、私ではなく殿下を見上げた。


「優しさで選んでくださる方ですもの。すべてを一度に決められないお気持ちも、分かって差し上げるべきだと思いますわ」


 その言葉は、庇っているようでいて、実際には殿下の立場をより悪くしていた。決められない、選べない、責任を持てない、そのすべてを公然と肯定してしまったからだ。


 殿下は気づいていない。

 その無自覚さこそが、致命的だった。



「確認したかったのは、それだけです」


 私はそれ以上、言葉を重ねなかった。

 線引きは、すでにこの場に置かれている。


 受け入れるかどうかは、相手の選択になる。

 だが、その選択が、どんな意味を持つかについて、こちらが説明する必要はない。


 周囲の視線は、完全に殿下とマルグリットへ向けられていた。

 誰もが理解し始めている。曖昧にしたのが誰で、都合のいい位置に留まろうとしているのが誰なのかを。


 夜会は続く。

 だが、同じ夜会では、もうなくなっていた。



 確認は済んだ。

 問いを置き、線を示し、それ以上を語らないという判断は、この場において最も適切な形を取っている。そう理解していても、夜会という場がすぐに終わるわけではなく、音楽も談笑も続いていく以上、状況だけが先に進んでいく。


 ただし、その進み方は、先ほどまでとは明らかに異なっていた。


 アレクサンダー殿下は、私の前から離れたあとも、どこか落ち着かない様子を隠しきれていなかった。笑顔は保たれているが、視線の動きが定まらず、杯を置く指先にも、余計な力が入っている。


 マルグリットはというと、殿下の隣という位置を手放す気配はなく、むしろ先ほどよりもその距離を縮めていた。選ばれた側であるという意識が、彼女の振る舞いを強く支えているのが、遠目にも分かる。


 だが、その二人を取り巻く空気は、確実に変質していた。



 最初に変わったのは、周囲の令嬢たちの視線だった。

 好奇と憧れが混じっていたものから、計測と判断へと移り変わる。誰が優位に立っているのか、誰が場を動かしているのかを見極めようとする視線だ。


 次に変わったのは、会話の内容だった。

 これまで殿下を中心に回っていた話題が、少しずつずれ始め、私に声をかけてくる者が増えていく。その問いかけは、慰めでも探りでもない。今、何が起きているのかを、当事者の一人として確認したいという意図が、そのまま表れている。


「エマ様、今のお話……少し驚いてしまって」


 私は短く頷くだけで、詳細を語らない。

 説明をすれば、それは立場の整理になるが、その役割は私のものではない。


「そう見えましたか」


 それだけで十分だった。

 それ以上を求める者はいない。求める必要がないほど、場が理解し始めている。



 一方で、殿下の周囲では、別の種類の空気が生まれていた。

 先ほどまで気軽に声をかけていた貴族たちが、距離を測り直すような態度を見せ始めている。笑顔はあるが、踏み込まない。軽口はあるが、同調しない。


 それは、判断を保留するための距離だった。


 マルグリットは、その変化に気づいていないわけではない。ただ、それを自分にとって不利な兆候として受け取っていないだけだ。


「殿下、皆さま、少し誤解なさっているのではありませんか」


 彼女は、集まりの中心で、はっきりとそう口にした。

 柔らかな声で、しかし周囲に届く音量で。


「殿下は、誰かを傷つけるようなお方ではありません。きちんと話し合うために、時間を置こうとお考えになっただけですわ」


 その言葉は、庇いであると同時に、断定でもあった。

 時間を置く、話し合う、その前提に立てるのは、選ばれた側だけだという断定。


 視線が、私へ向けられる。

 反論を期待する視線。否定を求める視線。


 だが、ここで語る必要はない。



 殿下は、マルグリットの言葉に頷き、場をまとめようとした。


「そうなんだ。少し整理したいだけで、誰かを切り捨てるつもりはない」


 その言い方が、決定的だった。


 切り捨てない。

 つまり、保持する。

 だが、選択を先送りにしたまま。


 その瞬間、周囲の理解が一段深まったのを、はっきりと感じ取ることができた。曖昧にしたのが誰で、その曖昧さを当然のものとして扱っているのが誰なのか、その答えが揃ったからだ。



 私は、殿下の方を見た。

 視線を向けるだけで、十分だった。


「今のお言葉は」


 問いは短い。


「どちらを選ぶかは、まだ決めていない、という意味でしょうか」


 説明は添えない。

 詰めることもしない。

 ただ、言葉の意味を、そのまま差し出す。


 殿下は、一瞬言葉に詰まった。

 それは、答えがないからではない。答えを持っていないまま、ここまで来てしまったからだ。


「いや、そういうわけじゃ……」


 否定しようとするが、続きが出てこない。

 その沈黙を、誰かが補うことはない。


 マルグリットは、殿下の腕にすがるようにして言った。


「殿下は、慎重でいらっしゃるだけですわ。すぐに決められないほど、真剣で……」


 その言葉が、最後の一押しになった。

 慎重、真剣、決められない。そのすべてが、選ぶ側の論理であり、選ばれる側の都合ではない。



 誰かが、小さく声を呑む音が聞こえた。

 別の誰かは、杯を置く動作を止めた。


 理解が、共有された瞬間だった。


 私はそれ以上、言葉を重ねなかった。

 ここで線を引き直す必要はない。すでに、場そのものが線を引いている。


 曖昧な関係を望んだのは誰か。

 その結果、今どちらが評価され、どちらが測られているのか。


 夜会は続いている。

 だが、関係はもう、元には戻らない地点に立っていた。



 場が理解してしまったあとの夜会ほど、居心地の差がはっきり出るものはない。

 同じ音楽が流れ、同じ灯りが照らしているにもかかわらず、立っている位置によって、受け取る視線の質がまるで違ってくる。


 私の周囲には、人が集まり始めていた。

 それは慰めでも同情でもなく、確認に近い距離感だった。今、どちら側に立つべきかを測るための、静かな接近と言い換えてもいい。


「エマ様、少しお話を」


 声をかけてきたのは、以前から面識のある夫人で、軽率な噂話を好まないことで知られている人物だった。その選び方だけで、今の流れが偶然ではないことを理解する。


「今夜は、色々と驚くことが多うございますね」


「そうでしょうね」


 それ以上は言わない。

 彼女も、それで十分だと理解している。


 こちらが何も説明しなくても、場が勝手に整理を進めていく。その感覚は、初めてではないが、これほど明確に現れるのは久しぶりだった。



 一方、アレクサンダー殿下の周囲では、別の種類の変化が起きていた。

 先ほどまで自然に輪を作っていた人々が、理由をつけて離れ始めている。杯を取り替えに行く者、知人を見つけたと言って場所を移す者、その動きはどれも丁寧で、しかし戻ってこない。


 殿下は気づいていないわけではない。ただ、その意味を正確に受け取れていない。笑って手を振り、冗談めいた言葉を投げかけることで、元に戻せると信じている。


「いやあ、今日は皆、忙しそうだな」


 そう言って笑う声は、以前と変わらない調子を保っていたが、応じる者の数が明らかに減っている。


 マルグリットは、その変化にようやく不安を覚え始めたらしく、殿下の腕から離れず、視線だけを忙しなく動かしていた。


「殿下、少しお疲れではありませんか」


 気遣いの言葉を選んだつもりなのだろうが、その声には焦りが滲んでいる。選ばれた側であるはずの位置が、思ったほど安定していないことに、ようやく気づいたのだ。


「大丈夫だよ。これくらいで疲れるわけがない」


 殿下は笑って答えるが、その表情には、先ほどまでの余裕が見えなくなっていた。



 次に動いたのは、若い貴族たちだった。

 彼らは、殿下の近くに寄ることを避ける一方で、私のいる方へと視線を向け、距離を測ってくる。その様子は露骨ではないが、判断の方向性としては十分に分かりやすい。


「エマ様、今後のご予定は」


 そう尋ねてきた青年は、言葉を選びながらも、はっきりと私を見ていた。誰に向けて声をかけるべきかを、もう迷っていない目だった。


「今夜の予定でしたら、この夜会までですわ」


 それ以上を含ませない返答に、彼は軽く頷いた。

 聞きたいのは予定そのものではなく、立ち位置なのだと、お互いに分かっている。



 その様子を、殿下が見逃すはずもなかった。

 視線がこちらに向けられ、少しだけ苛立ちを帯びた色が浮かぶ。


「エマ、随分と注目されているじゃないか」


 その言い方には、冗談めいた響きがあったが、どこか引っかかるものも含まれている。自分の立場が揺らいでいることを、ようやく実感し始めた証拠だ。


「そう見えますか」


 返したのは、それだけだった。

 状況を説明する役目は、こちらにはない。


「さっきの話だが」


 殿下は声を落とし、親しげな距離を取ろうとした。


「誤解されると困る。距離を置くと言ったのは、あくまで一時的な話で……」


 その続きが、聞こえなかったわけではない。

 ただ、聞き取る必要を感じなかった。



 マルグリットが、その会話に割って入る。


「殿下、皆さまが見ていらっしゃいますわ」


 彼女は笑みを作りながら、周囲を意識した視線を送った。


「今は、楽しい夜会なのですもの。重い話は、後になさっては」


 その言葉は、場を和ませるためのものではなく、今の状況から目を逸らすためのものだった。だが、すでに視線の多くは、和ませる必要がない地点に達している。


 殿下は頷き、話を切り替えようとしたが、その動き自体が、周囲に別の印象を与えてしまった。


 問題を笑って流そうとしている。

 決めるべきところで、決めていない。


 その評価が、音を立てずに積み上がっていく。



 気づけば、殿下の周囲には、マルグリット以外、ほとんど人がいなくなっていた。

 それは排除ではない。選別だ。


 誰も声高に何かを言わない。

 誰も断罪しない。

 ただ、距離の取り方が変わっただけだ。


 私の側では、逆に、人の流れが止まらない。

 それは好意というより、確認と期待が混じったものだったが、どちらにしても、評価が移動していることに違いはなかった。


 殿下は、その光景を見て、ようやく理解し始めたようだった。


「……思ったより、大事になっているな」


 独り言のように呟いたその言葉が、すべてを物語っている。

 ここまで来ても、原因が自分にあるとは、まだ完全には結びついていない。



 夜会は終盤に差しかかっていた。

 別れの挨拶が交わされ、名残を惜しむ声が上がる中で、殿下の立場は、明確に変わっていた。


 選ぶ側としての余裕は消え、

 保留という言葉で留めておける関係は、すでに存在しなくなっている。


 私は、その様子を見届けるだけで、何も付け加えなかった。

 ここで言葉を重ねれば、それは説明になる。


 必要なのは、結果だけだ。



 王城の小広間に通された時点で、この場が穏便な話し合いのために用意されたものではないことは分かっていたが、それでも多くの者が言葉を控え、まず王太子の出方を待つ構えを取っていたのは、ここが彼の失言を取り消す場になる可能性を、まだ完全には捨てきれていなかったからだ。


 アレクサンダー殿下は、昨夜と同じ令嬢を隣に置いたまま現れ、その配置を改めるそぶりすら見せずに席へ進み、あくまで自然な流れであるかのように振る舞いながら、こちらに視線を向けて小さく笑った。


「昨日は、少し話が大きくなったな。だが誤解してほしくない、あれは本気の話じゃない」


 その言い出しに、遮る者はいない。

 誰もが、続きを聞く気でいる。


「結婚前くらい、少し羽目を外したって構わないだろう。男なら誰だってそういう時期はあるし、それで婚約を揺るがすほどの問題になるとは思っていなかった」


 殿下は、悪びれた様子を見せなかった。

 それどころか、自分の感覚が一般的であると疑っていない口ぶりだった。


「最終的に結婚する相手は変わらない。だから、あの場では少し距離を置くと言っただけだし、君に我慢してもらえれば済む話だと考えていた」


 我慢。

 羽目を外す。


 その二つを、同じ文脈で並べられる感覚が、殿下の中では少しもおかしくないのだと、はっきり分かる言い方だった。


 隣に立つ令嬢が、殿下の言葉に頷き、場を和らげるつもりなのか、あるいは本心からなのか分からない笑みを浮かべて口を挟む。


「殿下のおっしゃる通りですわ。結婚が決まっているからこそ、少しの自由が許される、それくらいの余裕がないと務まらない立場でもありますもの」


 その言葉は、殿下を庇うために差し出されたものだったが、同時に、殿下の発言を補強し、固定する役割も果たしていた。


 つまり、二人の認識は一致している。

 婚約者がどう感じるかよりも、王太子がどう振る舞いたいかが優先されるべきだ、という点で。


 殿下は満足そうに頷き、こちらへ向き直った。


「そういうことだ。だから、昨日の件は忘れてくれ。君と結婚するという話に変わりはない」


 ここで初めて、口を開いた。


「殿下」


 声を張る必要はなかった。

 問いは短く、しかし逃げ場を残さない形で置く。


「今のお話はすべて、婚約者に我慢を求める程度の軽さだと、本気で思われているのですね」


 殿下は、ためらいなく頷いた。


「もちろんだ。それくらいで騒がれては困る」


 その即答が、この場にいる全員に届いた。

 言い換えも、修正もない。

 これが殿下の判断基準なのだ。


「では」


 続ける言葉は、一つで足りる。


「その軽さを当然とする方を、次代の王として支える理由は、こちらにはありません」


 非難でも感情でもない。

 価値判断を、そのまま口にしただけだった。


 殿下の表情が固まる。

 否定しようとして言葉を探し、しかし直前の発言が邪魔をして、どこからも手を付けられない様子が、そのまま露わになる。


「話が飛躍している。少しの羽目外しを――」


「少し、なのですね」


 短く返す。

 それ以上は要らない。


 殿下自身が、軽い、少し、問題ない、と繰り返した。

 それを聞いた者たちが、どう受け取るかを、こちらが説明する必要はない。


 視線が動く。

 同情でも非難でもなく、判断のための視線が、殿下に集まっていく。


 王太子が浮気をしたからではない。

 王太子が、婚約と責任をその程度に扱えると、公の場で宣言したからだ。


 殿下は、ようやく理解したようだった。

 問題は行為ではなく、その軽さを当然とする姿勢そのものだったということを。


 だが、その理解は遅い。

 ここで覆せる評価ではない。


 この場で恥をかいたのは、婚約者でも、隣の令嬢でもない。

 軽い気持ちで済ませられると思っていた言葉を、そのまま受け取られた王太子だけだった。



 王城へ向かう馬車の中で、父が膝の上に置いた書類の束には封が施されておらず、そこに記された数字や契約名がすでに王城側にも共有されていることを示していたが、それは交渉材料というより、これまで伯爵家が国に差し出してきた重みを、今一度並べ直しただけのものだった。


 私の家は、国家にとって重要な存在だ。

 王国の水路、穀物の備蓄、遠方交易の保険、それらが滞りなく回るよう裏側を支える家であり、国が平時を装えるのは、帳簿の下で流れ続ける我が家の資金と信用が途切れないからだという事実を、王と側近は全員知っている。


 その家が、婚約について正式な異議を申し立てた。

 それが、今日の謁見の本質だった。


 謁見の間に入ると、玉座の前にはすでにアレクサンダー殿下が立っており、その後ろにマルグリット・フェルナーが控え、夜会で見た配置が意図的に再現されていることを理解したが、その並びは殿下に有利に働くためのものではなく、殿下がどの立場で何を選んだのかを、誰の目にも分かる形で固定するための配置だった。


 王は父に視線を向け、短く頷いた。

 それだけで、伯爵家がこの場に立つ理由が確認された。


 王は前置きなく問いを発し、夜会の場で殿下が口にした言葉を、自分の言葉で述べるよう求めたが、その声音には息子を諭す父の色はなく、国の歯車を点検する者の冷たさがあった。


「結婚前の軽い羽目外しです。婚約を壊すつもりはありませんでしたし、最終的に選ぶ相手は変わらないと考えていました」


 殿下はそう答え、婚約者に我慢を求めたのも事を荒立てないためだったと付け加え、王太子という立場であれば許容される範囲だと判断していたのだと、悪びれない調子で言い切った。


 王は頷かず、次にマルグリットへ視線を移した。


「そなたは、どう受け取っていた」


 マルグリットは一歩前に出て、礼を執り、殿下からは本気だと言われていたこと、自分は遊びではなく将来の話として受け止めていたこと、夜会で隣に立ったのもその延長だったことを、震えを抑えながら語った。


「殿下は、私には本気だと仰いました。いずれ正式な婚約者になると信じておりましたし、私自身も本気でした」


 殿下の「軽い羽目外し」と、マルグリットの「本気」は、その場に並んだ瞬間に両立しないものとして浮かび上がり、王が何かを言わずとも、どちらかが虚ろな言葉であることが、誰の目にも明らかになった。


 ここで父が一歩前へ進み、王に向けて書面を差し出した。

 その紙に記されているのは感情ではなく、契約の名称と数字、そして今後の更新時期だった。


「陛下」


 父の声は低く、穏やかだった。


「伯爵家は、次代の王に国家基盤を委ねられるかどうかを意見申し上げます。婚約を羽目外しと同列に扱い、婚約者に我慢を命じ、さらに別の令嬢に本気だと告げていた者を、次代の王として支えることは出来ますでしょうか?」


 その言葉は脅しではない。

 事実の提示だった。


 王は書面に目を通し、ゆっくりと息を吐いた。

 国の財と流通と信用、その要を担ってきた家が支えを引く可能性を示した以上、ここで情に流れる選択肢は存在しない。


 王は殿下を見た。


「王太子として問う。そなたの軽さは、国の重みを支えられるか」


 殿下は答えようとしたが、軽い羽目外しという言葉を取り消すことも、マルグリットへの本気を否定することも出来ず、どの言葉を選んでも伯爵家の要求を覆せないことを悟り、口を閉じた。


 王は立ち上がった。


「よって、アレクサンダーを王太子の位から解く」


 宣告は短く、即座だった。

 廃太子という言葉が落ちた瞬間、殿下の足元から、これまで当然のように続いていた道が消えた。


 父は礼を執り、こちらも同じように頭を下げた。

 勝ち誇る必要はなく、これは伯爵家の判断と、それを受けた王の決断が一致した結果にすぎない。



 数日後、屋敷に届いた書状は、隣国の王太子からのものだった。

 文面には、軽さではなく覚悟を重んじる姿勢に共感したこと、正式に会い、将来の話を進めたいという意向が簡潔に記されており、余計な甘言は一切添えられていなかった。


 父は書状を読み終え、こちらへ視線を向け、家として押しつけるつもりはないとだけ告げ、その判断を尊重する姿勢を崩さなかった。


 軽い羽目外しが切り捨てられ、

 重さを引き受ける覚悟が差し出された。


 選ばれるとは、そういうことだ。



 隣国の使節団が到着したのは、朝の光がまだ柔らかさを残している時刻で、儀礼としては十分に整えられていながら、過剰な装飾を避けた控えめな一行だったため、最初に感じたのは緊張よりも、相手がこちらの立場を試すつもりはないらしいという安堵に近い感覚だった。


 応接の間に通される前、父は短く一言だけ告げた。

 相手は若いが、王だ、立場で測るな、人で見ろ。


 その言葉が、これから向き合う相手の輪郭を、必要以上に誇張せずに受け止めるための線引きになった。


 扉が開き、先に入ってきたのは護衛でも宰相でもなく、本人だった。

 背は高いが威圧感はなく、歩き方に急ぎはなく、視線は室内を一度だけ巡らせたあと、こちらへまっすぐに向けられる。


「お会いできて光栄です。遠路の訪問を受け入れてくださったことに、礼を申し上げます」


 名乗りと挨拶は簡潔で、言葉の端に飾りはない。

 声の調子は落ち着いており、相手の反応を待つ間も、視線を逸らさず、しかし圧をかけるほど長く留めることもなかった。


 形式に沿った挨拶を返し、席に着く。

 侍従が下がると、部屋に残ったのは父と、こちらと、そして彼だけになった。


「今日は、条件を詰めるためではなく、顔を合わせるために参りました」


 そう前置きしてから、彼は少しだけ口角を緩めた。


「先に申し上げておきます。気に入られようとして振る舞うつもりはありません。合わないと感じたなら、その時点で話を止めて構いません」


 その言い方に、駆け引きの匂いはない。

 断られる可能性を、最初から計算に入れている者の声音だった。


「こちらも同じ考えです」


 父が応じると、彼は頷き、視線をこちらへ戻す。


「率直に伺います。夜会での一件を聞いて、どう感じましたか」


 探るための問いではない。

 確認のための問いでもない。


 答えによって相手を評価する覚悟が、はっきりと見える聞き方だった。


「軽さです」


 短く答えると、彼はすぐに理解した顔をした。


「同感です。立場を持つ者が、軽さを武器にするのは楽ですが、代わりに信頼を失う」


 その言葉は、誰かを批判する調子ではなく、自分自身への戒めのように落ちた。


「こちらの国でも、若さを理由にした失敗は多い。だからこそ、失敗を許容する範囲を、自分で決めておく必要があると考えています」


 若い王、という肩書きから想像していた勢いはなく、あるのは線を引く意識だけだった。


「結婚についても同じです。個人の感情で始まり、国の責任で終わる。その重さを引き受ける覚悟がなければ、求めるべきではない」


 その言葉を聞きながら、試すような視線を向ける必要はないと感じていた。

 すでに、言葉と態度が一致している。


「もし婚約が進めば」


 彼は続けた。


「我慢を求めるつもりはありません。意見が違えば、その場で止める。止められない関係なら、最初から結ばないほうがいい。はっきり言いますが、我が国では妻は1人。生涯1人と添い遂げるのが義務です」


 父が小さく息を吐いた。

 感心した時の、あの反応だ。


「ずいぶん率直ですね」


「我が国では当然の事、浮気を含め、破れば王とはいえ大罪です」


 彼はそう言って、こちらを見た。


「納得できない点があれば、今ここで言ってください。後になってからでは、互いに不誠実になる」


 逃げ道を塞ぐ言い方ではない。

 むしろ、逃げる自由を先に差し出している。


 その余裕が、軽さとは正反対の位置にあることが、はっきりと分かった。


「一つだけ」


 問いを投げる。


「感情が変わったら、どうしますか?妻は1人でも気持ちが無ければ」


 彼は即答しなかった。

 だが、それは迷いではなく、言葉を選ぶための間だった。


「変わります」


 はっきりと言う。


「人の感情は変わる。その事実を否定しません。問題は、変わった感情を理由に、王と王妃の責任まで投げるかどうかです」


 その線引きは、こちらが求めていたものと一致していた。


 軽さを許さず、重さだけを抱え込むでもない。

 変化を前提に、覚悟を置く。


 顔合わせとしては、それで十分だった。


 席を立つ前、彼は最後に一言だけ付け加えた。


「選ぶ立場にある者ほど、選ばれる理由を示すべきだと考えています」


 その言葉に、余分な意味はない。

 ただ、自分がどう在ろうとしているかを示しただけだ。


 扉が閉じたあと、父がこちらを見る。


「どう思う」


 答えは、すでに決まっていた。


 軽さはない。

 逃げもない。

 我慢を前提にしない。


 夫として選ぶ理由は、十分だった。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
ハメを外すのは婚約者のいないフリーの時にするがよろし。 しかも浮気相手には色良いことを口にするクソっぷり。トンチキ王太子は随分華やかなお花畑をお持ちのようで。 しかし伯爵令嬢が王太子の婚約者って随分…
婚約者とはいえ王太子や他家の奥様に敬語も使わず喋るすごい一家。
最近この手の作品量産されてるけどAIだよね?タグ付けしてほしいな。
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