8. 生活能力皆無の漫画家、遊び人編集に世話を焼いてもらう
佐原さんが担当になって、三ヶ月ほど経った。
冬が終わり、春がやってくる。
佐原さんは新人と思えないほど、優秀な編集者だ。僕は永井さん以外にあまり編集者を知らないけれど、仕事はすごくやりやすいし、僕が行き詰まったときの壁打ちの相手もすごく上手い。
というか、佐原さん自身から出てくる「こうしたい」がないんだ。僕の作品に対して、とにかく僕の意志を汲んでくれる。商業的な判断はお互いしなければいけないけれど――佐原さんは、僕のやりたいようにするのが、一番いいって信じてるみたいだ。
永井さんと一番違うのは、ここだ。永井さんは僕を育ててくれた。右も左も分からない僕に漫画のノウハウを仕込んでくれた。何をすべきか、どこを直すべきか、永井さんの言うことを聞けばよかった。
しばらくすると、僕の出す意見と永井さんの意見が、ほとんど完全に一致するようになった。
だから極端な話――僕の作品に対するこだわりは、永井さんのコピーなのかもしれない。
そんなことを思いながら、プリントしたネームをぱらぱらとめくる佐原さんの手元を見つめる。
僕の部屋のリビングは相変わらず散らかっているけれど、佐原さんが来るから、ある程度片付けた。
「……はい。では、今回はこれでいきましょう」
「うん。よろしくお願いします」
佐原さんがネームにオーケーをくれた。ほっと息をついて、返される紙束を受け取る。
いつの間にか僕たちの打ち合わせは、対面ですることがほとんどになった。
そして打ち合わせが終わると、佐原さんは冷蔵庫を開ける。
「ああ。ちゃんと食べてくれてますね」
ほっとしたように言いながら、佐原さんは大きなタッパーを取り出した。中身は、佐原さんが作り置きしておいてけれたポテトサラダ。
それから、次々とタッパーが出てくる。
トマトのマリネ。鶏肉のバジル炒め。だし巻き卵。
「おいしかったよ。ありがとう」
僕はお礼を言うことしかできない。佐原さんは「いえ」とぶっきらぼうに言って、冷蔵庫を閉める。
「じゃあ、新しく作っておきますね。先生は作業していてください」
ジャケットを脱いで椅子にかけて、腕まくりをする。僕は「お願いします」と頭をさげて、仕事部屋兼寝室に戻った。
佐原さんは、食事を作ってくれる。そんなことまでしなくていい、と言ったけど、食生活がいかに健康に重要か懇々と説得されて終わった。
佐原さんの完全栄養食への不信感は払拭できず、僕も試しに作ってもらった手料理の魅力に抗えず、お願いしてしまっている。
パソコンのスリープを解いて、イラスト制作アプリを立ち上げた。
ネームのデータファイルを開いて、黙々と下書きを始める。
この連載も、いつまで続けられるか分からない。だから毎回、できる限りのことをするしかない。
「野木先生」
不意に声をかけられて、はっと背筋が伸びる。振り向くと、部屋がパッと明るくなった。佐原さんが立っていた。
どうやら、佐原さんがリモコンで部屋の電気をつけてくれたらしい。またうっかりして、作業へ夢中になりすぎていたみたいだ。
「ありがとう」
僕は慌てて立ち上がり、佐原さんのもとへ向かう。佐原さんは「いえ」とぶっきらぼうに言って、リビングを指差した。
「タッパーに新しいおかずを詰めておきました。熱さが取れたら冷蔵庫にしまってください」
「うん。ありがとう」
「あとレンチンするだけのお米のパック、なくなりかけてるので、次買ってきますね」
「ありがとう……」
言葉もない。深々と頭をさげると、「いえ」とやっぱりぶっきらぼうな返事があった。
佐原さんはビジネスバッグをさっと手に提げて、僕へ会釈した。
「では。また何かあったらご連絡ください」
「うん。またね」
電子音のメロディが突然鳴り響く。僕は驚いて、身体がびくんと跳ねた。
佐原さんは画面を見て、面倒くさそうに顔をしかめる。僕へ目線だけ寄越すと、電話に出た。
「ああ、ヒナちゃん……ごめんごめん、仕事があってさ」
気だるげに言いながら玄関へ向かって、靴を履く。僕はなぜだか、ふらふらとその背中を追った。
どうしてか、まだ佐原さんと一緒にいたい。女の子じゃなくて僕と一緒にいるのに、どうして僕を見てくれないんだろう。
寂しい。
ふと自分の本音にぶち当たって、思わず胸元を押さえる。
そうか。これからまた一人きりになるのが寂しいんだ。佐原さんは仕事で僕の相手をしてくれているだけなのに。
僕はなんて図々しい奴なんだろう。
「ごめんって、埋め合わせはするから。許してよ」
佐原さんは、僕が追ってきたのに気づいて目を丸くする。ちょっと気まずくて目を逸らすと、佐原さんの大きな掌が肩に置かれた。
ぽんぽんと宥めるように叩かれる。僕が顔をあげた途端に手は離れて、佐原さんは部屋を出ていく。
去り際にもう一度会釈をして、佐原さんはドアを閉じた。
一人きり残された部屋の中で、僕はぼんやりとドアを見つめ続けた。遠ざかっていく足音を聞きながら、部屋が暗いことばかり考えていた。




