7. 生活能力皆無の漫画家、約束をすっぽかしてしまう
風邪は三日寝込んだら治った。佐原さんの献身的な看護のおかげだ。どれだけ感謝してもしきれない。
そして作業も同じ日数止まったので、僕はとても焦った。
佐原さんは僕に、「慌てないでください」と言ってくれた。
「先生の筆の速さなら、締め切りまでには完成します」
「でも大きな修正が入ったら間に合わない……」
「それがないように、俺と打ち合わせしてるんでしょう」
きゅう、と画面の向こうの佐原さんが目を細める。微笑んだらしい。
その表情の変化に僕が驚いていると、佐原さんは無表情に戻って淡々と続けた。
「……ひとまず、本日中にまたそちらへ伺います。食事はちゃんととれていますか?」
「えっと、どうだったかな」
そういえば、今日起きてから何かを食べた記憶がない。黙り込んだ僕に何かを察したのか、佐原さんが「お昼はそちらへ向かいます」と言った。
「昼食がてら、打ち合わせをしましょう」
そう言って、僕の家の近くにあるファミレスの名前を言った。そこでご飯を食べましょう、という提案に、僕は頷いた。
佐原さんは「では」とぶっきらぼうに言う。
そして打ち合わせのためのルームが閉じて、僕はヘッドセットを外す。まだ午前十時。お昼までには時間があるから、少し作業ができるだろう。
イラスト制作アプリを立ち上げて、パソコンにつなぎっぱなしの液晶タブレットを引き出す。
ネームはもう完成しているから、下書きをしないといけない。
原稿のファイルを開いて、作業を始めた。
ふと、インターホンが鳴る。誰だろうか。
「はーい」
床に置かれたものをよけつつ玄関に向かう。ドアを開けると、エコバッグを持った佐原さんがいた。表情は硬い。驚いて、身体が固まった。
「あれ、どうしてここに?」
「先生。体調は大丈夫ですか?」
食い気味に尋ねられたので、うん、とうなずく。佐原さんはほっと息をついて、さらに続けた。
「家の中で倒れていたわけではないんですね?」
「う、うん。そうだけど、どうかしたの?」
「……今もう、午後二時です」
佐原さんの言葉に「えっ」と驚きの声をあげてしまう。
僕がタブレットに触り始めて、せいぜい三十分くらいのつもりでいた。
佐原さんは淡々と続ける。
「先生のスマホに電話を入れたんですが、出なかったので、直接うかがいました」
「ええと……その……ごめんなさい」
とはいえ、約束をすっぽかしてしまったことに代わりはない。僕はうなだれて、誠心誠意謝った。
「心配するんで、電話は出てください。スマホはマナーモードだったんですか?」
「そうだったかも」
どうぞ、とドアを開いて、佐原さんを家に招いた。僕は障害物を避けつつえっちらおっちらと仕事部屋に向かって、スマホを探した。
「あれ。どこに置いたっけ」
いつの間にかやってきた佐原さんが無言でスマホを操作して、通話をかける。部屋のどこかからバイブレーションの音が聞こえた。
どうやら、スマホを外でなくしたわけではないらしい。それだけ分かってほっとした。
「どこ……?」
だけど僕は、音がどこから聞こえてくるのか分からない。右往左往している間に、佐原さんは部屋の中へとずかずか入っていった。そしてベッド近くの床をまさぐって、「あった」と呟く。
「これじゃないですか?」
拾い上げたそれは確かに、僕のスマホだった。
ありがとう、とお礼を言うと、佐原さんはきゅうと目を細めて口をへの字に曲げる。僕は何か、佐原さんの気に食わないことを言ってしまったんだろうか。
内心はらはらしていると、「それよりも」と佐原さんはさっと目を逸らす。
「ご飯にしましょうか。その分だと、朝から何も食べてませんよね?」
「う、うん……」
僕はどぎまぎしながら、リビングへと向かう佐原さんに続いた。相変わらずものがたくさん置かれた床を、佐原さんの長い脚がひょいひょいと歩いていく。僕はえっちらおっちら障害物を乗り越えながら、テーブルの前に立った。
佐原さんはエコバッグを机の上に置いていた。そこからまたお粥のパウチが出てきたので、心配してくれていたんだと分かる。僕の食欲がないかもしれないのを見越してくれていたんだ。
「ありがとう」
お礼を言うと、佐原さんは変な顔をした。鳩が豆鉄砲を食らったような顔、とでも言うんだろうか。
「いえ。仕事ですし」
そう言いながら、今度はおにぎりを三個取り出す。それが佐原さんの昼食なんだろう。
僕は「ううん」と首を横に振った。
「仕事だとしても、僕の体調を気遣ってくれているでしょう。すごいね」
「え? 何が?」
佐原さんは驚いた表情で、僕を見下ろす。だって、と僕は首を傾げた。
「それだけちゃんと、相手のことを見てるんでしょう。僕はそういう気遣いが上手くできないから、佐原さんのこと、尊敬する」
ぼとん、と鈍い音が立った。エコバッグからお茶のペットボトルが落ちる音だ。
僕はそれを拾って、「はい」と佐原さんへ手渡す。佐原さんはちょっと呆然とした様子で、僕を見つめていた。心なしか顔が赤い。
「どうかした? もしかして、体調が悪いの?」
熱を測らなくてはいけない。慌ててベッド横に置きっぱなしの体温計を取りにいこうとすると、「いいですから」と佐原さんが僕の腕を掴んだ。その掌の大きさと熱さに、訳もわからずどきりとした。
「体調はなんともないです」
「でも、顔が赤いよ……?」
心配だ、と伝えると、佐原さんは気まずそうに目を逸らした。
「全然なんともないですから。ほら、食べますよ」
「うん……?」
僕はお粥のパウチを開ける。佐原さんがエコバッグの底からプラスチックのスプーンを手渡してくれたので、受け取った。
「あと、これもよければ」
そう言って出してきたのは、プリンと桃のゼリーと果肉入りヨーグルトだった。
「苦手なものがあれば、俺が食べます」
「ううん。全部好き。ありがとう」
自然と頬がほころんでしまう。僕はお礼を言って、桃のゼリーを手に取った。
佐原さんがぽつりと、何か呟く。
「かわ、……」
食べ物を前にすると、急にお腹が減っているのを自覚する。僕はスプーンをパウチに刺して、お粥を頬張った。
「おいしいねぇ。ありがとう」
お礼を言うと、佐原さんは「いえ」とやっぱりぶっきらぼうな返事をした。
「心配かけてごめんね。次からは気をつけるね」
謝っても首を横に振るだけだ。だけど全然怒ったり呆れたりしているようには見えなくて、ちょっとだけほっとした。




