はじめての喧嘩1
圭人くんと付き合い始めて、もうすぐ一か月。
永井さんから圭人くんと付き合っていることの確認の連絡が来たり、二人が叔父と甥だと僕が知ったり、いろいろバタバタしたこともあった。
だけど全部、そういうのはチャットアプリのやり取りで完結した。
圭人くんによると、永井さんはどうやら、僕たちを信用することにしてくれたらしい。
「こないだおじさんと会ったとき、直接遥さんとのことを報告しました。おじさんは、『きみたちもいい大人だから放置しとくね』って言っとりましたよ」
金曜日の夕食会で、圭人くんがポトフをほおばりながら言う。方言混じりの報告に、僕は「そっかぁ」と、しみじみ頷いた。
「うれしいねぇ」
「はい。嬉しいです」
のんびりご飯を食べて、お風呂に入って、ベッドでパジャマを着たままいちゃつく。
その時、圭人くんが「そういえば」と話を切り出した。
「二月に入ったら、バレンタインが来ますね」
「うん」
おいしいチョコレートがたくさん売り出されて、たくさん買って少しずつ食べるのが毎年の楽しみだ。時には読者さんからのプレゼントが届いて、それも嬉しい。
僕がひそかに浮かれていると、圭人くんは真剣な表情で言った。
「遥さんは、手作りと既製品、どっちが嬉しいですか?」
「え……?」
何の話だ。いや多分、チョコレートの話だ。
僕は慌てて頷いて、それから勢いよく首を横に振った。
「い、いいよ。既製品で」
「既製品、で……」
圭人くんの声が、少しだけ沈む。
何か間違えたか。背筋がひやりとしたけれど、キスされてうやむやになる。
「あ、もう……」
キスが好きな僕は、それですっかり流されてしまった。
ちゅっちゅしながら身体をいじられて、二人で気持ちよくなって、それだけで精一杯になる。
その日の晩もたっぷり楽しんで、土曜日の朝もいつも通り一緒にご飯を食べて、圭人くんはおおむねいつも通りだった。
だけどひとつだけ、違うことがあった。
「遥さん、おはようございます。起きてください。ご飯はもうできています」
僕を起こす圭人くんが、訛っていない。
いつもだったら「ご飯できとります」みたいに言うのに、標準語だ。
「う、うん」
なんでだろう、不安だ。
圭人くんはこんなに優しくて、こんなに僕へおはようのキスをしてくれるのに、違和感がある。日本語がきちんとしすぎている。
「どうかしました?」
「う、ううん。なんでもない」
僕は首を横に振って、起きだした。
土日は家でのんびりするか、一緒に散歩へ出かけるのがルーティーンだ。
今日のところは家での過ごすことにして、僕の契約しているサブスクで映画を観る。そのために設置したディスプレイの電源を入れて、最近買った二人掛けのソファに座った。
だけどなんだか集中できない。圭人くんの言葉遣いひとつが気になって、そわそわする。
方言だと、圭人くんにすごく気を許されている感じがした。標準語で話されると、逆に、なんというか……。
「遥さん、これ見ましょうよ。次回作の参考になるかも」
「ん、うん」
そして僕の緊張が伝わってしまっているみたいで、だんだん圭人くんの態度もぎこちなくなってきた。これはいけない。
せめてと思って身体を寄せると、圭人くんは逃げなかった。
「じゃあ、これ見ましょうか。飲み物取ってきます」
だけどすぐに席を立つ。逃げたのかな、と思ってしまった。
いやいや、何を考えているんだ!
僕は、自分自身に愕然とした。
今の僕は圭人くんの態度に、不安になっている。
年上の恋人として、それはどうなんだ?
僕は三十歳。圭人くんは二十四歳の若者。年が六つも離れている上に、圭人くんは恋愛経験が豊富だけど、僕はといえばそういう経験が一切なくて……。
これじゃ圭人くんに呆れられてしまう。嫌われるかも。だけどそもそも付き合えたのが奇跡みたいなものだ。それに、圭人くんにとって僕と付き合うメリットってなんだ……。もっと他にいい人がいるはずなのに……。
ずるずると思考が自己嫌悪へとずり落ちていく。いけない。
こんなことで、不安になるな。みっともない。
「はい、遥さん。コーヒーです」
は、と我に返る。それは僕が淹れる係だったはずだ。
だけど圭人くんは優しく微笑んで、僕の隣に座るだけだ。
マグカップを受け取って、唇をそっとつける。
「言ってくれれば、僕が淹れたのに……」
負け惜しみみたいな口調になってしまって、はっとした。圭人くんは「いや」と身じろぎをする。
「コーヒーなんか、俺が淹れても同じですって」
反射的に、かちん、ときた。眉間に皺が寄る。
圭人くんが怯んだ顔をした。僕は視線をそらして、「そうだね」とうなずく。
「遥さん。どうかしましたか」
「どうもしない……」
拗ねてもどうにもならない。それに大人の男が、年下の恋人に当たるのは図式としてキツいものがある。
なのにどうしてもすっきりしなくて、僕はソファの上で膝を抱えた。
「……ごめんね。観ようか」
続きを促すと、圭人くんは黙って映画を再生した。
どうしよう。やってしまった。
僕はと言えば反省と後悔で頭がぐるぐるして、映画の内容が全然頭に入ってこない。
今、僕と圭人くんは、静かに喧嘩をしている。普段だったら圭人くんは、僕の耳元で映画にあれこれ茶々を入れるし、僕もそれに甘えて映画そっちのけでいちゃつく。
なのに僕たちは黙ったままで、映画をじっと観ている。
どうすればいい。僕は冷めたコーヒーで唇を湿らせながら、考えた。
謝ったほうがいい。だけど「さっきは不機嫌になってごめんね」と謝るにも、タイミングっていつだろうか。
それに圭人くんがたまたまそういう、いちゃつくような気分になっていないという可能性だってある。
怒っていないという可能性だって、ないだろうか。
そっと圭人くんの様子をうかがう。
整った横顔は、画面を見つめていた。表情はすとんと抜け落ちて、虚無だ。
間違いない。圭人くんは不機嫌だ。
「圭人くん、ごめんね」
「何がですか?」
とっさに謝ったけど、返事は素っ気なく聞こえる。視線も、ちらりとこちらへ寄越すだけ。
どう考えても不機嫌だ。そうに違いない。
「さ、さっき、ちょっとむってしちゃった。ごめんね」
「いや……いいです。そんなこと、気にしないでいいんですよ」
いいですって、何が。
僕はぽかんとして、圭人くんを見つめた。
いつの間にか映画は終わって、画面が暗くなる。圭人くんは立ち上がって、コーヒーが残っている僕のマグをちらりと見た。
そして黙って、キッチンへと向かった。
「ええ……」
どうしよう。
僕は慌ててコーヒーを飲み干して、圭人くんに続いた。圭人くんはスポンジに食器用洗剤をつけている。
「圭人くん、ごめんなさい」
「いや……遥さん、謝るようなこと、何もしていないじゃないですか」
困ったように微笑んで、圭人くんが言う。
ぴしゃり、とシャッターが閉まった音を聞いたようだった。




