16. 生活能力皆無の漫画家と、担当編集の年越し
大晦日、僕はなんとか仕事を納めた。
イラストも描いて、SNSにアップする。すぐにスマホを閉じて、ばたばたとリビングへ駆け込んだ。
「先生、お疲れ様です」
佐原さんが台所に立って、土鍋を火にかけていた。鍋の中では、鶏肉と鱈と野菜が煮えている。
「ありがとう、佐原さん」
いえ、とぶっきらぼうな返事をして、佐原さんは鍋敷をテーブルに置いた。鍋の鍋敷も、佐原さんの家にあるのを借りている。
変な感じだ。だけど嫌ではない。
佐原さんは鍋を持ち上げて、テーブルに置く。さっと取り皿とおたまも持って、配置した。
「食べましょうか」
僕はうなずきつつ、冷蔵庫を開ける。ビールを二缶取り出して、「その」とうつむいた。
「……一緒に、飲まない?」
こういうのは、よくないコミュニケーションになる可能性がある。だけど僕は、佐原さんとお酒が飲んでみたいと思った。
お酒を飲むと、人は無防備になる。
無防備な僕を見てほしいし、佐原さんにも無防備になってほしい。
テーブルへ歩いていって差し出した缶は、受け取ってもらえた。佐原さんはゆっくり腕を伸ばして、僕の手から缶を取る。
「乾杯」
僕の方から言って、缶を軽くぶつける。佐原さんも「乾杯」と言って、ぶつけ返した。
そして僕たちは、お酒を飲み、食事をした。
気づけば夜更けになって、佐原さんはうつろな目で延々鍋の底をおたまでさらっている。
「佐原さん、まだ何か食べたいの?」
「ん……」
顔は真っ赤で、目の焦点があまり合ってない。お酒に弱いらしい。ちょっと意外だ。
おたまで野菜の切れ端をさらっていた佐原さんが、お皿を僕へ差し出す。
「食べりん」
「りん?」
僕が首を傾げると、「なんだん」と佐原さんは回らない舌で言った。
「ほいたらお腹いっぱいなんですか? でも先生、いつも小食だもんで心配じゃんね」
「え? え?」
戸惑う僕を置いて、佐原さんはふらふらと冷蔵庫へ向かって歩き出す。
冷凍うどんを一袋取り出して、鍋へ放り込んだ。
「シメにするの?」
僕が尋ねると、佐原さんはこくりと頷いて鍋を持ち上げる。台所のコンロへ戻して、火にかけた。
「先生はちゃんと食べなかんですよ」
「うん。そうなんだ……?」
べろべろの佐原さんは、真剣な表情で火を見つめている。
なんだかこの状況が面白くて、僕はくすくす笑った。
「何が面白いんですか」
佐原さんが拗ねたように言う。僕は素直に、「佐原さんって」と口を開いた。
「心配性なんだね。こんなときまで、僕のお世話なの?」
からかうように言うと、佐原さんはすこしだけ身じろぎをした。潤んだ瞳が僕をにらむ。
「……あなたにお礼を言われると」
どきりとする。僕が口をつぐむと、佐原さんはぽつりぽつりと囁いた。
「なんでもしてあげたくなる。それじゃかんって分かってるのに。もうお礼を言わんでください」
「ええ、なんで」
「なんでもしてあげたくなるもんで、やめとくれん」
拗ねたように言って、佐原さんは菜箸をとって鍋をつついた。
僕は呆然としながら、佐原さんを見上げる。
「なんで僕に、なんでもしてあげたくなるの?」
「なんでだろ。かわいいからかもしれん」
何を言っているんだろう。方言なのか、それとも僕の解釈で合っているのか。
「佐原さんって、僕のことを、かわいいって思ってるの?」
思い切って尋ねると、「あー」と気のない返事があった。
「思っとります」
「かわいいって思ってるんだ!?」
「だもんで言っとるら……」
すごいことが立て続けに起こっている。僕は気持ちを落ち着かせようと、冷蔵庫から二缶目のビールを出した。
プルタブを開けて勢いづけに飲み干す。
「佐原さんって、僕のこと好きなの?」
単刀直入に尋ねると、「えー」とまた気のない返事があった。
「分からん。かわいいし言うこと聞きたくなるし、ときどき食べたいけど」
「食べたいの?」
「うん」
佐原さんはうつろな目つきのまま、うどんをかき混ぜる。冷凍うどんはまだ溶けない。
「でも本当にこれって好きなのかん? 好きってもっと優しい気持ちだと思っとったけど」
僕はあぜんとしながら、佐原さんを見上げた。
「佐原さんが決めることだけど……それって、好きって言ってるように聞こえる……」
「ほうか」
佐原さんはうどんをぐるぐるかき混ぜた。少しずつスープが沸騰する。
「ほんなら、俺は先生のこと、いけすかんって思っとるけど」
「えーっ、そうなの!?」
それは知らなかった。佐原さんは「そうですよ」と言って、両手をコンロについた。
「いけすかん。俺は先生の漫画へめちゃくちゃ夢中になってるのに、野木遥はずっと正気でこっちの快楽をコントロールしとる」
目つきが据わっている。だけどすごく雄弁で、僕の心臓はどくどくと高鳴った。
「おもしろい。野木遥の描く漫画でおもしろがっとる俺がくやしい」
「ふうん……」
気分がいい。僕は佐原さんによりかかった。
どうしてか、そうするべきだと思った。
「でも僕は、佐原さんに生活を全部握られてるんだ」
自分で思ったより、優しくてかろやかな声が出た。佐原さんは「ほうか……」と呟く。
「野木先生って、魔性じゃんね」
「んえ?」
突拍子もなくそう言われて、僕は佐原さんを見上げた。
顔が少しずつ近づく。お互いの吐息は酒臭い。
「……目、瞑った方がいい?」
なんでか口をついた言葉に、佐原さんは「いらん」と言った。もっと距離がなくなって、唇が触れる。
ちゅっと音を立てて、顔が離れた。
ファーストキスだ。
「わ、わ……」
慌てる僕をよそに、佐原さんはコンロの火を切る。お椀にうどんをよそって、僕に差し出した。
「食べりん」
「え、この状況で?」
驚いて声をあげると、佐原さんは首を傾げた。
「お腹、まだ減っとるら。食べりん」
「う、うん。じゃあ」
僕は勢いでうどんを啜った。口元は汁だらけになる。
不意に佐原さんが深いため息をついて、コンロへ両腕をつく。そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
「すみません」
「え、なにが?」
うどんをすすりながら尋ねると、「全部」と佐原さんはうめく。
「セクハラとか……先生、俺を通報してください」
「しないよぉ。合意だもん」
「合意!?」
佐原さんは素っ頓狂な声をあげて、台所に転がる。僕は汁だけになったお椀を置いて、「そうだよ」としゃがんだ。目線の高さを合わせて、にこりと微笑む。
「逆に佐原さんが、僕を通報しなくても大丈夫?」




