14. 編集者、自覚する(佐原視点)
最近、先生の様子がおかしい。
俺が訪ねていくと、必ずコーヒーメーカーでコーヒーを淹れている。つまり俺が自宅訪問する時間をちゃんと把握しているということだ。
もちろん、自宅訪問前にリマインドはしている。
だけど何か、引っかかった。
「最近ね、手帳を書きはじめたんだ」
その答え合わせは、突然やってきた。暦上は秋になった、ある日の昼だ。
野木先生は照れくさそうにはにかみながら、指をテーブルの上でぱたぱたと動かす。
俺は野木先生のいれてくれたコーヒーを飲みながら、そうか、と考えた。
「……だから最近、予定忘れがないんですか?」
「うん、そう。アナログで書き出して管理するのが合ってたみたい」
得意げに言う野木先生がかわいくない。俺はなぜか、胸が痛むのを感じた。
「……じゃあ、俺もお世話係を卒業する日が、来るかもしれませんね」
そんな風に言ってから、はっと我に帰る。
これじゃまるで当てつけみたいだ。
野木先生は「そうだねぇ」と考え込む素振りを見せる。
「……そうなったらいいな、と思うよ。佐原さんにも悪いし」
突き放された。
俺は反射的にそう思って、身体が冷えていくのを感じた。
どうしてこんなことを思ってしまうんだ。野木先生はもともとそう思っているだろうと、分かっていたのに。
俺がどれだけやると言っても、皿を洗おうとして、部屋を掃除しようとする。
おじさんにはきっと任せきりだったろうことを、俺には任せてくれない。
俺は先生に全体重を預けてもらっても構わないのに、そうしてくれない。
気づけばふらふらと会社へ戻って、仕事をしていた。最近は他に担当している作家もいるから、先生の家に行けるときは減ってきている。
だから先生からああ言われるのは助かる。そのはずなのに、どうして俺はこんなにショックなんだろう。
退勤してプライベートのスマホを開くと、おじさんから夕食の誘いが来ていた。場所はいつものファミレスだ。
時間通りに向かうと、先に来ていたおじさんはきゅうと眉間に皺を寄せた。
「顔色がひどいよ。最近はちゃんと休めている?」
「え……?」
ぎくりとした。きちんと休息はとっている。健康にも気を遣っている。だって体調を崩したら、野木先生の世話をする人間がいなくなるから。
おじさんの向かいのソファ席に座ると、「けいくん」と顔を覗き込まれた。
「自分のこと、ちゃんと気にしてる?」
「いや、別に」
どうしてこんな話になるのか、いまいち分からない。戸惑う俺をよそに、おじさんはため息をついた。
「けいくん。やっぱり、野木先生から離れなさい」
「なんで野木先生が出てくるんだ」
声が固くなるのが、自分でも分かった。おじさんはやっぱりと言わんばかりに頷く。
「野木先生が言ってたよ。きみがあんまり身の回りの世話をしてくれるから、申し訳ないって」
「おじさんには関係ないことだ。口出ししないでくれ」
俺の反論に、彼は憐れむみたいに目を細めた。
「けいくん。きみは昔から本当にいい子だった」
どうして突然、昔語りが始まるのか。戸惑う俺を置いて、おじさんは語り続ける。
「出来がよかったから、みんなきみを特別視した。甘やかしもしたけれど、きみはあまりにも優しかった。見返りを返したがる癖があること、分かっているだろう?」
「何の話?」
本当に何が言いたいんだろう。俺は困惑といらだちの混じった舌打ちをした。
「野木先生の担当はおりない。それにこれは、俺と野木先生の問題だ。先生は俺に、何も――」
そうだ。先生は俺に、何も言っていない。
おじさんは「それはね」と、諭すように言う。
「きみがそんなに必死だから、言い出せないだけだと思う。ボクにはいろいろ相談が来ていて……」
どうして、と思った。
どうして今の担当である俺には言えなくて、前の担当のおじさんには言えるのか。
俺じゃダメなんだろうか。
俺はいらないのか、と癇癪を起こしかけて、衝動を喉奥へぐっと飲み込む。
「……分かった。だけどこれは、俺と野木先生の問題だ。俺の昔話は関係ない」
「ううん。きみが野木先生に執着しているのは、きみの過去が関係していると思う」
おじさんはあっさりとした口調で言った。途端に声色が単調になる。
「きみは優秀だし、期待された分だけ見返りを渡せる。それに優しいから、そこに喜びを見出せる」
急に褒められた。戸惑う俺に、おじさんは静かに言った。
「だから自分を中心に置けない。当たり前のように期待されて、当たり前に見返りを渡す。きみのお母さんとお父さんは、きみに期待をかけすぎた」
おじさんの声が、急にくしゃりと歪んだ。
「ありがとうと言われることに、きみは慣れていないんだ。きみは自分がしたことに対して、あまりに『ありがとう』と言われ慣れていない」
不意に頭の中で、思い出が弾けた。
親は俺へ惜しみなく金と時間を使ってくれた。俺は結果を出さなければいけないと思った。弟と妹よりも俺は優秀だったから。
女たちは俺へ惜しみなく金と時間と身体をくれた。俺も金と時間と身体をかけた。
つまり俺がこれまで自分から望んで、何かを他人にしたことは、ないんじゃないだろうか。
それこそ、野木先生にしてあげたこと以外は。
すうっと身体から血の気が引いていく。おじさんは「けいくん」と俺を呼んだ。俺は首を横に振る。
「だけど……俺、野木先生の担当は降りない。俺が……俺が、やりたいから」
おじさんは呆れたようにため息をついて、首を横に振る。
「惚れた相手に尽くしたくなるのは、うちの血かな」
え、と声が漏れた。おじさんは苦笑いを浮かべている。
「好きなんだろう?」
誰が、と言われなくても分かった。全身へ一気に血がめぐって、目眩がする。
野木遥が好きだっていうのか。この俺が。
わなわなと唇が震える。顔が真っ赤になるのが分かった。
「好き……?」
身体が熱い。どくどくと心臓が高鳴って、動揺しているのに冷たい感じがしなかった。
唇は自然と歪んで、そんなわけないと思う。
おじさんは膝を掌で叩いた。
「とにかく一回、よく考えてみなさい。きみには、心を整理する時間が必要だ」
俺はおじさんへ目を向けて、すぐに逸らした。
「……別に、そういうのじゃない」
どうかな? と、おじさんは片目をつむる。
「きみは賢い。自分のことをちゃんと分かろうとすれば、見えてくるものがあるはずだよ」
少しだけいつもの調子が戻ってきて、俺は「うざ」と軽口を叩いた。
おじさんは少し伏目がちになって、うん、と頷いた。




