10. 生活能力皆無の漫画家
新人のアシスタントさんからメッセージが来る。作画上の質問だったから、すぐに通話を繋いで画面共有してもらった。
問題自体はすぐに解決した。ちょっとしたツールの問題だったから、設定を変えるだけで済んだ。
「ありがとうございます」
ほっとした声でお礼を言われて、「どういたしまして」と返す。唇は自然とゆるんだ。
なんとなく通話は繋ぎっぱなしのままで、雑談しながら作業する。
「野木先生って、本当にシゴデキって感じで尊敬します。作業早いし、レスポンスもすぐくれるし」
「え? そうかな」
編集部からのメールの返信は溜めがちだし、締め切り以外の予定管理はほぼ担当さんに任せきりだけど、そんな風に思われていたのか。
過大評価されているようで気まずい。
「そ、そんなことないよ……」
もごもご否定するけど、アシスタントさんは謙遜と受け取ったみたいだ。軽く笑って、「いや、本当に尊敬してますよ」と言った。
「俺みたいな、できない新人にも優しいし」
自虐的な言葉に、ん、と返事に詰まる。
「最初はみんなできないよ……」
「優しいなぁ、先生は」
感激したようにアシスタントさんが言う。褒めてくれているのはありがたいけど、誤魔化すように笑った。
それはそれとして、とアシスタントさんが話題を変える。
「先生、そろそろ誕生日ですよね。おめでとうございます」
「え? そうだっけ」
「そうですよ。だってもう、三月末です。先生は四月一日生まれでしたよね?」
そういえばそうだった。僕は間抜けに「ああ!」と声を上げる。
「忘れてた」
アシスタントさんは「忘れてたんすか」と笑って、僕はフフ……と笑った。
自分の誕生日は、正直言ってかなりどうでもいい。だけど祝いたいと思ってくれることは、ありがたかった。
「ありがとう」
いえ全然、とアシスタントさんはどこか焦ったような口調で言う。それでその、と口ごもった。
「な、何かプレゼントとかしたいんですけど、欲しいものはありますか?」
「えー? ないなぁ。それに申し訳ないし、プレゼントはいいよ。気持ちだけで十分」
そうですか、と少しだけ通話越しの声が沈む。どうしたんだろうか。
少し引っかかるけれど、彼はすぐに「そういえば」と話題を変える。
「先生、最近SNS始めたんですね。実はこっそりフォローしてます」
「見てくれてるんだ。ありがとう」
実は最近、佐原さんに勧められてSNSアカウントを開設した。
ちょっとした落書きくらいしかあげられていないけれど、見てもらっているのはありがたい。
「野木先生ってミステリアスなイメージですけど、ああいう落書きするんだーって知り合いが言ってました」
「僕ってそんなイメージなんだ……」
単にコミュニケーションが苦手で、人付き合いが下手というだけなのに、なんて美化をされているんだ。
「本物はこんなんなのに……」
ぽつりと漏れてしまった自虐に、アシスタントさんは「いやいや」とまた焦った声で言う。
「たしかに先生はギャップがありますけど、その……」
ちょうどその時、インターホンが鳴る。同時にチャットアプリに、佐原さんから連絡が来た。どうやら、家の前に着いたらしい。
「ごめん。担当さんが来たから落ちるね」
慌てて言うと、アシスタントさんは「分かりました。お疲れ様です」と言って落ちていった。僕も通話から落ちて、ヘッドセットを外す。
廊下を駆けるように歩いて、ドアを開けた。そういえば、この家も随分と片付いたものだ。なんせ家の中で歩けるんだから。
「お疲れ様!」
声をかけながらドアを開ける。中身の詰まったエコバッグを手に提げて、佐原さんは「お疲れ様です」と少しぶっきらぼうに言った。
「先生。開ける前にカメラを確認してくださいって言いましたよね?」
早速小言が飛んでくる。僕はぎくりと気まずくなりつつ、「でも」と反論した。
「これまで何ともなく、大丈夫だったし……」
「ダメです。危ないから、確認してください」
最近の佐原さんは、こんな感じでちょっと過保護だ。
ご飯を作って、掃除や洗濯をしてくれる。最近はお風呂掃除とか、水回りのこともやってくれるようになった。
おかげで、最近はお湯に浸かれている。そうなるとやっぱり体調もよくて、筆の進みもよくなる。
今の僕の生活は、佐原さんのおかげで回っている。
だから僕は「気をつけるね」と頷いて、佐原さんを家に招いた。
佐原さんは真っ先に冷蔵庫を開けて、タッパーを確認する。そして空になったタッパーが洗ってシンクの横に置いてあるのを見て、すうと目を細めた。
「……洗ってくれたんですか?」
咎めているみたいな口調だ。僕はわけもなく身体が強張って、うん、と頷くことしかできない。
佐原さんは僕の方を向いて、「いいんですよ」と微笑んだ。
「これは俺の仕事ですから」
「ん……」
そうだね、とも、違うよ、とも言いにくい。あいまいに頷くと、佐原さんはジャケットを脱いだ。エコバッグから食材を取り出して、台所に立った。
野菜類を洗って、切っていく。僕はその背中を見ながら、原稿の進み具合を報告する。
「……それから、新人の子から質問があって、答えたんだ。シゴデキって言われて、照れちゃったな」
えへへ、と笑うと、佐原さんの手の動きが一瞬止まった。だけどすぐに動き出して、「そうですか」と平坦な返事がある。
「僕なんか、本当はこんなにダメダメなのにね……」
うつむきがちに言うと、佐原さんは包丁をまな板に置いた。
布巾で手を拭って、僕を見つめる。
この時になって僕は、佐原さんの背が僕よりずっと高いことに気づいた。頭半分くらい違うんじゃないだろうか。
「先生は、ダメじゃないですよ」
優しい声だ。佐原さんの大きな掌が、僕へためらいがちに伸びる。肩に手を置かれて、さすられた。まるで大切な宝石を磨くような、優しい手つきだった。
触れられると、それだけで心がじんと甘く痺れる。
「ダメじゃないです。先生はすごくがんばってるし……」
僕はうっとりと目を細めて、佐原さんの言葉を浴びた。
佐原さんは最近の原稿の出来の良さを褒めてくれる。締め切りに遅れないことを褒めてくれる。がんばりを認めてくれる。
僕にこれだけ迷惑をかけられているのに、僕を責めない。
永井さんも同じだった。だけど彼はなんだかお父さんみたいで、安心した。
佐原さんはどうだろう。褒められると不思議とドキドキして、かえって緊張してしまう。だけど全然嫌な感じはしない。
「ありがとう」
にっこり微笑むと、「いえ、別に」と視線を逸らされる。
包丁を握り直して、野菜をざくざく切っていった。
そのリズミカルな音を聞きながら、僕は広い背中をずっと見つめていた。




