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1. 生活能力皆無の漫画家、担当編集が変わるらしい

 来月から担当編集が変わりますから、と打ち合わせの最中に言われて、僕は自宅の机で「えーっ」と声を上げてしまった。

 担当編集の永井さんは画面越しに苦笑しながら、白髪混じりのオールバックをなでつけている。ふくよかな顎の肉が、喋るたびにたぷたぷと揺れた。


「私は定年になるので、新しい担当の者に変わります」

「そんな……急な話ですね」

「半年前にもお伝えしましたよ」


 そうだったっけ。僕は慌ててメモを探そうとするけれど、そういうのはほとんど永井さんが管理してくれている。僕が見つけられるはずもない。


「あ、後でメモを探します」


 ひとまず笑って誤魔化すことにした。永井さんはメガネの奥のつぶらな瞳をうるませながら、僕に向かって話しかける。


「野木先生がデビューしてからずっと一緒にやってきたので、私も寂しいです。先生が新人賞をとりたての頃、大学を退学しちゃってどうしようかと思いましたが……どうにかなって、本当によかった」


 僕が新人の頃から、十年近くお世話になっている人だ。家族仲のよくない家庭に育った僕だけど、永井さんはまるで父親のような存在だった。僕までうるっと来てしまって、べそべそと目の下をこする。

 永井さんは「心配です」としきりに口にした。


「先生は人がいいし、漫画も上手い。きっと漫画家として、私なしでも立派にやっていけるでしょう……」


 なのに永井さんは、僕が心配だと言う。心当たりがあったので、僕は重々しく頷いた。


「ゴミは……できるだけ分別します!」

「できれば洗濯もしてください」

「……します!」


 永井さんは深々とため息をついて、「心配だ」と頭を抱えた。


「私もついつい肩入れしすぎていましたが、先生の生活能力には少し……いささか……不安があります」


 ぐうの音も出なかった。実を言えば、僕も不安で仕方なかったからだ。

 僕は生活能力がない。自炊ができない、掃除ができない、整理整頓ができない。

 ハウスキーパーを頼もうかとも思ったけれど、僕はずっと在宅仕事だ。仕事中に掃除してもらうというのは落ち着かないし、結局それも長続きしなかった。


 永井さんが好意で家事を手伝ってくれることもあったけれど、それじゃいけないことくらいは分かっている。これから僕は僕自身の力でやっていかなければいけない。

 決意を新たにしていると、永井さんは「そのう」ともごもご口ごもった。


「そこでひとつ、相談がありまして」

「はい。なんですか?」


 首を傾げると、永井さんは顎をさすりながら言った。


「今度先生につける担当者が、新人なんですが……彼に、先生の家事をお手伝いしてもらおうかと」

「え、ええーっ」


 驚いて声が出てしまった。絶句する僕を置いて、永井さんは「先生はうちの看板作家ですから」と額を掌で拭う。


「先生に体調を崩されてはいけない。先生は調子が悪いときでもごり押しで原稿をあげてしまうから、心配で」

「そんなの……結局原稿はあがっているから、いいじゃないですか」


 そう訴えると、永井さんは首を横に振った。


「だからこそ、心配なんです。とにかく、新人には、先生の身の回りのお世話も頼んでいますからね」

「そんなの、編集者の仕事じゃないですよ」


 僕のツッコミに、永井さんは「仕事のうちですよ」と微笑んだ。


「それでは、そういうことで。詳しくはまた連絡します」


 そうして、画面は切れてしまった。僕はヘッドセットを外して、ふうとため息をつく。仕事場兼寝室にしているこの部屋をぐるりと見渡すと、たしかに足の踏み場もない。あちこちに脱ぎ捨てた服が散らばっているし、畳まないでそのままの洗濯物と混じって訳が分からない。ゴミも転がっているし、机の下には空のペットボトルが何本か転がっている。

 僕は他の人の部屋を訪れた経験があまりないから分からないのだけど、これって結構、やばかったりするんだろうか。

 ふう……とため息をついて、腰を上げる。ゴミ袋をしまっているチェストを開けて、何枚か開いた。せめてゴミを捨てるところから始めよう、と思ったんだ。


 そして気づくと、床の上で寝落ちていたらしい。フローリングの上で目を覚ました。どういうことだ。せめてベッドで寝落ちしてほしかった。おかげで全身が痛い。


 僕はそこらへんに転がっていた下着を拾って、シャワーを浴びた。幸いにも洗濯したばかりのスウェットがあったのでそれを着て、デスクに座る。時計を見ると、午前八時。すばらしく健康的な時間に目が覚めた……とほれぼれしてしまった。これなら永井さんを心配させずに済むかもしれない。

 その時、ぴんぽんとインターホンが鳴る。来客だろうか。こんな朝早くに?

 首を傾げながらも「はい」と扉を開けると、永井さんが立っていた。その横には、スーツ姿の見慣れない男の人が立っている。

 耳にはピアスがいっぱいで、軟骨も穴だらけ。重たい前髪の向こうで、切れ長の瞳が細められる。口元と左目の下にはほくろがあって、なんとも色っぽい雰囲気だ。爽やかな朝なのに、どこか気だるげな夜の気配を感じる。

 永井さんが「おはようございます」と声を掛けてくれて、はっと我に返った。


「昨夜にメールでお伝えした通り、引継ぎに参りました」

「あ、あれ、そうでしたっけ」

「そう仰ると思いました」


 永井さんは慣れた様子で言って、隣の男の人にさっと掌を向ける。


「ほら、佐原くん。野木先生に、ご挨拶を」


 佐原さんというらしい。彼は気だるげに身体の重心をずらして、「はい」と頷いた。それだけで様になる。思わずごくりと生唾を飲み込むと、彼はこちらへ向かってにこりと微笑んだ。


「どうも、新しい担当になります佐原です。以後、よろしくお願いします」


 胸元から名刺入れを取り出して、どこか不慣れな手つきで名刺を取り出す。僕は慌てて両手を差し出して、それを受け取った。そこには「佐原圭人」と書かれている。たしかに、編集部の人だ。

 しげしげと眺めていると、「野木先生」と永井さんがそっと声をかけてくる。僕は慌てて「そうだった」と、扉を開けた。


「とにかく、あがってください。ち、散らかってますけど……」

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