第三話・夜の激突と、純粋さを守るための嘘
セシル侯爵夫人は茶会での敗北により社交的な影響力を失い、完全に失意の底に沈んでいた。
彼女の顔はかつての傲慢な輝きを失い、深い陰鬱さに覆われている。
「アストラル・サンドにスティモランテ……、なぜあの女が?それに、我が侯爵家秘伝のレシピすら知り尽くしたかのような物言い……、まるで、事前に全てを知り周到に準備していたかのように、それに確かにあの場で紅茶を口にしたわよね?なのになぜ!」
彼女の目の前には王国の実質的な支配者、黒幕であるアルバート公爵が、彼の紋章が彫り込まれた重厚な黒檀の執務机の奥に座していた。公爵は侯爵夫人の感情的な報告に何の感情も示さず、ただ冷たい目で彼女を見下ろした。
その瞳にはミナの予想以上の知性に対する、冷静な分析と新たな興味が浮かんでいた。
「セシル、感情的になりすぎた。あの娘の聖女(仮)という称号は無知や無能の象徴ではないのだ。むしろそれは自らの手を汚すことなく敵の悪意の力を完全に計算し、その攻撃を相手に正確に跳ね返す強固な盾あり、最も洗練された防御法だ。
彼女に悪意を向けたがゆえにその悪意が自滅するということを、貴殿は我々の目の前で証明した。であるから、感情的な嫌がらせは今日までだ。真の力による支配……、待っていろよミナ……、その顔が苦痛に歪むまで、あの地を貶めてくれる!」
公爵はもはやミナを「無力で病弱な令嬢」と見なすことはなかった。
そして、その背後には強大な後ろ盾、彼女を支える組織が存在すると……、勘違いしていた。
だが彼は、ミナの真の狙いが「領地の安泰」ではなく、「弟アルの庇護」にあることまでは見抜いていた。それゆえに公爵はミナの「聖女(仮)」の仮面では対処できない、最も卑劣で、かつ法的に強硬な手段に出ることを決意した。
彼はミナが最も心を痛めるアルへとその標的を移したのである。
それはエバンス領の負債を一気に法的に処理し、領地の権利書を即座に奪取する計画だった。
公爵はすでに長期間にわたり買収を続けてきた最高法廷の判事三名と、エバンス家の裏帳簿を握る寄子貴族たちを動員する予定だ。
さらに領内の魔鉱石の採掘権に関する王国が定める法典『リセリア規範第101条』を悪用した勅令を悪用し、ミナが反論する隙を与えない「法の罠」を仕掛けようとしていた。
この勅令は王家の者の署名があれば領主の権限を一時的に剥奪できるという、公爵が最も重要な策としてひた隠しにしていた、領地略奪の為の秘蔵の一撃であった。
◆◇◆◇◆
その日、アルは領主として領内の採掘業者との契約書にサインするため、隣接する貴族の屋敷を訪れていた。
この貴族は表向きは中立派を装っていたが、実際は公爵派に属する者だった。
彼らはアルに採掘権の安定供給と領民への利益分配、そして子爵家への経済的支援を約束する、希望的な旨味のある数字を羅列した契約書を示していた。
特に契約書の冒頭には「エバンス領民の幸福の確約」というアルが最も心を動かされるフレーズが大きくはっきりとした文字で書き記されていた。
「アル様、これでエバンス家の魔鉱石は安定供給は約束され、領民の生活は向上の確約を得ることができます。姉君の心労もまた軽くなるでしょう。素晴らしきご英断ですね」
善良で領民を心から愛するアルは、その契約が誰をも幸せにするものだと信じ、何の疑念も抱かずにその書類に署名した。
しかしその契約書の裏側には、専門家でも見抜けない程の極めて巧妙な抜け穴と、遅効性のある毒のように仕込まれた悪意に満ちた条項が隠されていた。
それは採掘権の安定供給という名目で、一定の条件で発動する特記事項の中にあった。
ある条件下で、領主の持つ一切の財政的・法的権限を公爵家に無償で委譲するという、致命的な内容が書き記されてあった。
数時間後、帰宅したアルの顔は血の気を失い青ざめていた。
彼は姉であるミナから教わった「文書は署名の前には、一切の感情を抑え検証すること」という教えを思い出し、帰りの馬車の中で穴が開く程に検証した結果、契約書の真の意図に気づいたのだ。
その条項はエバンス領の権利を二度と取り戻せないものにするだけでなく、子爵家を公爵の意のままに操られる傀儡とするものでもあった。
「姉上……、僕が、僕が間違ったせいで……!領民のみんなの生活を……!姉上が僕を守るために耐えてきた全ての苦労を、僕が、僕の無知で台無しにしてしまった!」
アルは初めてその純真無垢な心に、他者の悪意に触れたことによる深い後悔の念を刻まれた。
彼は自責の念に駆られ泣き崩れ、愛する姉に事実を告げることができなかった。
瞳から清らかな光が失われ、動揺と自己嫌悪に苛まれるアル。
その様子を見たミナの心臓を大きく跳ね上がり、物理的に締めつけられうような痛みに顔を歪めた。ミナにとって弟の苦痛こそが最も耐えがたい痛みだった。
(アルの清らかさが悪意の泥によって深く汚れそうになっている……。その後悔が彼の心を折る前に、彼をこの絶望から救い出すために、今こそ全ての悪意を駆逐しなければならない!
公爵の目的はアルの署名した契約書。それを回収し、今後二度とアルに近づかないよう、あの公爵の不正を暴く決定的な証拠を手に入れなければ!)
ミナは何も言わずにいた弟アルをいたわるような優しい目で見つめながら、危機が目前に迫っていることを察知し、その脳内を激しく動かしていた。
夜が訪れる。
アルが自室で苦悶の表情を浮かべながら横になった直後、ミナは迷いなく隠密『水無月』へと身を転じた。
その全身を覆う装束は夜の闇に完全に溶け込み、彼女の巨大な魔力を外へ漏らさない特殊な構造になっている。
彼女が目指したのは公爵がアルの署名済み契約書と、それを背景とした不正な勅令の偽造書類など、最も重要な証拠書類を保管しているという郊外の別邸だ。予想通り厳重に警備されている。
今の別邸は音波探知式の多層式の結界、視覚欺瞞の自動防御魔術、さらには外部からの魔力干渉を跳ね返す「沈黙の壁」という魔道具によって厳重に守られていた要塞であった。
『水無月』は桁違いの魔力をもってそれらの結界を正面から破壊できただろう。
だが彼女はそれをするのではなく、その結界の波長のズレを正確に計算し、微細な共振波を送り込むことで、まるで自分がシステムの一部であるかのように、静かに無力化していく。
彼女は魔力を完全に制御した。音も立てず痕跡のひとかけらも残さずに奥深くへと進んだ。その動きはまるで冷たい隙間風のような、そんな軽やかな動きであった。
彼女の目標はアルが署名した契約書の原本、そして公爵派が判事たちに賄賂を贈ったことを示す秘密の会計記録、さらに偽造された勅令の草案という、三点の決定的な証拠の回収だった。
別邸の地下に設けられた分厚い鋼鉄で強化された金庫室の扉の前で、『水無月』は魔力の解放を始めた。
それは攻撃的な炎や雷ではなく空間の共鳴を操作し、扉の金属の原子配列に微細な歪みを生じさせる高度な術式。扉はまるで呼吸をするかのように静かに開き、中から目的の書類が収められた箱を手に取った。
その瞬間、『水無月』は気配を感じ壁の隅へと移動した。
「動くな『水無月』。貴様がこれ以上、闇を深めることを俺は許さない!」
冷たく、しかし深い悲壮を帯びた声が響いた。
王国騎士団の制服を纏った騎士カイル・ウェストフィールドが、壁の影から騎士の魂でもある剣を抜き、彼女に切っ先を向けていた。
彼は公爵からの密命を受け渋々ながら行った調査により、『水無月』の行動パターンを分析。そして今宵、『水無月』が公爵邸を狙うことを予測していたのだ。
「騎士カイル……」
その名を呼ぶのは『水無月』。
それを見るカイルの表情は苦渋に満ちていた。
調査の過程で、カイルが愛するミナと目の前の存在が、同一人物である可能性を微かに感じ取ってしまったカイルは、正義の使命を放棄できない自身に苦悩していたからだ。
「貴方は私を追い詰めた。計画の成功率が貴方の登場により、危機的な状態にまで低下したことは認めます。ですが私は誰にも負けるわけにはいかない……、それでも私は貴方の、その正義を蔑ろにするつもりもないわ……。
そして、貴方を傷つける武力でさえも、私は行使しない……」
終始『水無月』の口調は静かで一切の焦りがない。
カイルは騎士としての正義感と、目の前の謎の存在への憎悪を、そして僅かな猜疑心を込めて剣を強く握りしめた。
彼の心には法を破る『水無月』への義憤があった。
彼の心の奥底には、この行為が何らかの理由があるのだと思う猜疑心があった。
「貴様はエバンス家を巡る闇に関わっているな?だが、例え目的が領地の救済であれ、法を破り公爵邸に侵入することは許されない! 私は公爵が悪である可能性も考えているが……、貴様の行為もまた、罪なのだ!」
カイルは邪念を捨て躊躇なく斬りかかった。
彼の剣は正確無比でその一撃は回避を許さないほどの速度と重量を持っていた。剣の軌道はミナの生命を断つのではなく、動きを封じることに特化されていたが、その威力は尋常ではなかった。
しかし『水無月』は動かない。
カイルの剣がミナの首筋に触れる寸前、彼女の桁違いの魔力が空間を歪ませた。その魔力は剣の刃が作り出す風圧、その振動、カイルの呼吸、そして彼の動きが作り出す床のタイルとの摩擦によるエネルギーを、その全てを波として捉えていた。
ミナが作り出したゆがみにより、剣はミナの体ではなく彼女の足元に敷かれた絨毯を切り裂いた。元々の軌道からわずか数ミリずれた地点であった。その精密な操作はカイルの剣技を完全に無力化する、神業的な技術であった。
カイルの剣に伝わるのは肉を裂く手応えではなく、鋼鉄の刃が空気抵抗を突き破る、物理法則を超越した奇妙なズレだった。
「貴方の剣は清らかなる正義の剣。人を傷つけたり無用な血を流すべきではないわ。特に大切な何かを守ろうとしている貴方には……」
『水無月』はカイルに反撃をすることもせず、手に持っていた書類を収めた箱を床へと置いた。
そして魔力を込めた両手を軽く合わせる。。
ドォンッ!
激しい共鳴音とともに『水無月』を中心に光が、そして音の波が広がりカイルまで届く。
僅かな苦痛と振動に夜不快感に顔を歪めるカイルの横を微風が通り過ぎる。
カイルは、視界から『水無月』が消えていたのを確認し愕然とした。
そして、目の前には先ほど彼女が床へと置いた箱。
その箱の中を確認する。
中にはアルが署名した契約書、そして公爵が判事たちに賄賂を渡したことを示す判事三名の署名入り秘密会計記録の写しが入っていた。
完全に闇の中に消えながら、静かで、しかし脳内に響くようにはっきりとした『水無月』の声が響いた。
「中身をよくご覧なさい騎士カイル。貴方が追いかけるべき『闇』がどちらなのかを。貴方の正義の剣の真の標的は、私ではないはずよ?信じているわ……」
その後、『水無月』の気配は完全に消えた。
彼女は公爵の証拠を奪取ではなく、騎士カイルの正義の刃を信じ、公爵自身へと向けさせるという成果を託したのだ。
カイルは箱の中身を確認し、公爵の不正の決定的な証拠とアルを陥れた契約書の悪質な条項、そして偽造された勅令案を暫し確認し愕然とする。
彼の「正義」が最も忌み嫌うべき悪事、つまりは公爵の悪意の片棒を担ぐ形で、自らがエバンス家を追い詰めていたのだという後悔がカイルの胸を深く抉った。
彼は自分が追いかけていた『水無月』という闇こそが、世界に光をもたらす存在だったのではないか?そう思えてならなかった。
この夜の激突は、関わった者のすべてを最終決戦の舞台へと押し上げる転換点となった。
公爵は契約書を、自らの不正の証拠を、騎士カイルという新たなエバンス家の協力者により奪われたのだ。
そしてナミに残る部隊は法廷という公の場であった。
もっとも厳粛であるはずのその舞台で、王国に蔓延る蛆虫たちに対しての、最後の殲滅作戦が幕を開ける。
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