第二話・聖女の微笑と、駆逐される悪意
馬車が動きを止める。
セシル侯爵夫人の邸宅は春の陽光を浴びて華やかに輝いていた。
広大なサロンには王都の有力貴族数十名が集い、その大半がエバンス家の没落を期待するアルバート公爵派の寄子貴族たちであった。
彼らの関心は病弱で無力と噂されるミナ・エバンスが、この社交の場での試練に耐えられるか、あるいは自滅するかの一点に集約されていた。
ミナ優雅な薄紫のシルクのドレスを纏い、首元には魔力抑制を兼ねた極小の魔導石が埋め込まれたシンプルなネックレスだけを身につけていた。
その姿はまるでガラス細工のように繊細で、触れれば易々と壊れてしまいそうに見えた。
この完璧に演出された「聖女(仮)」の優美さが招待客の好奇と、底意地の悪い軽蔑が入り混じった視線を集めていた。
セシル侯爵夫人は極上の刺繍が施された高価なショールを肩にかけ、優雅な笑みを浮かべたままミナを出迎えた。しかしその瞳の奥には、弱き獲物を追い詰める捕食者の冷徹な計算が宿っているのをミナは見逃さなかった。
ミナの全神経は既に分析を始めており、侯爵夫人の香水の微かな成分、サロンの温度、招待客の視線の移動速度までを分析していた。全ては自身の予測に狂いが無いかを確認するために。
「ああ、ミナ様。病床からわざわざお出ましいただき感謝いたしますわ。お体の具合はよろしいかしら?御領地の為とは言え、繊細な貴方様が無理をなさっては私たちも後悔してしまいますもの。
万が一ご気分でも優れなければ、わたくしがご当主代理のアル様にいかに貴方様が無理をされて倒れたのか……、詳細にご報告せねばなりませんものね。そうでしょ、皆様方……」
侯爵夫人の言葉はミナの病弱さ、そして弟アルの心情を揺さぶることで彼女に心理的な圧力をかけることを目的としていた。
ミナは深く優雅に一礼し、完璧な聖女(仮)の微笑みを浮かべた。
「ご心配いただき恐縮ですわ、セシル様」
ふらりと膝を屈めるスカートをつまむ。
「弟のアルが私の健康を心から案じておりましたが、今日だけは無理をさせていただきましたわ。それに、上位貴族様であられる夫人の素晴らしいおもてなしを中座するなど、あってはならないこと……。
ですのでご安心くださいませ。弟は私が笑顔でいることだけを望んでおりますので、たとえとどうなろうとも、醜態をお見せすることはございませんわ……」
アルという弟の存在を盾に夫人の嫌味の含まれた気遣いの言葉を跳ね返す。
ミナの言葉に一切の攻撃性はなく、ただ弟への献身的な愛しか含まれていない。しかしその清廉なる純粋さこそが、夫人の冷酷な攻撃を封じる完璧な防御となり、周囲の貴族たちを沈黙させた。
茶会が進むにつれ侯爵夫人はミナを無能な当主代理の姉と位置づけるべく、会話の罠を次々と張り始めた。最初の攻撃はエバンス領の経済的な不安を煽るものだった。
「そういえばミナ様。エバンス領の今年の魔鉱石の産出について、市場では芳しくない噂を聞きましたが……。それに加え、公爵領が新たな採掘技術を導入した結果、エバンス領の魔鉱石の市場価値が著しく低下しているとか……。
ご当主代理のアル様はまだお若いですから、さぞご苦労なさっていることでしょう?」
これはミナの家政能力の欠如を遠回りに指摘し、弟アルを「無能」と印象付けるための常套句だった。
ミナは皿の上でフォークを優雅に休ませた。
一切の感情を交えずただ「事実」だけを述べる。
「まあ、セシル様。市場の噂とは時に真実よりも面白おかしく語られるもの。ご心配には及びませんわ。むしろ公爵領が新たな技術を導入したからこそ、弊領の差別化が明確になりました」
ミナは一度呼吸を挟んだ。
周囲の貴族たちはここでミナが困窮ぶりを認めるか、あるいは虚勢を張るのかとその次の一句を待ち望んでいた。
「昨年の秋季報告書によりますと公爵領の産出量が急増したのは事実ですが、その純度は平均して七割五分とのこと。対してエバンス領は三年前の秋季報告書に基づき、古来からの選鉱法を維持しておりますわ、
その純度は九割一分を保っておりますの。さらに先々月、北西部では新たな結晶の鉱脈が確認されましたわ。この新鉱脈は公的文書にはまだ載せておりませんが、その魔力活性度については他の場所と同様。
すでに王都魔術院に提出しておしますので、来年度の鉱物学教本の注釈にその結晶が比較対象として用いられていることでしょう。そのことでも新たな鉱脈が高純度なものである証左となると思っておりますわ……」
ミナは誰もがすぐには確認できない過去の詳細なデータ、最新情報をまるで今まさに読み上げているように淀みなく、そして完璧に言い切った。
ただの事実の羅列。
この情報量は彼女の超人的な記憶能力がもたらす特殊な能力であり、エバンス家を、延いては領主代行であるアルを蔑む言葉に対する敵意すら含まれていない。
しかしその事実は、「無力な聖女」というミナの仮面を打ち破り、「この令嬢に嘘は通じない、彼女は全てを知っている」という、静かで絶対的な威圧感を放っていた。
侯爵夫人セシルは情報戦で完敗したことを悟り、焦りの色を隠せなくなった。
会話の罠が効かないと悟った侯爵夫人は、計画通り最終手段に出た。
給仕が鮮やかなライムグリーンのタルトと芳醇な香りの紅茶をミナの前に置く。これこそミナの調査した通りの精神錯乱を誘発する遅効性の毒が仕込まれた二品であった。
ミナは給仕がタルトの皿を置く瞬間の彼の指先に微かに残る「焦げたような匂い」と、紅茶から立ち上る香りの裏に隠された「金属的な微臭」の有無を、その超人的な五感で捉えていた。
「ミナ様はこのライムタルトがお好きだと伺いましたわ。わたくしの専属の料理人が、貴方様のために特別に作ったものです。さあ、冷めないうちにどうぞ。そちらの紅茶を合わせて頂くと美味しいのですよ。
まあ……、ミナ様の口に合うかわ、分かりませんけどね?」
侯爵夫人は慈愛に満ちた笑顔を貼り付けたまま、多少の悪意を籠めた言葉でミナにソレを勧めた。
これでミナがタルトと紅茶を口にすれば、数分後には発言が乱れ、取り乱し、社交界での地位は完全に失墜するはずだった。
ミナはタルトに手を伸ばしその手前でぴたりと止めた。
彼女はタルトを観察するように一瞥し、そして侯爵夫人の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「サシル様、ありがとうございます。ですが大変残念ですわ。この素晴らしい菓子は、完成し得ない状態にあるように拝察いたしますわ」
突然のミナの発言に会場が静まり返る。
公爵派の貴族たちはミナが毒に気づき、怒り始めたのかと色めき立った。
侯爵夫人は内心動揺しながらも、冷静を装った。
「まあ、ミナ様。どういう意味です?このタルトは最高級の材料と、王家にも納めている秘伝のレシピで作られておりますのに」
ミナは静かに微笑みながら解説を始めた。
侯爵夫人が常用する「濃密な香水」の成分と、タルトから立ち上る「ライムの酸味」、さらには「紅茶」から立ち上る香りを、すでに脳内で分析し終えていた。
侯爵夫人が用意させた伝統のタルトのレシビには極めて強い興奮作用のある『スティモランテ』というやや土臭い風味の成分が多く含まれている薬草が多量に使われている。それ故に強い旨味を感じ、極上の味わいを楽しめるのだ。
だがその強すぎる風味と、ある副作用のみを上手く抑える為には、ある特殊な鉱物が必要であった。
その粉末から抽出した成分を微量に含ませることで、王室でも食されている至高の菓子と名高い侯爵家のライムグリーンのタルトとして完成となる……。
「このタルトは完璧なレシピに基づいていることは、私も存じ上げておりますわ」
儚げな笑みを浮かべるミナに周りの者達は釘付けになる。
「私、最近『古代薬理学』の文献に傾倒しておりまして……。セシル様、このタルトの独特の風味を安定させ、胃への刺激を抑制するために、『アストラル・サンド』が微量に含まれるのが……、本来の秘伝の製法ではございませんか?」
アストラル・サンド。
それは侯爵夫人が今回の茶会のためにと用意し、そして前夜、『水無月』によってその供給元から完全に駆逐された、魔力的な属性を持つ希少な鉱物だった。
ミナは続ける。
「しかしこのタルトからは、その『アストラル・サンド』の持つ、微細な安定化魔力が全く感じられません……。もしこの鉱物が使われていないとすれば、タルトの肝となるべきアレの副作用により……、
胃腸の弱い方、あるいは私のような病弱な者が食べてしまえば、発熱や精神的な錯乱を引き起こし、致命的なダメージを与えかねないのではないでしょうか?」
ミナは毒の存在には一切触れなかった。
ただ「レシピの不完全さ」と「健康への配慮」を指摘しただけだ。
だがこの瞬間、侯爵夫人は全身から血の気が引くのを感じた。
(なぜこの娘がこのような知識を、それに『アストラル・サンド』が入っているかなんてなぜ分かったの?それが無いことをどうやって見抜いたっていうの?アレは何者かに奪われたなかりの……、まさか、それもこの女の仕業!?)
彼女の知られざる力、すなわち『水無月』の活動によってソレはすでに駆逐されていた。
本来、侯爵夫人はナミにだけアストラス・サンドが入っていないタルトを食べさせる予定であった。病弱たどいう彼女なら、薬効により錯乱し醜態をさらすだろうと、そして他の貴族たちは健康そのものなんだから、大したことは無いだろうと。
そう思っていたのに……。
侯爵夫人hア悔しそうに爪を噛む。
そんな中、ミナは目の前の紅茶に目をやった。
「それに紅茶に僅かに残る土のような香り……、まあそれは良いですわ……」
その言葉に動揺を加速させる侯爵夫人。
ミナの紅茶にだけ入っているのは微量の『スティモランテ』だった。微量ならば匂いも気にならないはずだと入れられたもの。液体て吸収することで副作用は強く激しくなる効果を持つソレを。
ナミがその紅茶を摂取することにより、彼女の精神はさらに刺激され、醜態をさらすはずだった。
その匂いもアストラル・サンドにより押さえられるはずだった……、全てはお見通し。ということなのかと俯く侯爵夫人。
そんな夫人の目で、ミナがその紅茶を優雅に嗜んでいる光景が映った。
ミナは事前に量を調整した『アンチデプレッシヴィ』をこっそり入れていた。
含有している『スティモランテ』と相反する抗うつ薬。
それを見た侯爵夫人は、ミナが自分より遥か上をいく桁違いの知性と力を持っていることを理解してしまった。自身の悪意は、ミナの周到な準備によって自滅したのである。
ミナは皿からタルトをそっと遠ざけ、その身を案じる「聖女(仮)」の表情を浮かべた。
「私、セシル様のご心労を慮り本日はこのタルトは遠慮させていただきますわ。そして、どうかこのレシピの不備を、料理人の方にお伝えになってくださいませ。
これ以上、誰も後悔をしないために……。特に私のような病弱な人間が、公の場で発狂でもしたら、セシル様への風評被害は計り知れませんもの……、そうですわよね?セシル様?」
侯爵夫人は声を発することもできず、ただ打ちのめされた顔でミナを見つめるしかなかった。公爵派の貴族たちも何が起こったのかはっきりとは理解できないまま、ミナのただならぬ威圧感に気圧されていた。
ミナ・エバンスは優雅に茶会を辞し、侯爵夫人が提供した馬車ではなく、自領の馬車に乗って邸宅へと帰路についた。
馬車の中でミナは静かに瞳を閉じた。
(今回の勝利は侯爵夫人の悪意を一時的に封じ込めたに過ぎないかもしれない。でも、彼女の背後にいる公爵はこの一件で私の「無力な聖女」という乞おう全の事実が仮面であることを察知したはず。
でも心配いらないでしょう。彼女はきっと他の公爵派の者たちにきつく口止めをするわ!私が病弱であり、無能な聖女(仮)様じゃなきゃ、公爵派の人たちの安寧は得られないもの……。
まだ情報戦は続くだろうけど……、私は誰にも負けないわ!全ては可愛い弟の、アルの純粋な心を守り抜くため!勝者は何も望まない(嘘)。私が望むのは弟の可愛い笑顔、ただ一つだけよ!)
ミナの心は穏やかだったが、その脳内では既に次の公爵の行動パターンと、それに対する『水無月』の暗躍計画が秒単位で構築されていた。
彼女にとってこ、の茶会での勝利は単なる序章に過ぎなかった。
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