第一話・聖女の仮面と茶会の毒
エバンス子爵家の館は、領地の魔鉱石の恩恵を受けてかつては壮麗を極めたが、今や静かに朽ちつつある。
分不相応な財政規模と先代が残した謎の負債が重荷となり、外壁の漆喰は剥がれ、庭園の手入れは行き届いてはいない。
特に夜間は広大すぎる屋敷の維持費不足から、使用されないホールは薄暗く空気が淀んでいた。
使用人たちは皆、不安な面持ちでこの斜陽の貴族家がいつ崩壊するかを案じている。
この重苦しい運命を背負い家を支えているのは、たった二人の姉弟だけであった。
姉のミナ・エバンス子爵令嬢は、その圧倒的な美貌と、どこか物憂げな雰囲気から、社交界では『聖女(仮)様』と呼ばれていた。
この呼称は純然たる侮蔑の言葉ではあるが、落ちぶれた子爵家の身分であるミナには抗うこともできずにいた。
純粋さと清廉さだけが売りである浅はかな女、聖女という地位は金で買った無知な女。そう思われていた。
透き通るような白い肌は確かに儚げで、少しの動揺や風邪でさえ生命を脅かすかのように見えた。聖女たる証でもある治癒術は確かに使えるようだが、それもこれも貧しい者達だけに率先して使っているミナ。
貴族たちの求めには病弱がゆえと応じていないことも、彼女の地位を貶めようとする者達の言い分を増長させている。
彼女の無知で病弱さは、社交界における共通認識であり、それが彼女を無害な存在として見せている最大の仮面であった。
「姉上、今日も陽の光を浴びないと。窓辺で少しだけお過ごしください。病に負けてはいけませんよ!」
扉を開け朝の太陽のような眩しさで飛び込んできたのは、ミナの唯一の宝、弟のアル・エバンスだった。
彼はまだ十代半ばだが、すでに子爵家の当主代理を務めている。
明るい金色の髪に曇り一つない純真な瞳を持つアルは、生来の善性ゆえに、領民から熱烈に慕われる資質を持っている。
ミナが自らの命と引き換えにしても全てをかけて守りたいと願う、清らかな輝きそのものだ。この清廉な精神こそが、彼女にとってエバンス家が再興するための唯一無二の、最も価値ある資源だと認識されていた。
ミナは微笑んで薄いブランケットをそっと膝にかけた。
「ありがとう、アル。でも病弱な私の心配より、領主としての仕事に集中して。今日は港の検分があると聞いたけれど? 潮の流れの変化が貨物の輸送に与える影響を計算してね?」
「はい、もちろん! 領民の皆が元気に働いている姿を見ると、心が洗われるようです。姉上が教えてくださった、『与える心こそが貴族の義務』という言葉を胸に頑張ります!」
アルの言葉を聞くたび、ミナの胸には熱い決意が蘇る。
彼こそが、この腐敗した貴族社会に負けない唯一の希望だ。アルがその純粋な心を保ち、立派な領主として立てるならば、ミナは何も望まない(嘘)。彼女は全ての泥を被り、全ての悪意を打ち砕く盾となろうと誓っている。
この「嘘」は、彼女の自己犠牲的な献身の裏返しであった。
しかしその「清らかさ」を守るため、ミナは自らの真実を隠し続けている。彼女の体内に流れる桁違いの魔力、そして一度見たもの、聞いたもの、嗅いだもの全てを記憶し、瞬時に分析する超人的な記憶力を。
この能力は単なる記憶ではなく、情報の体系化と未来予測を可能にする、恐るべき戦略兵器であった。
◆◇◆◇◆
その日の午後、一枚の招待状が届けられた。
純白の高級紙に金箔で縁取られた封筒は、それ自体が社交界の頂点を象徴しているかのようだった。
送り主は社交界の女帝、セシル侯爵夫人。
彼女はアルバート公爵派閥の重要人物であり、エバンス家を巧妙な不正会計と高利貸しによって経済的に追い詰めている冷酷な黒幕の一人である。
召使いが極度に緊張した面持ちで招待状を差し出した。
それは三日後に開かれる予定の茶会への誘いであった。
「侯爵夫人が我々のような没落寸前の家を? 姉上、罠ではないでしょうか? まさか公の場で父上の残した負債を詰問するつもりでは?」
アルはすぐに警戒の色を強めた。
ミナは微笑みを崩さず真っ白な封筒の端を指でなぞる。
その指先が触れるだけで彼女の意識は封筒の紙質、インクの成分、さらには送付された時間帯の裏にある意図までを分析していた。
「ええ、アル。もちろん罠よ?セシル侯爵夫人がただで私にこんなものを送るわけがないわ。彼女は社交界での私の無力という評価を利用して、私たちを公開の場で貶めようと画策中なのでしょう」
ゆったりとした口調で語るミナ。
(そうね、具体的には……、私の精神的な脆さを突いて取り乱させることで、エバンス家が当主アルの指導下にあっても、姉の病弱さゆえに不安定であるという印象を植え付けたいのでしょ?でもそうわさせないわ!)
ミナの心意気など知るはずもないアルは拳を握りしめた。
「ならば私が行きましょう!私が不手際を演じたところで失うものなどありません!私は、姉上の名誉が傷つく方が耐えられません!」
ミナはアルの熱い手をそっと包み込んだ。
その手の温もりが彼女の冷徹な決意を支える唯一の理由であった。
「駄目よ。貴方はエバンス家の『清らかな光』。どんな泥も浴びてはいけないわ。それに、この茶会は病弱な私が社交界に顔を出す唯一の機会だわ」
そう言って笑みを浮かべるミナ。
(なにより侯爵夫人は私が絶対に出席すると確信しているはず。なぜなら、招待状には貴方が愛読している『古き良き王国の美術品目録』の極秘情報がさりげなく記載されていたから!)
ミナの瞳が一瞬、夜の闇のように冷たい光を放った。
「私は誰にも負けないわ」
アルを見つめながらそう告げるミナに、アルも自身の役目を果たす為、姉上に恥じぬ研鑽を積まなくては!と強く願うのだった。
(侯爵夫人の用意した仕掛けは、私自身が全て駆逐するわ。安心して、アル!私は貴方を、そして貴方が守りたいと願うこの領土を、絶対に守り抜くわ!)
ミナは心の中でアルを守る為の揺るぐことのない決意を固めた。
ミナは招待状を開くことなく暖炉の火にくべると、その灰すら念入りに処分させていた。
すでに内容の分かっている手紙は必要なかった。
彼女の超人的な記憶力は既に把握済みの文面に隠された侯爵夫人の策略の意図、そして前もって把握していた茶会での詳細な座席配置、招待客の人間関係、さらには茶会で提供される予定のメニューと食器の柄までをも完璧に把握していた。
全ては、愛するアルの為に。
夜の帳が降りる。
アルが深い眠りにつき、その寝顔が純粋な平和を体現しているのを確認すると、ミナは寝室の奥に隠された秘密の通路へと向かった。
通路の終点、魔力障壁に守られた小部屋で彼女の変貌が始まる。
白く儚げな子爵令嬢の姿は消え、そこに現れたのは全身黒ずくめの装束を纏った隠密『水無月』だった。
装束は光を吸収し動くたびに微かな魔力の粒子を放ち、周囲の温度と湿度に同化するよう設計されていた。彼女の顔は月の光に隠され、手には使い慣れた情報収集用の魔導具が握られている。
ミナは窓辺に立ち深呼吸をした。
体内の桁違いの魔力量が静脈の中で脈動するように解き放たれ、夜の空気と一体化していく。
その魔力量は彼女が「病弱」であるようにと、常に抑圧している膨大なエネルギーの塊であり、その全てを解放すれば国一つを滅ぼしかねないほど強大だった。
彼女の「病弱」な身を演じる時間は、この恐るべき力を制御するための自発的な封印でもあった。
(セシル侯爵夫人、貴女は私の名誉を毒で汚し、その失態で弟を絶望させようと企んでいる。貴女の計画は、私の弟の精神的支柱を破壊することに繋がる。私はそれを絶対に許さない!)
ミナは茶会の会場の間取り、夫人が好む特定の茶葉の香りを記憶から呼び出す。
同時に侯爵夫人の主治医や専属料理人の動向を記した極秘報告書の内容と突き合わせる。
(やはり紅茶に混ぜる予定なのは『遅効性の精神薬』。精神の論理回路を混乱させ感情的な爆発を引き起こし、発言に支離滅裂な矛盾を生じさせる。これは過去のエバンス家に存在した気性の荒さを演出させる罠!
聖女として、貴族として、相応しくないその精神不安定な血筋を演出するため、彼女が今回しかけるのはこの一点だけのようね……。この毒に侵されれば、私は錯乱し、他者への攻撃性が増す……。
だがその強い香りと味わいを放つ毒は、彼女が常用する濃厚な香水と、茶会に出される予定の『ダージリンのセカンドフラッシュ』の強い香りで完璧に隠蔽される!)
『水無月』は闇の中で静かに魔術を発動させる。
それは彼女の魔力を一滴も無駄にしない超効率的な情報収集と、反撃のための準備魔術だ。
彼女はまず毒の調合に必要な「ある希少な鉱物」を、エバンス領内の密かに採掘していた公爵派の貴族の倉庫から駆逐することから始めた。
その鉱物の消失は侯爵夫人の毒の調合を不完全にするだけでなく、その貴族が違法採掘を行っていた事実を後悔の念とともに思い知らせるための布石でもあった。
この周到な準備こそが、侯爵夫人に敗北の理由すら理解させないミナの勝利の方程式だった。
『水無月』が暗闇の回廊を抜ける瞬間、遠くの街路に馬蹄の音と強い魔力の気配を感じた。それは秩序と規律に満ちた強い正義の魔力であった。
(カイル・ウェストフィールド騎士団長……、彼が『水無月』の追跡を再開したのね……。彼は私が今夜動くことを予測していた……)
騎士カイルはミナの遠い幼馴染であり、公爵の支援を受けながらも『水無月』を追い続けている。
彼は正義感が強く、ミナの儚い美しさに密かに心を寄せているが故に、彼女の家を脅かす『水無月』と噂されているその存在に心を乱されていた。
もちろん『水無月』がエバンス家を脅かす存在というのは、公爵派の広めた噂であった。
だがそんな噂も、カイルにとって『水無月』は謎多き脅威であり、ミナは『守るべき令嬢』という存在であった。
「ミナ様、私は貴女を守るために、誰にも負けない強さを持たねばならない!」
嘗て私にそう宣言したカイル。
今もカイルのその決意が混じった力強い魔力の残滓を察知したミナは、胸の奥で静かに呟いた。
(カイル。貴方は私を『守るべき令嬢』と見ている。でもそれは私の望みではないのよ。貴方に頼りきることはアルの純真さを守るための私の決意を裏切ることになる。貴方の正義の心は、本当に必要な時の後押しに取っておくわ……)
『水無月』は誰にも姿を見せず、ただ静かに影に溶け込んだ。
夜空には満月が冷たく輝いている。
彼女はカイルの追跡を警戒しつつも、自分の計画に揺るぎがないことを確認した。
◆◇◆◇◆
茶会当日、ミナ・エバンスは優雅な薄紫のドレスに身を包み、セシル侯爵夫人の茶会へと向かう馬車に乗り込んだ。病弱な聖女の微笑みの下に隠されたのは、誰も理解しえない、誰にも負けない女王の厳粛な決意だった。
(アル。全ては貴方のため。そして勝者となった私は何も望まないわ!私は、貴方が笑顔で領主として立つ未来を確保する。そのために貴方を脅かす全てを、静かに、そして完全に駆逐してみせるわ!)
馬車が動き出す。
ミナの戦いは今、最も華やかな戦場へと舞台を移したのだった。
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