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目の前の現実を直視して

 フロレンティーナは前世の記憶とともに、この世界で生を受けてから今に至るまでのすべての出来事を鮮明に思い出して、全身震えが止まらなくなってしまった。


 身体中を抱きしめ、尻もちつきながら牢の隅へと移動していく。


(あり得ない……あり得ないあり得ないあり得ない……! こんなことがあっていいわけがない!)


 この世界でこれまで生きてきた凄惨な記憶があまりにもインパクトが強すぎて、思い出したばかりの前世の記憶がすべて吹っ飛んでしまいそうだった。


 つい数日ほど前に味わった、絶対にあってはならない地獄のような出来事が頭の中を占有していて、軽いパニック症状を引き起こしそうになっていた。


 見た目は三歳ぐらいの幼児にしか見えないが、この世界で生きてきた五年間の記憶が頭の中で渦を巻いていて、気が変になりそうだった。


 優しくて(たくま)しかった父と、気高くてとても厳しかったけれど、それ以上に慈愛に満ちていた母。

 いつも自分を見て微笑んでくれた侍女たちや老執事たちのことも覚えている。


 そんな彼らと過ごしていた時間は彼女にとってはとても大切で、かけがえのない宝物のような存在だった。

 それなのに――いつも優しさに包まれていた幸福な時間だったのに、それが一瞬にして奪われてしまった。


 自分自身に起こった不幸な出来事に、彼女は心の底から慟哭した。不安、恐怖、喪失感、悲しみ、絶望。ありとあらゆる負の感情が身体の奥底からわき上がってきて、気が狂いそうだった。


 けれど、それとは別に、まるっきり異なるもう一つの感覚が自分の中に存在していることも確かに知覚していた。


 それが二十代後半だった前世の自分の記憶と意識だった。


 保険外交員(セールスレディ)として毎日のように外回りに出ては、契約者の勤務先や自宅に赴いて笑顔を振りまき頭を下げ続けていた。


 まるで仮面をはめながら毎日を過ごしているような気分だった。

 いつもヘロヘロになりながらも誰も待っていない自宅へと帰宅し、そのままぐてんと、ソファにぶっ倒れてしまうことが多かった。


 彼女が持つ最後の記憶も確かそんな感じだった。

 ぶっ倒れたあと、コンビニで買った缶チューハイを飲み、サラダを食べて、酔った状態でお風呂に入って……。


(……あ……れ?)


 そこからまったく記憶がない。そして気が付いたら、牢屋の中だった。


「う……」


 またおぞましい感覚が全身を襲ってきて、吐きそうになってしまった。

 頭の中にある二つの記憶がごっちゃになっていて、まるで意味がわからない。


 これはいったいなんなのか。どういうことなのかひたすら考えたが答えは出なかった。

 しかし、だけれどもし、お風呂に入っていたときにヒートショックか何かを起こして、そのまま死んでしまったのだとしたら。


(これは……転生したってこと?)


 よくわからないが、先程頭をぶつけたショックで前世の記憶と意識が蘇ってしまい、今生で生きてきたフロレンティーナとしての自分と融合してしまったということなのだろうか。


(それだったら説明がつく……ていうか、そうとしか考えられない。だって……!)


 疲れ切っていた前世の記憶と、身内すべてを皆殺しにされてしまった幼子の絶望と悲しみがぐちゃぐちゃに混ざり合っていたから。

 そして、そう認識した瞬間、分離していた記憶と意識と感覚がどんどんどんどん一つになっていった。

 そうしてそれらが完全に一致して整合性がとれたとき、


(ああああああ~~! どうしてよぉっ~~~~! ふざけんなっ)


 完全に一つの人格として覚醒した瞬間、意味もなく発狂しかかってしまった。

 あとからあとから止めどなく襲ってくる絶望、悲しみ、寂しさ、不安。


 幼い少女として生きてきた自分が感じた心細さが際限なく襲ってきて吐きそうだった。

 前世の記憶が残っているとか、そんな問題すべてがどうでもよく思えるくらい、この数日間に起こった悲惨な出来事が強烈すぎた。


 次から次へと襲ってくる感情の渦のせいで頭がおかしくなりそうだった。


(どうして私がこんな目に遭わなければならないのよっ。どうしてパパとママが死ななくちゃいけないのよっ)


 前世でも父親を早くに亡くしていたのに、今生でもまた、五歳にして父だけでなく母や家まですべてを失ってしまった。


(パパ……!)


 フロレンティーナは泣き叫びたい気持ちを必死になって堪えた。

 記憶の中の優しかった父の笑顔が脳裏をよぎる。

 いつも力強く抱きしめてくれた父。彼女はそんな彼が大好きだった。自分を甘やかしてくれる父のあとをいつも追いかけていたような気がする。


 そんな二人を見て、渋い顔を浮かべて小言を言ってくる母も、彼女は大好きだった。

 それなのに、母も彼女同様賊に襲われてしまった。


 最後に見たのは馬車の中で大男に襲われ、乱暴されている姿だった。

 あのときの自分には何が起こっているのかまったくわからなかったけれど、今の自分であれば母が何をされたのか嫌でも想像がついた。


 そして、あの気高くて、それでも甘えさせてくれる母親が気色悪い男に暴行を加えられて、おめおめとそのまま無抵抗なままでいられるはずがない。

 きっと彼女は――


(ママ……!)


 フロレンティーナの中にある幼かった頃の自分が泣き叫び、かつて大人だった頃の自分が冷静に分析しつつもおぞましさに嘔吐しかかった。


(よくもパパを……よくもママを……! どうしてあなたたちはそんな酷いことができるのよっ)


 憎悪しか湧いてこなかった。


(私たちを不幸な目に遭わせた連中がいる。そして、そこにつけいる形で、私とママを襲ったクズどもが平然な顔してのさばっている!)


 ――許せない!


 ふつふつと湧いてくる怒り。激情がすべてを支配しようとする。復讐してやると、心の中で誰かが叫んでいた。

 際限なく湧き上がってくるおぞましい感情が彼女の心を蝕み始める。

 しかし不思議と、それら負の感情のおかげか、心の中を支配していた悲しみすべてが吹き飛んでいくような気がした。


 ――復讐したい。フクシュウしなければナラナイ。だけれど、そのためには冷静さを取り戻さなければいけない。


 そう誰かが心の中で語りかけてきているような気さえする。

 フロレンティーナは心の声に応じるように乱れた呼吸を軽く整えた。


(……落ち着くのよ……私。自暴自棄になったって、何もなさない。今は状況分析が先よ)


 全身を渦巻く激情の嵐を抑え込むように、そう自分に言い聞かせながら深呼吸をした。

 少しずつ、心を満たしていた怒りも、悲しみ同様収まっていく。


 周囲を見渡してみた。

 残飯を漁るように地べたの粥を貪り食っていた子供たちも、今はもう静かになっていた。

 それぞれ思い思いの場所へと移動し、再び抜け殻のような姿になり始めている。


(転生のことも含めて、なんでこんなことになってしまったのか相変わらず何もわからない。だけれど、一つはっきりしているのは、あの賊たちが私だけでなく、この子たちまで攫ってきたってことよね)


 そこから導き出される答えはただ一つ。間違いなく、自分たちは奴隷市に売り飛ばされる商品として、ここに入れられているということだ。


 ここ以外に牢屋があるのかわからないから、他にも捕まっている人たちがいるのかどうかもわからない。


 けれど、隣や他のところから物音などが何一つしてこないことから、ここ以外に捕まっている人はいないと見て間違いないだろう。となると、おそらくあの賊どもが子供たちだけを狙って誘拐してきて、それをそのままどこかへ売り飛ばそうとしているのは明らかだ。


(となると……やっぱりママは……)


 おそらくもう生きてはいないだろう。

 自ら死を選んだのか、それとも殺されてしまったのかはわからない。


 大人でも奴隷として商品価値があることは確かだが、子供しか見かけないところを見ると、あいつらがターゲットにしている商品は間違いなく子供たちだけだ。

 そこからかんがみても、母が生きている可能性は低いだろう。


 フロレンティーナは再度身体の奥底から湧き上がってくる強烈な悲しみに挫けそうになったが、必死に堪えた。

 父や母のことを考えると絶望的な気分になるけれど、今は自分の今後のことについて考えなければならない。


 もし本当にここにいる子供たち全員が奴隷として売り飛ばされるのであれば、待っている結末は相当悲惨なものになるからだ。


(それに、聞いたことがある。確か私がいた国では奴隷売買が禁止されていたはず)


 この世界に生を受けてからまだ五年しか経っていないから、情報が確かかどうかわからない。いつ仕入れた教養かもわからないけれど、確かにそうなっていたはず。


 フロレンティーナがいたサン・ラティノ聖王国では奴隷売買が全面的に禁止されている。


 だからもし、ここがまだ故郷の国だったとしたら、自分たちに待っている結末は二通りしかない。一つは裏取引で売買され、非合法な実験などに使われたり、文字通り、おもちゃのように扱われて殺されたりする道。


 そしてもう一つは、奴隷売買が認可されている他国に密輸されて、そこで正統な手段で売り飛ばされるという結末。


 だがいずれにしても、待っているのは奴隷生活の地獄だけ。

 この世界で五年生きてきたとはいえ、奴隷などという制度のなかった緩い世界に生きていた彼女に耐えられるものではなかった。


(なんでこんなことになっちゃったんだろ……私、確かついさっきまで……)


 フロレンティーナは襲い来る悲しみに押し潰されそうになりながらも、この世界とは別の世界の記憶を必死になって呼び覚まそうとした。

 だけれどやっぱり、思い出せるのは風呂に入ったところまでだった。

 そして、気が付いたらここ。更に、この世界で生きてきた五年間の記憶や思い。


(パパ……ママ……! 誰でもいいから私を助けてよっ……)


 そう彼女が悲嘆に暮れたときだった。

 どこからともなく大勢の人間が上げる怒号と共に、何かが破壊されるような音が辺り一帯に響き渡っていた。

【次回予告】 救いの手

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