第六幕『絵本の世界と魔女の国②』
夢だ、とジンは思った。そうでなければ走馬灯だ。
目の前に広がる光景は到底忘れようもない。灼火に焼かれた村で、そこに住まう人たちは迫り来る狂気から蜘蛛の子散らすように逃げ惑っていた。
血のように赤い服に灰色の髪。月色の瞳は愉悦に歪み、三日月に避けた瞼と口が、下卑た喜色に染められる。大気を舐める舌は細長く、二股に分かれている。まるで蛇のような目をしたその女は「アヒャヒャヒャヒャッ」と狂ったように眼前の惨状を、ただひた嗤った。
「たまんねぇよ、テメェら雑魚共の逃げる姿はさァ!」
拭い去る事も困難な世界の汚点。ジンの記憶に鮮烈な烙印を刻みつけたソレは、サラサラとした灰になった木材へ手にしていた大杖を翳し、おびただしい数の蛇を生み出した。
(やめろ……)
本来生命体ですらない脊椎動物を模したその灰色は、あたかもそうであるかのように蛇行で人々に迫り、面白半分に鈍色の牙を剥く。
「た、たすけて──」「触るなッ、オレま、デ……」
噛まれた女の体は即座に灰色に侵食されていった。その女が触れていた男も灰色に触れると、同様に全てが灰に呑まれていった。
「チッ、不純物混ぜやがって。ヤローはいらねーんだよ」
悪態を吐く魔女。魔女がその中の男の灰だけを蛇にすると、その蛇は他の村人へと躊躇いなく食らいつく。それを見て、魔女は満足げに口の端を吊り上げた。
……その背後に、二人の子どもがいた。一人は七歳頃の少年で、もう一人は五歳頃の少女。
二人は兄妹だった。研ぎ澄まされた剣身の如き鮮やかな銀の髪と、毛茸に包まれた新芽の如き鮮やかな新緑の瞳が二人のトレードマークだった。兄は強く、賢く、逞しく。妹は器量良し、性格良し、覚え良しと村内では評判の兄妹だった。
「待って、おにーちゃ──あぅッ!」
「セリアッ!」
そんな中、妹が足をもつれさせ、その足元を掬われた。焦りに昂る気持ちが少年の声を大にさせ、妹に駆け寄らば遅れて迂闊だという気持ちが追いついてきた。弱冠十にも満たない少年にしてみれば及第点と言えるその状況判断も、魔女という災厄に対して見せる隙としては極めて致命的だった。
(やめてくれ……)
全てを俯瞰して見ているジンは、この先に訪れる悲劇と結末を知っている。目を背けようとしても、網膜に焼き付いた記録は、慈悲もなく最悪の思い出をその瞼の裏で転がしていく。
「アヒヒヒぃ、こォーんにーちわァー」
頭上から落ち込んだ影に気付けばそんな声が頚椎を舐めた。蛇に睨まれたカエルのように動きを止めた二人に、灰色の魔女は満悦そうに目と口を歪める。
「ぼくたちィ、どーこ行くのかなァー?」
「ぁ……」
締まった喉の中、肺から逃げ惑う空気が邪魔だと声帯を押し退けた。人生の閉幕を脳裏に掠めさせるには十分な、圧倒的な死。それが今、二人の前に立ち尽くしている。
その魔の手が、二人に──否、少女に向かっていく。
それでも少年は動けない。両親に良き兄であるため、妹を守ってやれと言われていたのに。そんな約束も、相手が魔女では意識を保って怯える事だけで精一杯だ。。強さも、逞しさも、同年代と比べればの話だ。賢さも、人知を超えた魔女という存在には、何の意味も持たないではないないか。少年は──ジンは、己と神とを呪った。
灰になって崩れていく妹を救えず、指の隙間からこぼれる妹を掬えず、
「おにーちゃん、ごめんね」
諦観して笑った妹の気高ささえ、報えず。
「アッハァ、オマエ面白いカオしてんなァ!」
腹を抱える魔女に恨み言の一つ言えず、ただ眼前に起きた悪夢に天すら涙した。
──そこから先の事を、ジンはよく覚えていない。ただ、その魔女が立ち去る時に残した名前だけが、ジンの記憶の中に、確かに焼き付いている。
テメェら覚えとけ、オレ様の名前は────。
「エシュトラーザァッ!」
伸ばした手は虚空を貫いた。行き場をなくした声が室内にこだました。その部屋鳴りに、ジンの看病をしていたその人物は、ギョッとして肩を飛び跳ねさせた。
「……ここ、は?」
乾燥で張り付いた喉を痛ましく酷使した事よりも、ジンは自分の置かれた現状を確認する事に努めた。気を失う以前の記憶があやふやだったからだ。
ジンの記憶に残っていたのは、看板を見つけて、地面が割れて、それから川に飛び込んで、そこまでだ。間違いなく今いるような木造建築の家などとは点と線が結び付かないのだ。
足早にも気が付けば看病していた人物はいつの間にか退室しており、部屋にはジンだけが取り残されていた。
(手は、動く……。それに、心無しか、疲れがない)
ここのところ気を張り詰めていた事が多かったせいか、ジンの体は一休みできてすっかり喜んでいるようだった。けれど、遅れてやってきた悪夢の後味が、ジンの寝起きに水を差す。
(エシュトラーザ……。アイツは、この手で、必ず……!)
心臓を潰さんとする憂いを燃え盛る復讐心で焼き払い、シーツを取っ払った。見れば服はすっかり乾いており、どれほど時間が経ったのだ? と、ジンは不思議に思った。
外から差し込む光は相変わらずの太陽で、日が暮れたのか、数日経ったのかは分からない。けれど襲うつもりがあるのなら寝込みを襲うなりとすれば良いものを、わざわざベッドまで用意しているのだから親切な事だ、と魔女の世界に残された良心に、余計に疑念が深まる。
そうしてジンは初めて気付いた。
「そうだ、エルシーは……!」
姿が見えない。しまった、魔女が狙うならばエルシーだ、と思った矢先の事だ。
「ねえ、嘘じゃないよね⁉︎」
ドタドタと忙しない足音と、明るい声色がドアの向こうから聞こえてきた。ジンが何事かと身構えた瞬間に、
「ジンくんッ‼︎」
けたたましい音で蹴破られた扉の奥から、黄金色の髪をした少女が、海色の目を滲ませて勢い任せの入室をしてきた。
「エルシー、無事だったか!」
安堵の気持ちに穏やかさを欠いた心中へ平常心という凪が訪れようとした時、エルシーが「無事だったか、じゃないよ!」と小さな体を懸命に張り上げて怒鳴り散らかした。
「三日も目を覚さないし、すごく心配したんだからっ……!」
立ち尽くし、ズビズビと鼻を鳴らし、エルシーはわあっと大きな声で泣いた。それを見たジンは、バツの悪そうな顔をして、行き場を無くした手を腰に当てた。寝起きに火照った体に手のひらがヒヤリと冷たく、ジンは違和感を覚えた。
(服に、穴……?)
穴──。そこまでのヒントが出れば、失われた記憶を取り戻すのも容易であった。それと同時に、底知れない恐怖と強烈な悪寒が襲いかかり、ジンは思わず身震いして、合わない歯の根と痙攣する腕に、鎮まれ、と強く念じた。
どうしたの、と駆け寄るエルシーの声を彼方に聞きながら、ジンは気を失う前の事を鮮烈に思い出した。自身の体を食い破ってきた、冷たく、固い、死の感触。皮を貫き、肉を掻き分け、骨に触れたあの感覚。──そして、そこから逃げ惑う、血液たちに奪われた体温。
しかし、今ジンが触れている穴のあった場所にはしっかり汗が滲み、確かな感触がある。だがあれが全て幻であるはずもない。魔女の幻覚だと言うのならよほど性質が悪く、あまりに出来が良すぎる。そうであれば自分は魔女に勝てるのだろうか、と。
湧き上がる疑問に押し潰されそうになった時、
「すこし、いいかしら?」
慌てふためくエルシーの声を縫って、落ち着いた女性の声がジンの鼓膜に触れた。
「お前は……」
黒いマーメイドドレスに、胸元までの短い外套。腿まで長く伸びたその黒い髪は手入れがよく行き届いており、紫紺の瞳は一つも揺れ動かない。どれだけの自信があればそうなるのかは定かではないが、ジンはこの女が只者でない事だけは一目で分かった。
女は多少も語らず頷けば、室内へぬうっと侵入してきた。そうして見ればその背丈は高く、ジンよりも少し高いのではと思わせた。そうして上から下まで視線をなぞると、エルシーが何故か手の甲を抓る。見ればエルシーは一つもこちらへ視線を寄越さずに不機嫌そうに口を尖らせているのだから、ジンにしてみれば奇怪な話であった。しかし何よりもおかしいのは、その感情の振り幅だろう。次の瞬間には、エルシーはパァッと顔を輝かせているのだから、その視線の先に何があるのか気になるのも自然の道理だ。
「かわいいーッ、ここおいでっ!」
「あれは──」
言いかけて、固まる。ジンの目先にいるのは──キツネだ。二足歩行をして、一丁前に服を着ている。普通のキツネとの違いを述べるなら、その体毛が銀色である事。そして奇妙な事に、ジンはそのキツネを見た覚えがある。どこでか問われれば、まさに、今日、ここでだ。
見ればベッドの近くの木桶に放り出された麻布の上には銀色の毛が随所に見え、先ほどまで気にも留めていなかったが、ドタバタと部屋を出て行ったのは、間違いなくあのキツネだ。
キツネが服を着て歩いている。そんな非日常を見て脳裏に過ぎるのは──。
「魔女ッ!」
ジンは敵愾心を剥き出しにして腰元へ手を伸ばした。しかし、常ならグリップがあるはずの場所には何もなく、ジンは自分が佩剣すらしていない事に今更気づいた。
(しまった、奴らが武器を与えておくはずがない……!)
自身の迂闊さに腹を立て、拳一つで身構えた時、
「コルグ」
魔女と思われるその女は、パンパンと手を叩き、キツネの入室を促した。見ればキツネはその背後にジンの剣を引きずっており、担ぎあげればそれを傅きながら女へ献上した。
(大方エルシーと交換するとでも言うつもりか)
ふざけた事を、とジンが憤っていると──。
「お返しするわ。着替えも複製したので、必要ならどうぞ」
どんな予想も裏切ってそんな言葉が聞こえてきたものだから、ジンは聞き間違いだろうかとエルシーを見た。するとエルシーは、剣呑と開いた口に手を当てて驚き自分を見ているのだから、ジンは今自分こそが場にそぐわない言動をしているのだと、ようやく気付いた。女が指差す先にあるタンスの上には、ジンが着ている服と全く同じ服が綺麗に畳まれている。
(一体、何が目的だ……?)
猜疑心に苛まされながらも着替えを受け取り、差し出された剣を受け取った。しかしジンの記憶が確かなら、この剣は中程から真っ二つに折れたはずだ。そんなもの、何の脅威にもなりはしない。そうであれば命を脅かされる心配などあるはずもなく、こちらに返戻する事も不思議はないか。
そう納得して鞘から剣身を抜き放ったジンは、訝しむように眉根を寄せた。
「これは──どういう事だ?」
尋ねれば女は涼しい顔で頬に手を添え、小首を傾げた。
「……何かおかしな事でもありましたか?」
「これは……お前らやがやったのか?」
「要領を得ませんね。何の話をしているかの皆目検討も付きません」
ふざけるな、と捲し立てたくなる気持ちに蓋をし、ジンはもう一度視線を落とした。これはどういう事だと、抜き身になった聖剣をまじまじと見つめた。
(気のせいではない。オレがあの崖を落ちたのは確かなはずだ)
記憶を辿れば、ジンたちが崖を落ちた事は確かだ。服に空いた穴がその証左に他ならない。そうであれば、その刹那に聖剣が折れた事も事実であるはずなのだ。
(どういう事だ、やはり魔女の幻覚だったのか?)
証拠の揃った記憶を疑うよりも、事実そのものに疑念を募らせる方が道理だ。少なくともジンはそう結論を急いだ。しかし問い詰めようとするよりも早く、エルシーがジンの袖口をちょいちょいと引っ張った。
「とりあえず、二人にお礼言お? この人たちに助けてもらったんだよ?」
「……何?」
エルシーが申し訳なさそうに目配せをすれば、ようやくジンも事態が飲み込めた。泰然と構える女とぷいと顔を背ける銀ギツネ。一人と一匹に、ジンは驚きに数回、目を瞬かせた。
「とりあえず──ようこそ、魔女の国へ。と、言っておきましょう」






