第六幕『絵本の世界と魔女の国①』
なんだ、ここは。──それが、ジンが最初に抱いた感想だ。
街道の外は溝だらけで極小の山形が集った草原。塗りつぶしたような濁った空。動かない雲。それでも風に吹かれて草木がさざめくのだから奇妙な話だ。
だが何よりも奇天烈なのは空に燦然と輝く太陽だ。それは直視しようとすれば思わず手を翳したくなるほど眩い。それ自体は普通のものと変わらないが、無視できないのはその形状だ。それは空に対してあまりに巨大で、野太い一本線で渦を巻き、その周囲に毛でも生えたように点が浮いているのだから。
「エル、こっちへ来い」
「うゆ?」
そして、腕ほどの胴を持ついも虫という、現実では滅多にお目にかかれない希少な生物を突いて丸めていたエルシーを呼び寄せたジンは、その思考を一巡させた。
(どこだ、ここは。地下聖堂から大聖堂へ。かと思えばここは……)
見渡したとてジンが見た記憶のある地形や建物はない。ましてや、外にいるというのに、饐えた油と泥とが混じったような臭いがずっと鼻先をついて回っている。吹き抜ける爽やかな風とのギャップがまるで嘲けるように、ジンの神経を逆撫でしていった。
(地下聖堂ではあの赤い魔女の。ここへは恐らく本の魔女の仕業だろう)
思い返すに赤い魔女はただ場所を移動させただけだろう。その真意を測る事などジンにはできない。ただ、ヘテロやカトリチアといった魔女とは一線を画する圧倒的な死の存在感。そんな魔女がむざむざ獲物を遠ざける理由などジンに分かるはずもなく、その赤い魔女の顔を思い出しただけで背筋が伸びたジンは、苦々しい記憶を追い払うべく、その頭を振った。
(今はヤツの事だ。あの本の魔女。ヘテロと呼ばれていたか。いや、ペドラだったか?)
カトリチアやニールの呼称が頭で交錯するも、ジンは「まあいい」と頭の中で捨て置き、どちらであろうと瑣末な事だと割り切った。
(ヤツはどこにいる。何を狙っている?)
ここへは共に来たはずだ。地に足が付けばいの一番に細首を叩っ斬ってやるつもりでいたにも関わらず、気が付けばエルシーと共に地に伏していた。急ぎ身を起こせばあの魔女の姿は見えず。それからエルシーが警戒より物珍しさに食指が動くほど長い間ずっと放置されているというのだから、ジンにしてみれば気が気でない。いつ襲われるかという警戒をずっとしていられるほど、人間の精神は頑丈にできてはいないのだから。
「エル、行こう」
「どこにぃー?」
「……どこか、だ」
我ながら適当な事を言っている、とジンは思った。一先ず開けた原っぱにいるよりは敵の目に付かないだろうという考えではあったが、特別何かアテがあるわけでもなかった。
行き当たりばったりだと己の計画性のなさを呪ったものの、それも後ろをついて回る聖女を見ると馬鹿馬鹿しくなってくるものだ。
「ジンくん見てっ、でっかいちょーちょ!」
「……そうか」
無邪気な子どものように現状を楽観視しているエルシーに、ジンは初めて羨ましさを覚え、目を窄めた。
「あーっ、ジンくん今引いてたでしょ!」
「何も言ってないだろう」
「あーし、そーゆーのけっこー分かるんだからね!」
ぷくぅ、と頬を膨らませて怒るエルシーから顔を背けたジン。顔に出ていたのだろうかと頬にひたと触れて確かめる。しかし表情筋の動いた感覚などなく、その鋭さは聖女の由来の力だろうかと、ジンが発想を豊かにしていた時、
「すこしは落ち着けた……かな?」
「ん、なんの話だ?」
俄かにエルシーがそんな事を言うものだから、ジンは目を丸くした。
突拍子もない切り口に話の見当などつかなかったジンであったが「バルフさんのコト」とエルシーが口にするものだから、ジンは鼻の奥にツンと刺さる何かを感じた。
「もちろんあーしもショックだったけど……ジンくんは、特に気にしてそうだったから」
「エル……」
彼女なりに気を回していたのだろうか。意外だと言えば意外だと感心するジン。しかし、存外これでいてエルシーは気を配れる性質なのであったと振り返れば、頼りない曇り模様の控えめな笑顔もまた寄り添う気持ちであるのだと愛着が湧けるのだった。
「あっ、ジンくんっ、あれ、モグラさんだよ!」
しかしそれも束の間だ。
「……そうだな」
どっちだっていい。まだ訪れてもいない未来に怯えて頭を悩ませているのも馬鹿馬鹿しい。この天真爛漫な聖女を見ていると頬の緩む余裕くらいは出てくるとジンは思った。
「あっ、ジンくん、あれ見て!」
「……看板、か?」
エルシーが何かを見つけたらしい。ジンが注視すればそれは立て札のようで、ここまで人の気配すら感じられなかった二人にしてみれば、安心感とは別に強い警戒心も生まれた。
「ジンくん、どする?」
「……他にアテもない」
「あいっ、んじゃ見に行こっ、今すぐ、けってーい!」
エルシーは気になって仕様がなかったらしく、ジンの袖口を引っ張ってはぐんぐん先へと進んでいく。万一に備えて腰の剣に触れたまま連れられたジンだったが、看板の内容を目に触れた途端に、眉間にしわを寄せた。
「なんだ、これは」
その看板はカビが生えるほど劣化が著しく、残念な事にこの奇妙な空間で初めて真実味を帯びた臭いを出していた。
虫が這ったような、それでいて規則性のある点が随所に使われているのだから文字である事は間違いない。元々見聞の広い方でないジンであったが、それにしてもこんな文字は過去のいずれでも目にした事がない。解読を諦めようと体を起こした時、エルシーは「う〜ん」と一声唸ってから、もしかしてと続けた。
「このサキ、マジョのクニ……えっ。この先、魔女の国?」
「……は?」
まさか読めるとは思っていなかったジンは食い入るように看板を見ては、エルシーと交互に顔を照らし合わせた。エルシーは照れ臭そうに顔を赤らめてから一度俯くと、こほんっとわざとらしい咳を一つ払ってから、もう一度文頭へ目を通した。
「うん。やっぱり、魔女の国って書いてある……ような、気がする!」
「解読できたわけではないのか?」
ジンが尋ねるとエルシーはうんと一つ頷いた。
「そんな気がする、って言うカンジ? 見習いだった時に習った碑石の文字の文法が、似た感じだったの思い出して」
「ふむ」
蓋を開けば確証があるわけではない。ただ、ジンがエルシーに命を救われた事など一度や二度ではないのも確かだ。そんな聖女の直感を侮る事などできない。
「……引き返そう」
導き出された結論は慎重なものだった。いくら魔女への有効打たり得る聖剣を手に入れたからと言っても、向こう見ずに複数人を相手どればヘテロやカトリチアの時のような苦戦を強いられる事は想像に難くない。ましてや相手が二人とも限らないのだ。村というくらいだ、十人以上の魔女が暮らしている可能性もある。仲睦まじい魔女の姿など怖気の立つ話であるが、そもそもジンたちも魔女という存在に明るいわけではない。魔女の生態というのも兵法的な意味合いで興味をそそられないわけでもないが、それは命を懸けるほどのものではない。
いいの? と視線で訴えるエルシーに、ジンは一縷の迷いもない碧色の瞳で応えた。
(とは言え、少し前のオレなら迷いなく向かっただろうがな……)
復讐に燃ゆる幼き頃の自分が「今すぐ行け」と駆り立ててきても、今のジンには到底容認できなかった。
バルフの時は友の身柄だとか、譲れないものもあった。今も相手の生態を知る上では重要な事であるが、それは今である必要はない。魔女の拠点へ乗り込むなど、一つ間違えば自殺行為にも等しい。火中の栗を拾うような真似など、護るべきエルシーがいる自分がすべきでない事だけは確かであるという冷静な判断であった。
「あいっ!」
そのぐらいの分別はエルシーも心得ている。ジンが本心からそれを願っているのだと分かれば、今度こそ日だまりのような喜色ただ一つを浮かべて笑った。
……そうして道を引き返してすこし歩けばジンは妙な違和感を察知した。それはエルシーも同様で、二人は周囲を見渡した。しかしその眼鏡に叶うものはなく、二人はその違和感の根源に近寄るべきか否かを視線で会話し、短い間に合意へ至った。
「今度のはあたらしーね」
エルシーが顔を寄せたのはまたもや看板だ。先ほどと違ってたった今置かれたかのように真新しく、かと言って木の匂いもしない。それが奇妙であるとジンの警戒心は色強くなった。
「……さっきはなかったはずだ。オレは周囲を警戒しておく。エルシーは解読を頼む」
ジンが腰元から剣を引き抜けば、エルシーは「あーいっ」と軽めの返事で真新しい看板に食い入った。
「あるところに、せーじょとせーきしが、いました?」
ふざけた内容だ、とジンが心中で酷評すれば、エルシーが「なにこれ」と不満げに尖った声を出した。
「なんだ?」
むすっと膨れっ面で憤るエルシーに、さすがのジンも内容が気になった。エルシーは色々と言いたい言葉を飲み込んではつんけんとしたまま「読むね」と続けた。
「聖女はわるい魔女に捕まり、聖騎士は死んでしまいました。おわり。──だってさ」
「なるほど、ふざけているな」
「だしょー⁉︎」
失礼しちゃう、とカリカリするエルシーにジンは落ち着けと窘める。とは言えその内容は到底捨て置けるものではなく、ジンの休まりかけていた警戒心も、再び重い腰を上げた。
──どこから来る。空には鳥の一羽もいない。懸念があるとすれば先ほどエルシーが気にかけていた生物たちか。そのいずれもが今視界に入らない。
周囲には生命を思わせる動物は見当たらない。どれもがふざけた溝跡の残る植物ばかりだ。それらは風に煽られればクスクス笑うように葉をさざめかせ、ジンの警戒心を嘲った。
そして──それは突然現れた。
「なっ⁉︎」「うそっ⁉︎」
地面が、嗤った。月の剣に割れた地面はケタケタと揺れ動き、強烈に酸化した油の臭いで二人を出迎えた。
(こんな、デタラメな……!)
そう思いつつも、魔女という存在はいつだって人の身には余る理を操ってきたデタラメな存在だった。それを失念していたジンは己を呪いつつも、状況の打破に専念する事にした。
(上に上がるのは無理だ。崖は……剣なら刺さるか、二人を支えるには折れる可能性がある。下は──)
やだ、ムリだと泣き喚くエルシーの横で頭をフル回転させたジンは、眼下に広がる光景に一筋の光明を見た気がした。白飛沫こそ大袈裟に目立つものの、ジンたちの真下にあるのは川だ。激流でこそあれ、地に落ちて即死という結果は免れそうであった。
「エルッ!」
名を呼び手を差し伸べど、エルシーはわあわあと泣き喚くばかりだ。埒があかないとジンはその小さな手を引き寄せた。
「頼む……!」
持ち堪えてくれ。そう願いながら、聖剣の刃を壁面の隙間へ突き刺そうとした。しかし、
「チッ……クソッ!」
聖剣は呆気なく折れた。何が伝説の武器だと脳裏で悪態を吐きながらジンは最後の手段を講じる事を強いられた。
「ほえ──」「口を閉じてろ」
叩きつけたくなる衝動を抑えながら、聖剣を鞘に納めた。小さな頭を抱え、ジンは来たるべき衝撃に備えた。腕のうちにある華奢な体が熱を帯び、固くなるのを感じた。──そして次の瞬間。
来る者を拒むように威嚇をしていた激流音は、水面一つを隔てて遥か彼方へと遠ざかった。代わりにおびただしいほどの水が肉体への侵入を渇望し、穴という穴から二人の体を侵していった。その身から一気に居場所を奪われた酸素は、体を抜け出し、水面に爆ぜる白飛沫へと合流した。
(息、が──)
ボコボコと耳に反射する高い音と、ゴボゴボと身から離れる低い音と。その先にある泡へ手を伸ばしたくなる本能的衝動に抗い、ジンは腕の内にいるエルシーを守るべく、その身を覆うように体を強張らせた。
(クソッ、完全に見誤った……!)
魔女による攻撃が生易しいはずもなかった。生あるために欲するべき酸素。それを有する浮上すべき水面は遥か彼方へと。さらに切り揉みながら地下水脈の壁面へ叩きつけられれば、ジンの肉体は容赦なく切り刻まれる。それでも腕の中に収まるエルシーが無事だと信じて。ジンは決死の覚悟で堪えた。
────だが、その時は突然、呆気もなく訪れた。
(なっ、に……)
脇腹に突き抜けた冷たい衝撃が文字通り背骨をなぞった。それは冷たく、固い。その衝撃は内部からジンの肺を押し上げ、体内の酸素を奪い去っていった。しかし、酸素などあったとて、この状況でもはやそんなものに何の価値もない。それは、ジンが頭で思うよりも早く肉体が理解していたようで、不思議と痛みなどはなかった。ただ、ほんの一瞬。電流が突き抜けたように走り抜け、焼けるような熱を帯びた何かが脊髄をなぞった。ジンに理解できたのはそれだけだ。
偏に突きつけられたその現実を、ジンは即座に理解した。──これは、致命的であると。
地下水脈に突き出た岩礁。もしそんなものが人体に刺されば、人を死に至らしめる事など容易い。それが今、ジンの腹から背骨まで侵入している。生を諦めきれない本能ができた事など時の停滞を願う事ばかりで、けれどそんなものを世界が容認するはずもなく。
遅れてばかりいた時間感覚が岩礁と共に動き出し、ジンの肉体に腕ほどの穴だけを残した。そこへ獰猛な肉食魚のように水という水が食らいつき、体内の血液を迫害していく。酸素と共に抜け出た赤が、ジンの流された軌跡をなぞっていった。とっくに体温の奪われたはずの肉体から、取り戻しようのない熱が引いていくのを感じた。
全ての感覚が遠巻きになる中、ジンはぼうっと世界を俯瞰しながらはたと思った。
(エルシーは、無事か……?)
その腕に抱く少女は傷こそないものの、青ざめた顔で眠っている。体内の酸素はとっくに奪われていたようだった。
──オレは、何もできないのか。また奪われるだけなのか?
ただひたすらに己の無力を呪いながら、ジンは深淵の最奥へと沈んでいった。