第四幕『色褪せた伝説』
雨だ、とジンは思った。さあっと高い音が忍び寄り、はたはたと低い音が地面を叩いた。
昨日あれだけ快晴だったはずの聖都には、今余すところなく曇天が立ち込め、とめどなく雨が流れている。その足は早まるばかりで、けれど一切立ち去ろうともしないで、大聖堂を包み込んでいた。
その渦中にある魔女は号哭するエルシーを散々笑い飛ばした後、目元に溜まる喜色の涙を指で拭った。
「やっぱりキミたちニンゲンってすぐピーピー泣くから面白い、最高だよー!」
貼り付けに合っている事など感じさせない圧倒的優位からケタケタと笑い続ける、魔女。ジンは臓腑に煮えたぎる激情を感じた。
「キミもさー、やっぱいい顔するよねえ。キミだけは、剥製にしたいなあ」
魔女の好奇心は舌のようにジンの耳元に絡みつき、ジンの不快感を煽った。
しかし、けれど、その誘惑を断ち切りながら、ジンは思った。今は魔女の事よりエルシーが気掛かりだった。
オレは……あの女に、何を言った?
思い返されるのは先日の自分の発言だ。
──一人でも多くの魔女を斃すべきだろう。
無知とは、罪だ。一人でも多くの魔女を斃すということは、一人でも多くの聖女が死ぬという事だ。それを面と向かって言われた少女の気持ちはどうだろう。手を握って欲しいと、それだけのささやかな願いで溜飲を下げたのだろうか。
(そんなわけ、あるか……!)
ひどく傷付き、悲しんだだろう。それが嘘か誠かジンには分からぬが、好意を寄せている人間から早く死ねと、少なくともそれに準ずる言葉を突きつけられたとしたら。
(無神経すぎる……)
バカだ、オレはとジンは己に爪を立てた。そもそも、先代の聖女が討ち死にをしたと耳にした時に、そのままその言葉を信じてしまった自分をも恥じた。魔女見習いであれば聖女でなくとも魔女を討ち果たせるのであれば魔女もあるいは取るに足らぬ相手ではと考えていた。
「──あはっ、隙だらけだよ!」
「なっ⁉︎」
思考の端から飛び込んだ魔女の声。空を打つ音に目を向ければ実際に視界に飛び込んだのは蝙蝠型の使い魔だ。
「きひきひっ、ざぁーんねんでしたぁー」
「……クソッ!」
ジンは自分の迂闊さを責めた。自身の剣は蝙蝠に引き抜かれ魔女の手に、今手元にあるのは先ほど投げ捨てたナイフが一本、転がっているのみ。
命を張った戦場で考え事をするなど常のジンならばあり得ないほど致命的だ。しかしその理由は──。
「誰か……私を助けてよぉ……!」
魂の叫びだった。世間から聖女だなんだと言われても、言ってしまえばただの人身御供だ。魔女という厄災を祓うために聖女を一人犠牲にする。世界はそうして回っていたのだ。
「いつまでもピーピーうるさいなぁー……」
不意に、そんな低い声が響いた。魔女だ。
「キミの涙の旬はもう過ぎたからさぁー」
「……え?」
殺意を込めて向けられた無数の剣に、エルシーは泣く事を止めた。しかしだからと言って魔女は慈悲など持たない。
「エル──」
「頭だけ残して死ね」
たった二文字の、しかし本能が忌避する絶対的な言葉。ジンが名を呼ぶよりも早く、魔女は剣を放った。エルシーは逃げられない。ニールが死をも厭わず羽交い締めにしているからだ。ジンもナイフを投げて一つその軌道を逸らしたものの、それは気休めでしかない。
進むべき未来を認めたくないが如く、剣も世界もゆっくりと進む。しかし止まる事もない。決定付けられた未来へ向けて、その予定調和をなぞる光景に、ジンはエルシーに向けて手を伸ばした。
(クソッ、間に合わない……!)
ジンが来るべき光景に目を逸らしかけた時、
「むっ……ぐ、ぉ……」
「ひ、ぎぁああああッ⁉︎」
野太い声が響いた。続いて悲鳴が。だが少女の声ではない。
「バル、フ……?」
「む、ジン殿……か?」
致命的だ。いかに屈強な男と言えど、その体に無数の剣が突き立てられれば生きてなどいけない。その内の一本がずるりと抜け落ちると、魔女の元へと戻った。
「バルフッ!」
片膝を着いたバルフにジンが駆け寄る。ニールはバルフによって肩を外され地に這いつくばっている。エルシーはと言えば気を失ったようだった。
フウ、フウと歯の隙間から意地だけで呼吸をするバルフは、剣の如く鋭い眼光で魔女へと向き直った。
「あれ、剣が戻らないなあ。肉に絡まれてる? 筋肉ダルマはめんどくさいねー」
空を押せども引けども動かぬ剣に、魔女は悪態を吐くより他なかった。ジンはどれを抜けばいいか悩んだものの、とっくに気づいていた。どれを手にしても致命的だ。分かっているはずだったのに、口を衝く言葉は決まりきっていた。
「バルフ、待ってろ、今剣を──」「ジン殿」
全てを言い終える時間を惜しいと言わんばかりにバルブが言葉を遮った。その声は虫の息であると言うのに、不思議とジンが今まで聞いた中で一番力強かった。
「聖女殿を連れてお逃げください」
「馬鹿を言うな、お前を置いて逃げられるわけ──」
言いかけて、ジンはやめた。口の端から込み上げてきているのは黒混じりの血だ。それは、腸を貫かれ、汚物が胃を逆流してきている事を示している。
「オレは、お前を……!」
友を失いたくない。けれど、もうそれは口から輪郭伝いに床にこぼれていっている。命が、こぼれていく。それを見た覚えのあるジンは、言葉を続けられなかった。
「護るべきものを護って果てるは、騎士の本懐。貴殿は……何のために騎士になった?」
「なんの、ため……?」
言葉に詰まった。魔女を討つ事だけを考えてきた。打算的に、ただ聖女という存在を利用しようとしただけだ。剣の腕を磨き、己の腕っ節一つで騎士になり、聖騎士になった。ただ、それだけだ。聖女を利用して魔女を倒そうとしているだけの人間。そこに高尚な願いや誓いなどはなかった。そして──それはジンの推測が正しければ……魔女と、何ら変わりはない。
「あはっ、ま、いっかー」
魔女は元から制御していた一本に、肩に乗せていたジンの剣を加えた二本の剣先をバルフに向けた。
「これで二本。死にかけには……十分だねー!」
無骨な剣と豪奢な剣。二本の剣がバルフに向けて放たれた。
「ぬ、ぉ、あアッ!」
ジンの目の前で血が噴き出す。バルフは自身に突き刺さった剣を引き抜き、それを以って迫り来る脅威を退けた。
「行け……行ってくれ、ジン殿。吾輩を、無駄死にさせるつもりか!」
「……すまないッ!」
一瞬の迷い。やがてジンは、ただ一つの謝罪を残してエルシーを抱え上げた。
「あはっ、どこ行くのさー⁉︎」
「させぬッ!」
背後で鈍い金属音が二つ響いた。ジンは一瞥する事もなくただ逃げ出していた。入り口へと背を向けたまま大聖堂の奥へと。ジンはただ己の無力さを腹に据えかねていた。
(クソッ、教皇達は何をしている⁉︎)
聖都を守る結界が何故ないのかという、他力本願。しかし、そんな思考に意味などない事をジンは知っていた。聖女が、エルシーがいれば魔女など簡単に斃せるのだと思っていた。
しかし現実はどうだ。疑念を晴らす事なく敵の間者を連れ回したまま魔女と邂逅し、挙句にまだ息のあった友を死に至らしめる結果を招いている。
(オレは、なんて弱い……)
使い魔を斃した程度で図に乗っていた。魔女は狡猾で、脅威的な生命力を持ち、圧倒的な力を振りかざす。分かっていたはずなのに、心のどこかで楽観視していた。それはそうだ。脅威を目にするのと、実際に戦うのとでは違う。それも目にした脅威は単なる虐殺だった。
一方的な搾取から得るものなどあるはずなかった。
「もういいよ……ジンくん」
不意に、雨粒のような声が聞こえた。ジンはその声の発生源である自身の懐に収まる少女を見た。
「わたしが、魔女を斃すから……だから、いいの」
全てを諦めたような光を失った顔。ジンは歯を鳴らして、
「……いい訳、あるか」
鋭く低い声でそう言った。日を照らす大海原のようだった瞳は今ではひどく時化ている。強張りながらもエルシーは「だって──」とふらつく声色で切り出した。
「それが、あたしの、わたしの、役目だから──」「そんな顔でッ‼︎」
震える声はそれを上回る激情に掻き消された。大聖堂から伸びる通路には、ジンの怒声を最後にしんと静まり返った。
「そんな顔で言うな。頼むから、生きていてくれ……!」
もう、これ以上失いたくはない。魔女に奪われたくない。
ジンの顔もまた濡れていた。その脳裏にあったのは自身の体を生きたまま灰に変えられていく妹が見せた、最後の顔だ。苦痛、恐怖、戦慄。それでもその瞳にはきっと助けてくれるのだと、針の穴ほどの幽けき光が灯っているのだ。一度は取りこぼしたその光。その期待を今度こそ裏切るまいと、ジンはエルシーの肩を強く抱いた。
◇
エルシーの胸に、たった一雫の言葉が波紋した。
──生きていてくれ。
生まれてきて、初めて、誰かに言われた言葉だった。言われたい言葉だった。ずっと言葉を交わしてきたというのに、エルシーは今日初めてジンの声を聞いた気がした。
「ぁ、ぅ……」
じわりと。その目から滲む熱を隠す術を持たなかったエルシーは、ジンの胸に顔を埋めた。
死ねと言われた時、本当にここで人生が終わってしまうと思っていた。使命を果たす事もなく、焦がれるほど欲した生に容易く見放されたのだと。けれど、そこから命を掬い上げてくれた人は、砕け散りそうだった心も救ってくれたのだ。
あれだけ泣いたのだから、もう泣いてはいけない。頭ではそう理解していても、一度氾濫を許した心は容易く涙に轍をなぞらせた。
そんな場合はでない。それはエルシーも分かっていた。けれど、ずっと自分が求めていた言葉を聞けば、不思議と涙の溢れる事を止められなかった。ジンに抱かれながら、エルシーは生まれて初めて生きていて良かったと思った。
「……ジンくん」
「……なんだ」
もう、その心に迷いはない。強い声に乗せて寂れた声をした聖騎士の名を呼んだエルシーは、涙を指で払い飛ばして、意を決した。
「降ろして」
「お前は──」「いいから、早く!」
気の入った声で投げやりに言っているのではないと伝わったらしく、ジンは数秒エルシーの瞳を認めると、
「……どうなっても知らないぞ」
多少の自棄を含んだ言葉で呆れてみせた。不敵に笑ったエルシーは降ろしてと身動ぐと、自身の足で立ち、ゆっくり息を吐いて目を閉じた。
(死にたくない、生きたい。でも──)
もう逃げるのは嫌だ。目を背けない。立ち向かうんだ、運命と。瞼を開けば、今まで深淵だと思っていた通路には微かな灯りが導として続いていた。エルシーはその最奥に潜む闇を睨みつけると、隣に立つジンを見た。
「行こう、ジンくん」
「……ああ」
この人にあったのはきっと尊敬だ。恋ではなかった。だから、なんだ。自分を導く運命の人には変わりない。それがどんな結末であろうとも。
ここから仕切り直しだ。負けてばかりではいられない。一人ではないのだから。エルシーは今一歩を踏み出した。
◇
「──バルフさんが……」
道中かいつまんで経緯を話せばエルシーは悔しそうに下唇を噛んでいた。
「オレの力不足だ。武器さえ奪われて、情けない」
今ジンの手元にある武器は何もない。これで死地に赴くというのだから側から見れば酔狂なものだろう。ジンもエルシーが促さなければ戻ろうなどとは思っていなかった。
「それで、何か策はあるのか?」
ジンが訪ねればエルシーはその瞳の中ですこしの戸惑いを揺らしながら、薄い唇を開いた。
「わたし……ううん。教会はみんなに……ジンくんに隠してることがあるの」
「……言ってみろ」
促されれば心は軽くなるようで、エルシーはすこしの罪悪感を滲ませながら、
「選定の儀に、聖女候補は──聖剣に立ち会う事を許されてるの」
言ってはいけない事を言ってしまったような……そんな苦い表情を見せた。その胸の内にしまっていた秘密を詳らかにした少女に、ジンは戸惑いを隠せず思わず足を止めた。
「……そういう冗談か?」
戯れ言ならこのタイミングではない。しかしジンはエルシーがそういうタチの悪い冗句を言うような手合いでない事を既に知っていた。この少女はいつだって全力だ。それでもそう尋ねさせたのはそれだけの話をエルシーがしたからに他ならない。
対するエルシーは鋭い眼光にすこしも怯まず「聞いて」と続けた。
「この先にある地下室に聖剣が安置されてるの。そこに──」「待て」
水の流るるように咀嚼不可な情報の塊が投げつけられればジンもいよいよ割って入るより他なかった。
「聖剣があるなら、なぜそれを使わない?」
御伽噺でしか聞かない存在、聖剣。それは魔女はおろか魔王ですら討ち果たしたとされる伝説上のものとされる存在だ。そんなものがあるのならば聖女の存在とは何なのか。聖剣を用いれば魔女をもっと斃せたのではないか。そうであれば自分の村も──。
思考が巡れば聖都への憎悪が著しく募った。行き場のない怒りが腹に据えかねればジンの固く握られた拳が悲鳴を上げた。冗談ならばそれでいい。むしろそうであればと願った。
その心の内を見透かしたように申し訳なさげに目を伏せたエルシーは、
「誰も抜けないの。その聖剣は、触れることすら許されてないから」
次に誠意を宿した透き通る眼でジンを真正面から見据えた。
許されていない。もしそれが言葉通りなら、教会はなんと怠慢であるのか。魔女を討つ術を持ちながら、それを使わないというのだ。こんな勝手が許されてなるものか。
「教会は、魔女を討つ気がないのか?」
ジンの言葉にエルシーは首を振った。
「ごめん、あたしが言いたかったのは、聖剣の模造剣があること。聖剣は……見れば分かると思う」
「そんなこと──」
そんな事で引き下がれるものか。その言葉と激情は、エルシーが真摯な青で受け止めれば声帯に触れる直前で思い留まり、ジンに冷静さを取り戻させた。
「すまない。お前に当たったところで、仕方ないな」
「ううん。あたしも実際に見るまでは……」
そこから言葉は続かなかった。エルシーも死にたい訳ではなかったのだ。それならば聖剣に一番期待していたのはエルシーに違いないはずなのだ。
また無神経な事を、とジンが思った時だった。
「ここだよ、ジンくん」
「この先に……」
エルシーが足を止めた先には荘厳な石作りの扉が構えられていた。意を決して扉を潜れば螺旋に続く階段が下層に向けて伸び、中心ではぽっかりと口を開けた深淵が二人の来る事を待ち構えていた。一度足を踏み入れれば戻る事など許しそうもない漆黒の闇は奈落の底まで続いていそうで、それが階段まで食んでいる。さらに湿り気のある冷たい空気がひやりと首筋をなぞれば、それが常人たちの二の足を踏ませる。
「大丈夫だよ」
不意に、そんな落ち着く声が響いて。無意識に身構えていたらしく、ジンはそう言われて初めて自分が拳を握っている事に気付いた。
「爪灯」
ぼうっとエルシーの五指の先から光が浮かび上がった。一つとなったそれらは全ての闇に抗うにはわずかに頼りない、しかし冷たい色を跳ね除ける確かな光。全てを照らせずとも、これで二人が何かに蹴躓く事はないだろう。
「これも法術か?」
「うん、あーしはこういうのは苦手だったけどね」
法術、とは魔女の使うものとは違い、神に仕える者が起こす奇跡を言う。曰く使えるのは導師である教皇猊下と、聖女くらいなもので、それを多く扱える候補生から聖女は選ばれるらしい。エルシーも多分に漏れず当然使いこなす事はでき、けれど、どこか気まずそうに。先の言葉に「先代様は得意だったよ」と後ろ頭を掻いて行こう、と笑った。
「この先に──」
エルシーの言葉は中断され、続かなかった。背後から無機物の悲鳴が轟いたからだ。木製の扉がひしゃげて飛んだような鈍い騒音。それが扉越しに聞こえてきた。
「急ぐぞ」「……うん」
悠長にしてる時間などない。確かな事実に短い言葉で示し合わせれば、二人は地の底まで続いていそうな階段を駆け降りた。
「……ちょっとだけ我慢してくれ」「きゃっ⁉︎」
やや辿々しさの目立つエルシーを見かねたジンがそう言って華奢な体を抱き上げた。
「わた、歩けるからぁ!」
「舌を噛むから喋るな」
羞恥による抗議も時間が惜しければ聞く暇など毛頭ない。ジンのその有無を言わせぬ勢いにエルシーが押し黙れば螺旋には靴音だけが妙に反響した。暗闇にぼうっと光る姿などもし見つかれば格好の餌食だ。それを理解すればこそ、ジンの足運びは早まるばかりだ。しかし踏み外せば大怪我では済まなさそうな階段は一つ降りる度に背背筋をなぞる悪寒が倍に倍にと増えていき、ついにはジクジクと心臓を突かれているような不快感が脈打てばジンの中にこの先に人が降りて良いのかという疑念が浮かんできた。
「聖都にこんな場所が……」
人を拒む何かが地の底にいる。靴音以外の音などしないはずなのに、ジンは獣とも違う何かの叫び声を聞いた気がした。すると胸中にある心臓が体を飛び出して自分を包むように脈打っているような、そんな錯覚がジンを襲った。
──この先に降りてはいけない。
本能がそう叫んでいた。
「ジンくん!」
ハッと、我に帰ればジンは壁スレスレを走っていたらしく、エルシーの声が無ければ衝突していた。まるで微睡みの中にいるような、けれど悪夢を見た後のような気持ち悪さに視線を落とせば、自然と腕に収まる少女と焦点が合った。
「……エル?」
「うん、ここにいるよ」
エルシーを抱える手が温かい。いや、エルシーが触れているところが温かいのだ。ジンが立ち止まればエルシーはするりと床に降り立ち、ジンの両手を握った。
「ごめん、あーしの加護が切れかかってるのかも。魔女との戦いから結構時間経っちゃったから……」
「……加護?」
言いながらジンは大聖堂に突入する前にエルシーから額に口付けをされた事を思い出した。
「聖女の加護は使い魔とか魔女の体を捉える効果もあるけど……一番大事なのが魔女が放つ瘴気を跳ね除ける事。あーしはそれが歴代の聖女で一番優れてるらしーよ」
どうだと言わんばかりに豊満な肉体を誇示するエルシー。それがどう凄いのかはジンには分からないが、あの魔女と相対した時のジンは常と変わらなかった。であれば、あの魔女もここと同じ怖気を放っていた場合、凄い事なのかもしれないと、ジンは少し感心した。
「ちゃんと効果はあったのだな」
「ひどーい、大事なことっていってたのに!」
ぷくっと頬を膨らませてお冠になったエルシーに、ジンは「すまない」と機嫌を伺った。
「しかしなぜここに魔女の瘴気がある?」
「聖女の訓練候補生用の場所としか聞いてないけど……なんでだろね」
深く気にはしていないらしい。エルシーにこれ以上尋ねても無駄かと思ったジンは警戒を解かないまま「頼めるか?」と問いかけた。
「じゃあ、するね」
「ああ」
口付けでなければいけないのか、だとか聞きたいことは山ほどあったがズキズキと痛む胸に茶化しは通用しない。理性を少しずつ侵食されていくその感覚に、刻一刻と迫るその時に、本能が警鐘を鳴らし続けていた。
ジンが腰を下ろせばエルシーが額をさする。これからそこにしますと言わんばかりの行動はまるでマーキングのようだ。エルシーの吐息が再びジンの額に触れようとした時、
「──なんだッ⁉︎」「ふぁ……ッ!」
上層から普通の人間がおよそ扉を開閉する際に鳴ることのないけたたましい音が響けば、思わずジンは立ち上がっていた。
「とうとう追っ手が来たか。エル、早く──……エル?」
エルシーは唇に手を当て顔を真っ赤にしていた。その視線がジンの口元に留まると、さらにかぁっと赤くなった。その意図するところこそジンには読み取れなかったが、先ほどまで自分の身に認めていた異常がスッと引いていることに気が付いた。
「痛みが消えている? 何はともあれ助かった。エル、先へ急ごう」「……」
エルシーは赤面したまま、涙目になりながら無言のままに頷いた。
だがら追っ手の迫る事は間違いなく、差し迫ったその状況に獣のような雄叫びを聞けば、もはや猶予はないと目で示し合わせると、急ぎ下層へ向けて走った。
「もうすぐ霊堂に着くはず、そしたら──」
うすらと地面を視界に認められるようになった時だった。
「──え?」
ぐしゃり。そんな音では生温い。本能が忌避するような、耳を塞いでいなかった事を後悔する嫌な音。もうすぐ下層に到着するというのに、二人の足取りは一気に警戒一色となった。
緊張にエルシーが細い喉をキュッと鳴らせば、ジンは近くにあった火の灯っていない松明を手にした。
「大丈夫だ、オレがなんとかする」
「……うん」
松明で、という疑問は残ったが、それでも何もないよりは幾分かマシだ。エルシーもそれは分かっているようで、歯の根が合わずに震えていた唇も、鼓舞されれば薄く結ばれた。
「何が落ちてきたか確認できるか?」
「うん、待っててね、今──ひっ」
その言葉は、途中で息を呑む音に変わった。上から落ちてきたのは、人間だ。それも、つい先ほどまで一緒にいた、
「ニール……」
エルシーの側仕えだった男。それが分かるのは唯一服装だけだ。各関節はそれぞれの役割を放棄してあらぬ方向へと曲がっており、頭部は叩きつけたトマトのように無惨に潰されていた。飛び出した二つの眼球がひどく痛々しい。
「もう見るな」
あまりに惨たらしい姿にエルシーの視線を遮ったジンは、周囲を見渡す。飛散した血液を除けば他に目を引くものはない。気味の悪さは残るものの、落ちている断末魔らしきものが聞こえなかった事を考えれば気を失ったまま投げ捨てたか、死体を投げ捨てたと推測された。
(なぜだ……?)
広場に他のしゃれこうべなどが存在しない事からここが死体遺棄場である事は考えにくい。第一、そんな人道に悖る行動をする者が聖都にいるとは考えにくい。もしそうであればこれは十中八九魔女の仕業だ。しかしその行動原理が測りかねる。まるでこれそのものが追っ手であるような──
「ジンくん……」
思考の途中であるのに、直感が正しいと叫んでいた。寒さか恐怖か。噛み合わせが合わずにかちかち歯を鳴らすエルシーに、ジンは「エル」と呼びかけた。
「……走るぞ」
ここに居続けるのはマズい。ジンの本能が、そう警告していた。視界の端でずるりと血脂の上を指が滑り、ぴちゃりと音を立てた。遥か上層からはひた、ひたと早くもない音で素足で歩くような音が聞こえ、時折「くひ、ふひっ」とおよそまともとは思えない笑い声が響く。
ジンとエルシーが目立って大きな横穴となる通路へひた走ると、そのニールだった肉塊はついに我が身も顧みず動き出した。
「冗談じゃないぞ……!」
もはや息をしていない生き物と戦った経験などジンにはない。それは想像を上回る速さで、大の大人が走るより少し早く。狭い通路に甲高い靴音が反響する中、べちゃべちゃと人間が出さない音を交えて肉塊は迫り来る。
「まだか!」「もーすぐ!」
心無しかエルシーの出してる光が少しずつ薄くなってきている気がする。この場で明かりを失えば再び砲術を使う時間などない。そうなれば眼球を引きずるアレが光などというものを見ているとは到底思えず、完全なる暗闇は敵に対してのアドバンテージにしかならない。
そう思えばこそ、ジンは一分一秒を争うこの状況、どん詰まった最奥に構えられる一枚の扉に対して、それ相応の恨みを覚えた。
(このまま悠長に扉を開閉していれば追いつかれるは必須。オレが殿を務める、か)
聖女ファーストにとジンが決意を固めて声をかけようとした時、エルシーは扉に向けて手を伸ばしていた。
「妖精さん、お願い!」
(あれは……)
するっとエルシーの服の袖元から現れたその妖精は、迷いなく一直線に扉へと向かった。その速度は人の走る速度とは比べ物にならず、瞬く間に扉へ到達すると、ノブを引いてドアをがちゃりと開けた。
「入ったらすぐに閉める、先に入れ!」
「わかっ、た!」
既に息も上がっているエルシー。その限界はもう近いようだ。そうこうしている内にすぐ真後ろまで肉塊の迫る音が聞こえる。扉は目の前だ。扉まで残りの歩幅は三、二、一──
……嫌な音が響いた。扉からだ。骨がひしゃげて折れたような音が反対側から聞こえてきた。ぐじぐじと隙間から入り込もうとする音が聞こえたが、さすがに染み出すのは体液だけで、扉はその役割を任されれば後に続く者をしっかり拒んだ。
「間一髪、か……」
「も……むり」
肩で息をして体力を取り戻さんとする二人。追撃に備えて扉を背中で押さえ付けていたが、最初にぶつかって以降は諦めたのか否か。ただそれ以降扉に対しての攻撃はなかった。
「ふう。助かった」
「ヤバかったね。あーし、絶対死ぬと思った……」
「さっきのは、妖精か?」
ジンが尋ねるとエルシーは頷いた。
「そう。あーしの相棒なの!」
「……まあ、今はいいか」
思い起こされるのは試合の邪魔をされた事だ。結局魔女の襲来もあってまともに戦う事は終ぞできなかった。
(バルフ……)
残してきた友を思うと罪悪感に身を引き裂かれそうだった。ジンはその後悔を頭ごと振り払うと、安全確認も含めて室内をぐるりと見渡した。
その部屋は大聖堂を小さくしような作りで、大聖堂が数百人規模の収容を可能とするなら、ここは数十人が関の山だ。加えて、大聖堂にあったような大きな石像などはここにはなく、代わりにあったのは、仰々しい台座と剣だけだった。
「あれが……聖剣か?」
「……うん」
台座に収まるのは剣とは名ばかりの代物だ。形こそは剣と言える。下に落ちた影は万人が見ても剣だと思うだろう。しかし実体はボコボコと瘡蓋のような錆が浮き、脱皮して禿げたような鱗状のカケラが地面に複数転がっていた。
つまり、ソレは完全に風化していたのだった。