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EVERLIGHT  作者: 三羽巽
第一章『絵本の世界と魔女の国』
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第三幕『夢はまだ遠く』

 ────エルシーは孤児だった。聖都ルストナードにある孤児院の前で日も昇らぬ早朝から泣き声をあげているところを保護されたのだ。


 それが食い扶持を減らすためだったのか自分が育てるよりはと思ったのかは定かではない。けれど彼女が顔も知らぬ人間に捨て置かれたのは紛れもない事実であった。それがエルシーが物心つく前の話だ。……いや、あるいは物心など付かぬ方が幸せだったのかもしれない。



 聖都は孤児や希望者を募り、聖女の育成に心血を注いでいた。

 それはそうだろう。聖剣無き今、人々を苦しめる魔女を討てるのは聖女だけなのだから。そしてそれは聖都の人々にとってはとても名誉な事でもあった。

 我が娘が、魔女を(たお)してくれるのだ。これほど胸を張れる事があるかと。



 しかし、そんな栄光もただ糊口(ここう)を凌げればと考える孤児たちにとってはどうでもいい事だ。真面目に勉強して、身を清めて、折檻(せっかん)さえ受けなければいい。そもそも孤児で聖女になった者など今までいなかったのだから、真面目にやるだけ馬鹿を見る、と。


 それはエルシーも例外ではなかった。聖都に生まれて聖女を目指す者たちに、エルシーはいつも冷ややかな視線を送っていた。



(死ぬために生きるなんてバカみたい。わたしはかしこく生きるんだから。今のうちにたくさんお勉強して、大人になって──わたしを捨てたお父さんとお母さんを見返すんだ)



 愚かな事をしたのだと。聖都で女一人で一人前に生き抜いて。子どもだてらにそんな野心で生き抜いてきた。むしろそうでなくては生きづらい。それがエルシーの心を支えるための処世術だったと言えた。


 楽なことばかりではなかった。こんな事も分からないのかと鞭を打たれた日もあった。

 聖女にならないように。けれど使い物にならない間抜けだとは思われないように。


 打算的で底意地が汚い。この薄汚い心の内を晒してしまえばこんな自分が聖女などと誰も認めないだろうとは思っていた。しかし、



「十八代目の聖女候補生筆頭は──エルシー・エバーライトである」



 運命が生まれてから彼女を味方した事などほとんどない。

 どうして。と思うよりも早く、世間は湧き立った。

 取り残された心は沈んだ未来に手を伸ばしたものの、押し付けられた現実がそれを拒んだ。



 あ。と思った時には泣いていて、だけどその心の雨漏りの塞ぎ方も分からなくて、悔しさと苦しみとが()い交ぜになり崩れ落ちれば人々は歓喜に涙したのだと謳った。


 何もかもが上手く行かなかった。わたしの人生はわたしのために生きる。そう決めたはずなのに。けれどそれはお日さまのように遠くて。


 燃えた野心が定めた理想の未来は残酷な現実が何食わぬ顔で摘み去って行った。エルシーの心の内を蔑ろに、聖都の民は魔女を討つ未来に胸を躍らせた。




 その夜のことをエルシーは一生忘れないだろう。自室に引きこもり、枕を濡らし続けた。知られれば鞭を打たれるかもしれないから、その慟哭を聞いたのもまた枕だけだ。


 ただひたすらに、悔しくて、けれどどうしようもなくて、周りの全てが死ねと口を揃えているのだ。張り合っていた孤児のみんなも「おめでとう(死んでくれ)」と冷ややかに笑う。

 エルシーが十二歳の時の出来事だった。



 やがて主役のいない宴も終わって皆が寝静まった頃。エルシーは言いつけを破り、初めて一人で院内を歩き回った。蝋燭もない暗闇の中、頼れるのはおぼろげに窓から差し込む月の明かりだけだった。


 目的なんてなかった。しかし孤児院にあるものなんてたかが知れている。そしてそのどれもがエルシーが目を通したことのあるものばかりだ。



(明日で、ここともお別れ……)



 明日になれば孤児院を引き払い、エルシーは大聖堂で暮らす。その前に見ておきたかった。自分が過ごしてきた場所を。普段日中では見ることのない深淵に潜む神像や教室はあまりに寒々しく、雲が光を攫うたびにエルシーの恐怖心を煽った。



「──ひっ」



 のけぞり、唾を飲んで後退(あとずさ)ると、エルシーはその背後に何者かがいる事に気付いた。息を呑んだ音が声に変わり、震える唇が「ぁ……」と声を漏らした時、



「こら、エルシー。ダメじゃないこんな時間に」



 その人物は暗闇からぬうっと現れた。緑の瞳をした栗毛の女性だった。



「ハルアせんせー……?」



 それは、エルシーの指導をしていた職員の一人。優しくて人柄が良いその女性の職員は、エルシーの信頼を勝ち得ていた数少ない大人の一人だった。


 部屋に連れ戻されたエルシーは、泣きながらごめんなさいと謝った。



「いいのよエルシー。どうしたの?」

「…………わたし、聖女(せーじょ)になりたくない……」



 嗚咽(おえつ)ながらにその心の内を晒せば、エルシーはハッとした。いくら優しいハルアであってもこればかりは咎められるのではないかと。しかしハルアは「うーん」とかわいく唸ると、



「エルシーがなりたくないならなんとかあたしが代わってあげたいんだけど、あーしってば余所者(よそもの)だしぃ、孤児院でもあんまり役立たずだしぃ、聖女にはなれなかったしぃ……」



 くるくると指先で遊んで気恥ずかしそうにした。そんなハルアにエルシーはパチクリと目を(しばたた)かせて、浮かんだ疑問を口にした。



「大人でもできないことがあるの?」



 エルシーが尋ねると、ハルアは「たはは……」と申し訳なさそうに笑った。



「むしろできない事ばっかり気付かされるのよ。今も、エルシーが困ってるのに、あたしは何にもできなくて……」



 ギュッと小さいエルシーを抱きしめるその体は、エルシーよりも震えていた。



「ハルアせんせーも、こわい?」

「……怖くない。悔しい」



 でも──とハルアは続けた。



「……やっぱり、怖い。エルシーと逃げてあげられる勇気がない、自分が怖い」



 ハルアの声はひどく揺れていた。そのなんとも頼りない大人の背中を、エルシーはぽん、ぽんと優しく撫でた。



「エルシーいい子にするから。そしたらハルアせんせーもだいじょーぶ?」



 エルシーがそう言うと、ハルアはピタリと震えることをやめた。そして、小さく震える唇で肺の空気を絞り出してから、



「……あたし、バカだ。こんな小さい子に気を遣わせて」



 そう言って目元を袖口で擦った。エルシーが不思議そうに首を傾げると、ハルアはその目の緑を滲ませたままエルシーと向き合った。



「エルシー、冒険譚(ぼうけんたん)は好き?」



 ハルアがこっそりエルシーに読み聞かせていた本のジャンルだ。



「……うんっ!」



 エルシーが頷くと、ハルアは口元に指を立ててイタズラに笑いながらウィンクした。




 ──それからすぐに孤児院は慌ただしくなった。職員と聖女候補の少女が消えたからだ。


 憲兵が出て、騎士まで出張って慌ただしくなれば、ハルアもエルシーもただただ路地裏に隠れるばかりで、大して身動きが取れなくなっていた。



「あはは……やっぱあーしって主人公向いてないわ」

「ハルアせんせ、やっぱりもどる?」



 エルシーが尋ねるとハルアは「まさか!」と突っぱねた。



「こういう時こそ気分がアガるっしょ……!」



 冷や汗を掻きながら無理矢理歯を見せて笑っている姿は誰の目にも空元気だ。エルシーも幼いながらにそのなんたるかを察知していた。



(わたしのせいで、ハルアせんせーがこまってる……?)



 困らせたいわけではなかった。エルシーにしてみればワガママを言ってしまってハルアの立場を危ぶませるつもりなど微塵もなかった。


 いくら年端も行かぬ子どもと言えど、普段聖都を守っている憲兵や騎士から見つからないよう立ち回っているのだ。エルシーだってそのくらいの分別はついていた。



(わたしのお願いって、そんなにむずかしいのかな……)



 エルシーは一人(うつ)いた。不安で前を見ることができなかった。全て諦めてしまえば楽かもしれない。……そこへ影が一つ落ちた。



「……大丈夫だよ、あーしを信じて」



 頭の上に乗る大人の手。優しく輪郭をなぞったその手はとても温かくて、エルシーは自分に母がいたらこんな感じかもしれない、と触れた手を愛おしそうに握った。

 ──そこへ、



「手間が省けたな」



 一人の男が現れた。いかにもな雰囲気を纏う怪しいその男は、黒い外套を頭までずっぽりかぶってその顔のあることを隠してはいるものの、首元から引っ提げた蛇の巻いた五芒星の紋章は聖都の者から見れば誰の目にも明らかな狂信者だった。



「……魔女宗派」

「話が早いな。……その子を渡してもらおう」



 差し出された手とその声は穏やかだったものの、断れば命はないという強制力のある刃物が袖口から牙を覗かせていた。ハルアはエルシーをギュッと抱き寄せて屈むと、その耳元で小さく呟いた。



 ◇



「──。────」「……おい何をしてる、早くしろ」



 男が詰め寄ってきた途端、ハルアはエルシーの背中を叩いた。それを合図としてエルシーは細い裏道へと一目散に駆け出していった。



「行って、エルシー!」「なっ、くそっ!」

「おりゃー!」「痛っでぇ!」



 近くにあったささくれた棒を拾い上げたハルアは、それを眼前の自分を無視してエルシーを追いかけようとした男の向こう脛に力一杯叩きつけた。



「わっ!」「この、(アマ)……!」



 悶える男の頭に本を叩きつけて追撃したハルアだったが、そんなもので大の男は倒せない。ハルアは男に対する警戒をそのままに、エルシーの消えた路地裏を尻目に小さく呟いた。



「エルシー……無事で──」



 ◇



 エルシーはハルアの言葉を受けて走り続けた。途中で転けて泥まみれになることはあっても、決して泣かなかった。



 ──あたしが足止めするから、エルシーは行って。騒ぎを聞きつけて衛兵も来るはずだから、逃げやすくなるはず。絶対振り返らないでね。



 それが、ハルアが告げた言葉。エルシーは言いつけを守り、振り返らなかった。途中、獣かと思うほど恐ろしい悲鳴が聞こえてきた。肩を跳ねさせても腕を振ることをやめず、目尻まで許した涙も溢れる事を許さず、靴が脱げて足が擦りむけても走り続けた。



「あぅ……!」



 しかしそれも限界だ。人々が歩きやすいようにと整備された石畳は本来靴を履いている事を前提としている。血の擦れた床は少女の痕跡を残し、もはや小さな足はこれ以上の逃走を拒否していた。



「ハルア……」



 置いてきたハルアが気がかりだったのも事実だが、震える唇が名を呼んだ理由。今は助けを求める意味合いが強かった。


 目の前にいる深淵を纏った犬。それがただの野犬であっても致命的だが、魔女の使い魔となれば絶対絶命と言っていい。それが唸り声を上げて一歩、また一歩静かに詰め寄り敵意を剥き出しにすると、エルシーが手を伸ばした先にあるバケツを鳴らした途端に駆け出した。



「ハルアぁあーッ!」



 叫び声に反応して飛び上がったその使い魔は──



「そこまでだ!」



 凛とした声が響いたかと思うと、どしゃりとその場で床に転げ落ちていた。顔には大針が突き刺さっており、その視界を奪っていたのだ。



「お怪我はありませんかー、エルシーちゃんー?」

「だれ……?」



 間伸びした声でエルシーに駆け寄ったのは絶世の美女。亜麻色の髪をしたその美女は男女問わず万人を虜にする芳顔(ほうがん)を緩めた。



「はーい。みんなの聖女、十七代目のエルメスちゃんですよー」



 エルメス。エルシーも聞いたことがあった。任命された聖騎士と辺境の村を襲った魔女を撃退したことがある聖女がいると。また、嘘を見破る才能に長け、聖都での魔女宗派検挙率が歴代一位であると。更に、その聖女を守護する凄腕の騎士がいるとも。



(じゃああの人が──ソフラさま?)



 稀代の聖騎士ソフラ=フィラ・アルクシス。大針を投擲(とうてき)する独特な戦闘スタイルで剣術、体術のどちらにも精通し、女だてらに単身で魔女見習いも討ち果たした生ける伝説だ。


 もはや視界を失い為す術も無くなった使い魔の心臓に細剣を突き立て血を振り払ったその淑女は「ああ、ご無事でしたか」と温かな低音でエルシーに語りかけると周囲を一瞥(いちべつ)した。



「どうやら一匹だけのようだね。はぐれということは魔女宗派──先ほどの男の仕業か」



 推論をこぼして敵影のない事を確認すると、ソフラは新品の布を使って細剣に付いた血を拭き取った。

 やっと訪れた身の安全に胸を撫で下ろしたエルシーだったが、途端に訪れた冷静さに背筋をなぞられた。



「ハルアッ!」「おっと」



 叫んで走り出そうとして、エルシーはフラついた。もつれたわけでもなく、ただ刺すような痛みが足を引っ張った。じわりと厚い皮をめくって露わにされた肉が、限界を訴えていた。



「あらあらー……ソフラー?」

「ええ、もちろん」



 見かねたソフラがふわりとエルシーを抱きかかえると、青い瞳で二つの海色を捕まえた。



「何があったか聞かせてもらえるかい?」

「えっと、あの……」



 言ってしまえばハルアはどうなるだろう。自分を助けるために残ったハルアを売るような恩知らずにはなりたくない。言語化できずとも、そんな思いが先に来たエルシーは、



「ハルアせんせーを、助けて……」



 逃亡を、諦めた。

 かいつまんで事情を説明された二人は案内されるがままハルアの元へと立ち戻った。



 ◇



「ハルアせんせー!」

「エルシー⁉︎」



 現場は気を失った男の身柄が確保されたところで、参考人が手当てを受けていたところにエルシーが泣きついた。その参考人であるところのハルアといえば「なんで戻ってきたの」と小さな声でピシャリとエルシーを叱りつけた。



「ごめんなさい……」

「あのー、失礼ですがー……詳しーいお話を、お伺いしてもー?」



 疑問系でありながら聖女であるエルメスの言葉は絶対的な強制力があった。その隣にいるのが稀代の聖騎士であるソフラであるなら尚更だ。ハルアは諦めたように「たはは……」と自嘲気味に笑った。



「上手くいかないねー、ほんと……」



 悩んだように(うつむ)いたハルアが「実は──」と(おもて)をあげて切り出そうとした時、



「ハルアせんせーが助けてくれたの」

「エルシー……?」



 エルシーが庇った。正確には嘘を付いてはいない。ただし、その切り抜き方は、あまりに都合が良すぎる。ハルアはエルシーの賢さに舌を巻いた。



「……ほう」



 それを見透かしたようなソフラの眼差しは、あまりに鋭く厳しい。しかし噂が確かなら嘘を見破れるエルメスには分からないはずだった。それを追求しようとしているのは、ソフラの長年の勘が冴えているからだろう。このまま黙っていれば立場が危うくなることはない。けれど、



「すみません、あたしがこの子を孤児院から連れ出しました」

「ハルアッ⁉︎」



 この子に恥じない大人であろう。だからこそハルアは真実を話した。秘密をあっけらかんと明かされ食い下がるエルシーに、ソフラは「こら」と優しく頭を小突いた。



「先生、ね?」



 クスッと笑いながらその頭を小突くハルアの実直な態度にソフラは目を丸くした。きっと煙に撒かれると思っていたソフラからすれば寝耳に水だったであろう。そんな珍しい表情を覚えたエルメスは、自分の聖騎士に「ふふふ」と笑った。



「一本、取られましたねー。貴女が今何を考えてるか、わたしには分かりますよー」



 意地悪に笑う聖女は古くからの悪友のようだ。細い指先でつんつんと脇腹を突かれると、ソフラは「むう……」と口を尖らせた。



「ハルア殿。少し来ていただきたい」

「……はい」



 決意めいた緑でしっかり目を見据えてきたハルア。今度はソフラが砕けた笑みを見せた。



「別に取って食いはしない。決して悪いようにはしないからエルシー様も安心してほしい」



 柔らかな低音が二人の鼓膜を優しく撫でると、二人はホッと息を漏らした。



「──ふむ、見張りもいないね」

「わたしも悪い友達を持ちました」



 はあ、とわざとらしいため息をこぼすエルメスにソフラは「茶化さないでくれ」と睨みを利かせた。



「ハルア殿」「……はい」



 ついに、とハルアは固唾を飲んだ。どんな罰も甘んじて受け入れるつもりだった。聖女を危険に晒すとはそういう事だ。人類の希望を奪う事。ハルアは瞼を閉じて断罪の時を待った。ハルアの袖口を掴むエルシーの手が強く握られた時、



「行きたまえ」

「え?」



 柄にかけられていた手はその剣を握る事なく、そこから離れて裏門を案内していた。目を(しばたた)かせて呆けるハルアに、ソフラは「ただし」と続けた。



「エルシー様は預からせていただく。それが私にできる最大限の譲歩だよ」



 間の抜けた顔で固まるハルアに、ソフラは勘互いはするなと言わんばかりに言い放った。まさか自分だけが助かる結末になるなどとは思っていなかったハルアからすれば腰が抜けるのもまた道理で、体を支えられずにへなへなとその場に座り込んでしまった。



「ハルアせんせ?」

「あは、あははは……そっか。エルシーはダメか……」



 安心と、断念。突きつけられた現実にホッとしている自分が許せず、ハルアは唇を噛んだ。



「すみません、エルシーと二人で話がしたいです」

「ダメだ、見張りが戻るまでの時間が──」



 そうソフラが言おうとした時、



「いいですよー」



 エルメスが軽い調子で承諾した。ソフラが「おい」と咎めようとすると、その聖女は舌を出すだけで何も言わずに大通りへ向かった。



「おい、エルメス」

「ダメですよー、ソフラ」



 ソフラが声をかけるとエルメスは振り返った。その空色の瞳はどこか憂いを帯びていた。



「私たち聖女には心の準備がいるんです。少しのワガママは許してあげてね」

「エルメス……」



 遠い過去に想いを馳せる瞳がその瞼にしまわれると、ソフラは何も言えなくなっていた。そんな二人の計らいに感謝しつつ、ハルアは真摯(しんし)な眼差しでエルシーを捉えた。



「エルシー、よく聞いて」

「はい、先生」



 教育係として接していた頃のような、凛としたその声に、エルシーは思わず背筋を伸ばしていた。そして続いた言葉は──



「ごめんなさい」

「……え?」



 突然の謝罪に、エルシーは戸惑いを覚えた。下がり続ける頭に少しの居心地の悪さを感じたエルシーは「謝らないで!」と続けた。



「せんせー悪くないもん……。悪いのは、ワガママなわたし……」



 今度は落ち込んでエルシーが俯くと、ハルアは顔を上げてその額を指で(つつ)いた。



「悪いのはあたし。もう聖都には住めないから、エルシーを守れなくなっちゃう」

「えっ……ハルア先生、行っちゃやだ……」



 ギュッと袖口を掴んで離さないエルシーに、ハルアは困ったように笑った。



「それでも行かなきゃ。これはあたしのケジメ」

「それじゃあ、わたしも悪いことしたんだから、一緒に──」



 エルシーが言い切るよりも早く、ハルアは首を横に 振った。



「エルシーにはやることがあって、あーしはそんなエルシーをそこから助けられなかった。エルシーが大きくなって、旦那さんとか言って男の子連れてくるの、見たかったなあ……」



 それは叶わないのかもしれない、とありうべからざる未来を明後日の方向に見たハルアに、エルシーはくすんだ声で縋った。



「行っちゃうの……?」

「……うん。だから、ごめん」



 しっかり笑っているはずなのに。だけど目頭は熱くなって。それがこぼれて、息が溢れて。けれど確かに、曲げられない意思を乗せて、声が震えないように。ハルアは手にしていた物をエルシーへと手渡した。



「……これ」



 それは本だ。角はへこんでいるが、装丁はまだ真新しい。



「あーしが渡せるのは、もうこれしかない。ほんとは、こっそり書見台で読もうと思ってた新刊なんだけど、エルシーにあげる」



 孤児院にはもう戻れない。手持ちの荷物で餞別(せんべつ)になるのは、抜け出す時に持ってきたこの本だけだ。



(カッコ悪いなあ……こんなんじゃ)



 ぐしっと袖口で目元を拭ったハルアは、今日一番飛び切りな笑顔で。



「いつか必ず迎えに行くから。待ってて」

「そのまえ、に……白馬の王子さまが、むかえに来るもん……」



 それは、ハルアが寝る前に読み聞かせていた物語だ。

 寂しさに憎まれ口を叩いたエルシーに、ハルアは「こいつぅー」と頬をつねった。



「先輩の言う事、ちゃんと聞くんだぞ」



 ちらりとエルメスを見ると、その現役の聖女はヒラヒラと手を振った。



「知らないもん……ハルア、ここにいてよぉッ!」



 悲痛な叫びだ。それこそ声帯を擦り切るような、少女の年相応の駄々だ。ハルアはその少女の頬を愛おしそうに撫でた。



「ごめん。でもね、エルシー。覚えておいて」

「いけません、人が来ました」



 エルメスの低く警戒した声を聞いたか聞いていないか。ハルアは、



「あなたに死んでほしくない人もいるんだって事、ちゃんと覚えておいて。これは、あたしの一生のお願い」

「一生の、お願い……」



 そんな願いを託して、言葉を反芻(はんすう)した少女を残して──裏門へと駆け出した。



「待っ──」



 駆け出したハルアの後ろでどしゃっと痛々しい音が聞こえた。力強い泣き声がその後ろ髪を引いてもハルアは振り返らなかった。いや、振り返れなかった。ハルアはまたいつか必ず戻ると誓い、涙の導を残した。



 ◇



 残されたエルシーはといえば、(ひとえ)に泣きじゃくるばかりだった。泣いて、喚いて、けれどそれは届いて欲しい人には届かなくて。


 それからのエルシーの日常は劇的に変わっていった。元々聖女が存命中に実戦経験のある聖女とが言葉を交わせる事自体が非常に稀で、エルシーはエルメスに師事する事となった。大聖堂に移り住み、エルメスの指導を受け、やがてエルシーは稀代の聖女と呼ばれるまでに成長した。自分の中で理想の大人像であるハルアに近づくため、喋り方を真似れば怒られたが、エルメスとソフラの二人だけは認めてくれた。



 真面目にしていればいつかハルアが帰ってくるのだと信じて待ち続けた。けれど、季節が幾度巡っても、エルメスが務めを果たしても、ハルアが帰ってくる事はなかった。



(ハルアは、あたしを忘れちゃったのかな……)



 そうこうしている間に、聖騎士の選抜戦が始まった。もはやエルシーに残された道は自身で口にした白馬の王子様が現れる事を待つだけだった。



 そんな時だった。エルシーは騎士養成所に強い余所者がいるという噂を聞いた。最初こそ興味など無かったが、緑の目をしていると聞いてからは首ったけだった。



 ──綺麗な銀髪と、綺麗な目。目はハルアみたい。カッコいいー!



 それが、エルシーが初めてジンを見た時に思った事だった。余所者だった彼が活躍すれば、エルシーはどこかでハルアの姿と重ねて喜んだ。



「君と(おんな)じ色だねー」



 近くでクルクル回る妖精に語りかけると、その緑を帯びた光の玉は頷くように上下した。



「あれ、そういえば君っていつからいたっけ?」



 エルシーがそう言うと、妖精はガッカリしたように下降する。



「ま、いっか。ジンくん……ジンくんかあ」



 名前を聞けばときめいた。あたしを、わたしを、この地獄からハルアみたいに、今度こそ救ってくれるかもしれない。


 そう、ハルアみたいに────。





 そんな、夢を見ていた。甘く、悲しい夢だ。なんとも自分が憎らしくて、馬鹿らしいと、エルシーの目からつうっと涙がこぼれた。


 自分の叫びの全ては大理石に飲まれ、大聖堂には魔女の下卑(げひ)た笑いだけが闊歩(かっぽ)する。

 自分を見る青年の目はひどく同情的で、けれど聖都の人たちと少し似通っていて。どこか割り切りのこもった感情が大好きな色で射抜いてくる。エルシーの心は、容易く決壊した。



「あ、ぅ……ワァアぁッ‼︎」



 エルシーはただ立ち尽くしたまま子どものように泣いた。隣にニールのいる事も忘れて。


 誰かのために死んでくれ、なんて割り切れるはずがなかったのだ。弱冠十とそこそこしか生きていない少女に、それは酷な話だ。生きていたかったから。


 まだ本当の両親も知らない。ハルアにも会いたい。恋もしたい。生きていたい。これほどまでに欲にまみれた自分の何が聖女かと、エルシーは、ただ泣いた。

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